十月一日、金曜日。②
文字数 6,275文字
校舎の外に出ると、同じ制服を着た人影はほとんどなかった。まだ部活が終わる時間ではないからだ。おかげで少し目立つけど、今はそんなことを気にしてはいられない。
校門を出て左に、颯爽と歩いてゆく。
「おい待てよ、舞っ!」
嗣斗の声が追ってきたから、振り返らずに応えた。
「どうせ追いかけてくれるなら、輝臣先輩がよかったな~」
「おまえな……って、どこ行くんだ? おまえの家、そっちじゃないだろうが」
「だって家に向かってるんじゃないもん」
「じゃあどこ行くんだ?」
「…………」
その問いには答えずに歩いていると、嗣斗が隣まで走ってくる。そして話を変えた。
「おまえさ、なにいきなり部室から逃げてんだよ。愛しの輝臣センパイが、目を白黒させてたぜ?」
ため息混じりに告げる嗣斗。
わたしはチラリと後ろのほうを見てみたけど、追ってきたのはやっぱりこいつだけみたいだ。
(まあ、そうよね。輝臣先輩は特に、遠慮しそうだし)
悔しいけど、まだまだ気持ちは通じていない。通じあっていない。
「あんたなんかに、わたしの繊細な乙女心がわかってたまるもんですか! だいいち、先輩はもう、わたしの変なとこたくさん見てるんだから、今さらな話よっ」
わたしは完全に八つあたりで、声に気持ちを滲ませて答えた。
嗣斗も多分それに気づいているのだろう、肩をすくませてから、何事もなかったかのように話をもとへと戻す。
「あの探偵 のとこ、行くのか?」
「あんたには関係ないでしょー?」
「ある。俺はおまえの母親に頼まれてんだ。ちゃんと見張っとかないと、おまえの母親から俺の母親に苦情が来て、結局俺が怒られる仕組みになってんだからな!」
そこでわたしは、隣にある顔を強く睨んでやった。
「――あんた、だからってセ イ ち ゃ ん のこと、うちのお母さんに言ってないでしょうね!?」
「言ってない、言ってない。『絶対言うな。言ったら絶交』って言ったのおまえだろ? おまえの『絶交』がどれくらい酷いもんなのか、知ってんのに言えるかよ」
嗣斗がそう苦笑気味に告げたのは、小学生の頃にもう経験していたからだ。
(きっかけは、嗣斗がわたしにお父さんがいないことをからかったから、だっけ)
父はわたしが六歳の頃に他界している。わたしは今十六歳で、この歳になってもまだ、母から詳しい話を聞いたことはないのだけど、父は刑事だったからなにか事件に巻きこまれて亡くなったのかもしれない。勝手にそう思っていた。
こんなご時世で、片親なんて全然珍しいことではなかったから、わたしは嗣斗にそれを言われるまではあまり気にしたことがなかった。でも、改めて『一般的な家族』とは違う現実を突きつけられたとき、悔しくて仕方がなかったのだ。
(だってそれは、わたしにはどうにもできないことだもの)
わたしがいくら頑張ったところで、父が生き返ることはないのだから――。
「……悪い、余計なこと思い出させたな」
低いトーンで届いた声音に、わたしはいつの間にかさがっていた視線をあげる。
嗣斗の横顔は、珍しく反省の色を見せていた。
それがあまりにもらしくなくて、わたしはつい笑ってしまう。
「なに言ってるの!ど う せ こ れ か ら セ イ ち ゃ ん の と こ 行 く の に 」
「……やっぱりか」
嗣斗が「探偵」と呼び、わたしが「セイちゃん」と呼ぶその人は、三池誠 ――父の弟だ。つまり、わたしの叔父にあたる人物。そんな人を目の前にして、父のことを思い出さないわけがない。
(ま、当時六歳だったわたしが憶えてることなんて、ほとんどないんだけどね)
セイちゃんにしたって、かなり早い段階で父親――わたしから見れば祖父ね――から勘当されていたようで、わたしの父ともずっと会っていなかったらしい。だからなのか、セイちゃんと一緒に過ごしていても、父を感じることはほとんどなかった。
それでもわたしがセイちゃんの探偵事務所に通いつめているのは――
「あんなとこ行って、なにが楽しいんだ?」
心底不思議そうに首を傾げた嗣斗に、言ってやる。
「あんたってほんと馬鹿ねー。あそこには、わたしと輝臣先輩を繋ぐ『話の種』がたくさんあるじゃない! おまけに、大 人 のセイちゃんに恋愛相談までできるでしょ? わたしが輝臣先輩とこんなに仲よくなれたのは、セイちゃんのアドバイスのおかげだって、あんたも知ってるくせに」
そう、「文化祭に行ってみたら?」とか、「同じ部に入ってみたら?」とか、悩むわたしの背中をしっかりと押してくれたのは、いつもセイちゃんだったのだ。そしてその様子を、嗣斗も見ているはずだった。
しかし嗣斗は、どこか不満げに応える。
「そうかぁ? どっちかと言えば、おまえの火事場のクソ力的な行動力のおかげだと思うけどな」
(そういえば嗣斗って、セイちゃんのこともあんまり好きじゃないみたいなんだよね)
でもそのわりに、毎回律儀についてくるのだから、本当に変なやつだ。
「とにかく! ついてくるならおとなしくしててよね。さっきみたいに、余計な口は挟まないこと!」
「へいへい」
全然守る気がないような返事ではあったけど、これ以上言ったところでどうせ無駄だろう。それに、『琴田 探偵事務所』の看板はすでに見えていたから、残りは口を噤んで歩くことにした。
セイちゃんが所長をしているその探偵事務所は、わたしや嗣斗の家とは反対方向にある。でも学校からだとかなり近いので、わたしは毎日のように寄って帰っていた。
えんじ色をした小さなビルに近づき、二階への階段をのぼってゆく。狭い空間なので、ふたり分の足音は大きく響いた。
すると、階段のいちばん上に辿り着く前に、ギギィとドアが開く音がする。
「やぁいらっしゃい、ふたりとも」
できた隙間から顔を出したのは、セイちゃんその人だ。男性にしては珍しく腰まである長い髪が、やっぱり珍しい焦げ茶色のスーツに垂れている。切れ長の目はいつも、糸のように細められていて、黒目はほとんど見えなかった。滅多に怒鳴ったりしない、本当に穏やかな人。
そんな、すぐ人に騙されそうなセイちゃんが営む探偵事務所には、なんと他の職員がひとりもいないため、いつもこうしてセイちゃん自身がお客さんを出迎えている。そのサービス(?)が結構好評らしく、とりあえず食うには困らない程度の仕事はあるのだと、以前セイちゃんが笑いながら話してくれた。
「セイちゃん、今日も大丈夫?」
優しい笑顔に跳びつくかのように、わたしは残りの段差を駆けあがっていく。
その勢いがおかしかったのか、セイちゃんは小さく苦笑してから答えた。
「ええ。今日も 、大丈夫ですよ。依頼のあった仕事は、午前中で終わらせましたから」
「さっすが、敏腕~」
事務所のなかへと促してくれるセイちゃんの背中を追いかけて、一緒に入ってゆく。
その後ろから、当然のように嗣斗もついてきて一言。
「たんに仕事が少ないだけだろ」
わたしに睨まれるとわかっていて、あえて言ったのだろう。
(その度胸は買ってやるけど!)
首だけ振り返って視線 ビームを送ったら、嗣斗はすぐに観念したように両手をあげた。
そこに追い打ちをかけるのは、心から感心したように告げる、セイちゃんの声。
「おや嗣斗くん、よくわかりましたねぇ」
その切り返しには、さすがの嗣斗も返す言葉を探せなかったのか、そのまま両肩をすくめていた。
(さ、さすがセイちゃん、大人の余裕!)
たんに天然なのかもしれないけど、面倒だからそういうことにしておこう。
もう何度も遊びに来ているわたしたちは、勝手にずんずんと部屋の奥まで進んでいく。いちばん奥にある大きな窓からは、徐々に沈みはじめた陽が差しこんでいた。その光を取り囲むように、壁に沿って造りつけの本棚が並んでいる。ここが探偵事務所だと知らない人が見たら、書斎か書庫だとでも思うことだろう。
そんなふうにたくさんの本や書類に囲まれ、わたしたちが腰をおろしたのは、所長デスクの手前にある応接ソファだった。黒革の高級そうなこのソファは、座り心地が最高によくて、実はかなり気に入っている。
(部室のパイプ椅子とは大違いよね)
どうせなら輝臣先輩とも、こういう柔らかいソファの上で寄り添って座ってみたいところだけど――哀しいことに、今隣にいるのはすっかり見飽きた顔の嗣斗だ。見飽きたどころか、若干がっかりさえするくらい。
「……? なんだよ、人の顔じろじろ見て」
自分の膝に頬杖をついて、妄想しながらじっと眺めていたら、嗣斗は珍しく戸惑ったような声をあげた。顔も少し赤いようだけど、そんなふうにされても全然かわいくない。
「あんたもさぁ、輝臣先輩くらい見飽きない顔だったらよかったのにね」
「よ、余計なお世話だ! つーか、俺あの顔嫌いなんだ。それに、言っとくけどな、舞。俺と輝臣のどっちが格好いいか、百人に聞いたら多分七十人くらいは俺って言うはずだぜ? いい加減、おまえの好みのほうが変なんだって自覚しろよ」
「それこそ余計なお世話よ。あんたの顔って、いかにも日本人的すぎるんだよね」
「日本人なんだから正しいだろ!?」
「でも輝臣先輩はほら、北欧辺りの人みたいじゃない? だから先輩の周りだけ風が違うんだよ。――あ、もちろん先輩の顔だけを好きになったわけじゃないけどっ。ついでに先輩がハーフとかじゃないことも確認済み!」
「そんなん訊いてないし、どうでもいい」
「あら、遠慮しないで訊きなさいよ。三十回くらい聞いてもイ イ 話 でしょ?」
「正直もう五十回は聞いてると思うぞ……」
「いちいち口答えしない!」
そこまでコントが終わったとき、セイちゃんが飲みものを運んできてくれた。
「確か、出逢いは図書室、でしたよね」
前屈みになってカップに入った紅茶を配りながら、セイちゃんは視線で先を促してくれる。
(セイちゃんなんて百回くらいは聞いてそうなのに!)
それでもまだ喋らせてくれるのだから、本当にありがたいことだ。
「そうなの! わたしが中一で、輝臣先輩が中三のとき、偶然図書委員会で一緒になって――」
教科書以外に読むものなんて、漫画くらいしかなかったわたしは、じゃんけんで負けて図書委員にされてしまったことがとても悔しかった。当然、真面目に役目をこなそうなんて微塵も思っていなかったのだ。
しかし、当時図書委員長だった輝臣先輩は、わたしをひと目見るなりそれを見抜き、説教をかましてくれた。
『キミ自身が本に興味がないのはわかるけど、興味があって本を借りたい人は、キ ミ が い な け れ ば それも叶わないんだ。キミだって、自分の楽しみを他人に邪魔されたら嫌だろ? まして、本を借りに来る生徒は借りられて当然だと思ってやってくるわけだ。本来あたりまえに借りられるはずのものが、誰かのわがままで借りられなくなっていたら、キミはどう思う?』
そのわかりやすいたとえを聞いて、わたしはかなり感心したものだった。
実際には、わたし以外にもたくさんの図書委員がいて、わたしひとりが不真面目なくらいでは貸し出しが滞ることはないだろう。
それでも――
(「キミがいなければ」って、その言葉が胸に刺さったんだ)
これまでの人生で、初めて言われた言葉だったから、無性に嬉しかった。胸が高鳴った。
傍にいたらもっと色んな言葉をもらえるかもしれないと思って、委員会の仕事を頑張って、輝臣先輩を観察しつづけているうちに、もう引き返せないくらいまで好きになってしまった。
(こういうのを、人柄に惚れるって言うのかな?)
「――輝臣先輩は、とにかく言葉がうまいんだよ。同じ話を語っても、先輩が語るとすごく面白く聞こえるの!」
「だからそれは、おまえがあいつに惚れてることが前提の話なんじゃないのか?」
「違うよ! 面白かったから好きになったんだもん」
「俺はあいつの話で笑えたことなんか、一度もないけどなぁ」
「そういう面白さじゃないの!」
「好 奇 心 を 刺 激 さ れ る という方向性の面白さですか?」
「そう、そうなの! やっぱセイちゃんはよくわかってるぅ~。あんたもこれくらい輝臣先輩のことを理解するまで、耳が腐るほどわたしの話を聞くべきよ」
「断る!」
紅茶を飲みつつ、そのときの流れで会話を進める。ここに来るときはいつも、こんな感じでま っ た り していた。わたしたちは仕事を依頼に来ているわけではないし、必要そうなことはいつも、セイちゃんのほうから提示してくれるから、それで充分なのだ。
「――ああ、そうだ。輝臣くんと言えば、彼が考えたがっていたというスマートフォンを使ったトリック、どうなりました?」
ほら、こんなふうに。
所長デスクからセイちゃんに促され、わたしは言いたかったことを思い出した。
「そうそう、それでちょっと、セイちゃんの意見も聞きたかったの! 実はね――」
さっき輝臣先輩が語っていたことを、そのまま説明する。ようは、『スマホの特性をどう生かすか』ではなく、『スマホの特性をどう殺すか』というところからのアプローチを考えている、という話だ。
すると、興味深そうに細い目をさらに細めて聞いていたセイちゃんは、「そうですね……」と呟きながら立ちあがる。
「考えかたの手助けになりそうな本がありますから、持っていってみてください」
セイちゃんはすべての本の位置を正確に覚えているのか、ためらいのない足取りで右側の本棚に向かっていった。
「おおっ、さすがセイちゃん! ――で、それってわたしが読んでも理解できそう?」
「またおまえ、本から知識仕入れて輝臣の気を惹こうとしてるだろ……」
「もちろん! 使えるものはなんでも使わなくちゃ!!」
こぶしをつくって意気ごんで告げると、嗣斗はわざとらしいため息をつく。
「あいつにとっちゃ、直接本渡してもらえるほうがありがたいと思うけどな」
「遠まわしに『説明が下手な馬鹿め』って言うのやめてくれる?」
「おまえがそれを否定できるなら考える」
「そんなの無理に決まってるじゃない!」
「威張るな」
「当然のようにあんたも手伝うんだよっ!」
嗣斗の両肩に手を置いて、逃がさないように力をこめた。
これも当然だけど、嗣斗の表情は完全に引きつっている。
「結局また、いつものパターンかよ……」
「諦めなさい、嗣斗くん。舞ちゃんの幼なじみに生まれてしまったときから、運命は決まっていたのですよ」
年代ものの分厚い本を片手に戻ってきたセイちゃんが、とどめを刺してくれた。
「笑えない冗談はやめてくれ、探偵」
「大丈夫ですよ、僕は笑いませんから」
「さあ嗣斗っ、帰って読みこむよ!」
「く……っ」
わたしとセイちゃんに笑顔で迫られて、嗣斗が首を横に振れるはずがなかった。
校門を出て左に、颯爽と歩いてゆく。
「おい待てよ、舞っ!」
嗣斗の声が追ってきたから、振り返らずに応えた。
「どうせ追いかけてくれるなら、輝臣先輩がよかったな~」
「おまえな……って、どこ行くんだ? おまえの家、そっちじゃないだろうが」
「だって家に向かってるんじゃないもん」
「じゃあどこ行くんだ?」
「…………」
その問いには答えずに歩いていると、嗣斗が隣まで走ってくる。そして話を変えた。
「おまえさ、なにいきなり部室から逃げてんだよ。愛しの輝臣センパイが、目を白黒させてたぜ?」
ため息混じりに告げる嗣斗。
わたしはチラリと後ろのほうを見てみたけど、追ってきたのはやっぱりこいつだけみたいだ。
(まあ、そうよね。輝臣先輩は特に、遠慮しそうだし)
悔しいけど、まだまだ気持ちは通じていない。通じあっていない。
「あんたなんかに、わたしの繊細な乙女心がわかってたまるもんですか! だいいち、先輩はもう、わたしの変なとこたくさん見てるんだから、今さらな話よっ」
わたしは完全に八つあたりで、声に気持ちを滲ませて答えた。
嗣斗も多分それに気づいているのだろう、肩をすくませてから、何事もなかったかのように話をもとへと戻す。
「あの
「あんたには関係ないでしょー?」
「ある。俺はおまえの母親に頼まれてんだ。ちゃんと見張っとかないと、おまえの母親から俺の母親に苦情が来て、結局俺が怒られる仕組みになってんだからな!」
そこでわたしは、隣にある顔を強く睨んでやった。
「――あんた、だからって
「言ってない、言ってない。『絶対言うな。言ったら絶交』って言ったのおまえだろ? おまえの『絶交』がどれくらい酷いもんなのか、知ってんのに言えるかよ」
嗣斗がそう苦笑気味に告げたのは、小学生の頃にもう経験していたからだ。
(きっかけは、嗣斗がわたしにお父さんがいないことをからかったから、だっけ)
父はわたしが六歳の頃に他界している。わたしは今十六歳で、この歳になってもまだ、母から詳しい話を聞いたことはないのだけど、父は刑事だったからなにか事件に巻きこまれて亡くなったのかもしれない。勝手にそう思っていた。
こんなご時世で、片親なんて全然珍しいことではなかったから、わたしは嗣斗にそれを言われるまではあまり気にしたことがなかった。でも、改めて『一般的な家族』とは違う現実を突きつけられたとき、悔しくて仕方がなかったのだ。
(だってそれは、わたしにはどうにもできないことだもの)
わたしがいくら頑張ったところで、父が生き返ることはないのだから――。
「……悪い、余計なこと思い出させたな」
低いトーンで届いた声音に、わたしはいつの間にかさがっていた視線をあげる。
嗣斗の横顔は、珍しく反省の色を見せていた。
それがあまりにもらしくなくて、わたしはつい笑ってしまう。
「なに言ってるの!
「……やっぱりか」
嗣斗が「探偵」と呼び、わたしが「セイちゃん」と呼ぶその人は、三池
(ま、当時六歳だったわたしが憶えてることなんて、ほとんどないんだけどね)
セイちゃんにしたって、かなり早い段階で父親――わたしから見れば祖父ね――から勘当されていたようで、わたしの父ともずっと会っていなかったらしい。だからなのか、セイちゃんと一緒に過ごしていても、父を感じることはほとんどなかった。
それでもわたしがセイちゃんの探偵事務所に通いつめているのは――
「あんなとこ行って、なにが楽しいんだ?」
心底不思議そうに首を傾げた嗣斗に、言ってやる。
「あんたってほんと馬鹿ねー。あそこには、わたしと輝臣先輩を繋ぐ『話の種』がたくさんあるじゃない! おまけに、
そう、「文化祭に行ってみたら?」とか、「同じ部に入ってみたら?」とか、悩むわたしの背中をしっかりと押してくれたのは、いつもセイちゃんだったのだ。そしてその様子を、嗣斗も見ているはずだった。
しかし嗣斗は、どこか不満げに応える。
「そうかぁ? どっちかと言えば、おまえの火事場のクソ力的な行動力のおかげだと思うけどな」
(そういえば嗣斗って、セイちゃんのこともあんまり好きじゃないみたいなんだよね)
でもそのわりに、毎回律儀についてくるのだから、本当に変なやつだ。
「とにかく! ついてくるならおとなしくしててよね。さっきみたいに、余計な口は挟まないこと!」
「へいへい」
全然守る気がないような返事ではあったけど、これ以上言ったところでどうせ無駄だろう。それに、『
セイちゃんが所長をしているその探偵事務所は、わたしや嗣斗の家とは反対方向にある。でも学校からだとかなり近いので、わたしは毎日のように寄って帰っていた。
えんじ色をした小さなビルに近づき、二階への階段をのぼってゆく。狭い空間なので、ふたり分の足音は大きく響いた。
すると、階段のいちばん上に辿り着く前に、ギギィとドアが開く音がする。
「やぁいらっしゃい、ふたりとも」
できた隙間から顔を出したのは、セイちゃんその人だ。男性にしては珍しく腰まである長い髪が、やっぱり珍しい焦げ茶色のスーツに垂れている。切れ長の目はいつも、糸のように細められていて、黒目はほとんど見えなかった。滅多に怒鳴ったりしない、本当に穏やかな人。
そんな、すぐ人に騙されそうなセイちゃんが営む探偵事務所には、なんと他の職員がひとりもいないため、いつもこうしてセイちゃん自身がお客さんを出迎えている。そのサービス(?)が結構好評らしく、とりあえず食うには困らない程度の仕事はあるのだと、以前セイちゃんが笑いながら話してくれた。
「セイちゃん、今日も大丈夫?」
優しい笑顔に跳びつくかのように、わたしは残りの段差を駆けあがっていく。
その勢いがおかしかったのか、セイちゃんは小さく苦笑してから答えた。
「ええ。今日
「さっすが、敏腕~」
事務所のなかへと促してくれるセイちゃんの背中を追いかけて、一緒に入ってゆく。
その後ろから、当然のように嗣斗もついてきて一言。
「たんに仕事が少ないだけだろ」
わたしに睨まれるとわかっていて、あえて言ったのだろう。
(その度胸は買ってやるけど!)
首だけ振り返って
そこに追い打ちをかけるのは、心から感心したように告げる、セイちゃんの声。
「おや嗣斗くん、よくわかりましたねぇ」
その切り返しには、さすがの嗣斗も返す言葉を探せなかったのか、そのまま両肩をすくめていた。
(さ、さすがセイちゃん、大人の余裕!)
たんに天然なのかもしれないけど、面倒だからそういうことにしておこう。
もう何度も遊びに来ているわたしたちは、勝手にずんずんと部屋の奥まで進んでいく。いちばん奥にある大きな窓からは、徐々に沈みはじめた陽が差しこんでいた。その光を取り囲むように、壁に沿って造りつけの本棚が並んでいる。ここが探偵事務所だと知らない人が見たら、書斎か書庫だとでも思うことだろう。
そんなふうにたくさんの本や書類に囲まれ、わたしたちが腰をおろしたのは、所長デスクの手前にある応接ソファだった。黒革の高級そうなこのソファは、座り心地が最高によくて、実はかなり気に入っている。
(部室のパイプ椅子とは大違いよね)
どうせなら輝臣先輩とも、こういう柔らかいソファの上で寄り添って座ってみたいところだけど――哀しいことに、今隣にいるのはすっかり見飽きた顔の嗣斗だ。見飽きたどころか、若干がっかりさえするくらい。
「……? なんだよ、人の顔じろじろ見て」
自分の膝に頬杖をついて、妄想しながらじっと眺めていたら、嗣斗は珍しく戸惑ったような声をあげた。顔も少し赤いようだけど、そんなふうにされても全然かわいくない。
「あんたもさぁ、輝臣先輩くらい見飽きない顔だったらよかったのにね」
「よ、余計なお世話だ! つーか、俺あの顔嫌いなんだ。それに、言っとくけどな、舞。俺と輝臣のどっちが格好いいか、百人に聞いたら多分七十人くらいは俺って言うはずだぜ? いい加減、おまえの好みのほうが変なんだって自覚しろよ」
「それこそ余計なお世話よ。あんたの顔って、いかにも日本人的すぎるんだよね」
「日本人なんだから正しいだろ!?」
「でも輝臣先輩はほら、北欧辺りの人みたいじゃない? だから先輩の周りだけ風が違うんだよ。――あ、もちろん先輩の顔だけを好きになったわけじゃないけどっ。ついでに先輩がハーフとかじゃないことも確認済み!」
「そんなん訊いてないし、どうでもいい」
「あら、遠慮しないで訊きなさいよ。三十回くらい聞いても
「正直もう五十回は聞いてると思うぞ……」
「いちいち口答えしない!」
そこまでコントが終わったとき、セイちゃんが飲みものを運んできてくれた。
「確か、出逢いは図書室、でしたよね」
前屈みになってカップに入った紅茶を配りながら、セイちゃんは視線で先を促してくれる。
(セイちゃんなんて百回くらいは聞いてそうなのに!)
それでもまだ喋らせてくれるのだから、本当にありがたいことだ。
「そうなの! わたしが中一で、輝臣先輩が中三のとき、偶然図書委員会で一緒になって――」
教科書以外に読むものなんて、漫画くらいしかなかったわたしは、じゃんけんで負けて図書委員にされてしまったことがとても悔しかった。当然、真面目に役目をこなそうなんて微塵も思っていなかったのだ。
しかし、当時図書委員長だった輝臣先輩は、わたしをひと目見るなりそれを見抜き、説教をかましてくれた。
『キミ自身が本に興味がないのはわかるけど、興味があって本を借りたい人は、
そのわかりやすいたとえを聞いて、わたしはかなり感心したものだった。
実際には、わたし以外にもたくさんの図書委員がいて、わたしひとりが不真面目なくらいでは貸し出しが滞ることはないだろう。
それでも――
(「キミがいなければ」って、その言葉が胸に刺さったんだ)
これまでの人生で、初めて言われた言葉だったから、無性に嬉しかった。胸が高鳴った。
傍にいたらもっと色んな言葉をもらえるかもしれないと思って、委員会の仕事を頑張って、輝臣先輩を観察しつづけているうちに、もう引き返せないくらいまで好きになってしまった。
(こういうのを、人柄に惚れるって言うのかな?)
「――輝臣先輩は、とにかく言葉がうまいんだよ。同じ話を語っても、先輩が語るとすごく面白く聞こえるの!」
「だからそれは、おまえがあいつに惚れてることが前提の話なんじゃないのか?」
「違うよ! 面白かったから好きになったんだもん」
「俺はあいつの話で笑えたことなんか、一度もないけどなぁ」
「そういう面白さじゃないの!」
「
「そう、そうなの! やっぱセイちゃんはよくわかってるぅ~。あんたもこれくらい輝臣先輩のことを理解するまで、耳が腐るほどわたしの話を聞くべきよ」
「断る!」
紅茶を飲みつつ、そのときの流れで会話を進める。ここに来るときはいつも、こんな感じで
「――ああ、そうだ。輝臣くんと言えば、彼が考えたがっていたというスマートフォンを使ったトリック、どうなりました?」
ほら、こんなふうに。
所長デスクからセイちゃんに促され、わたしは言いたかったことを思い出した。
「そうそう、それでちょっと、セイちゃんの意見も聞きたかったの! 実はね――」
さっき輝臣先輩が語っていたことを、そのまま説明する。ようは、『スマホの特性をどう生かすか』ではなく、『スマホの特性をどう殺すか』というところからのアプローチを考えている、という話だ。
すると、興味深そうに細い目をさらに細めて聞いていたセイちゃんは、「そうですね……」と呟きながら立ちあがる。
「考えかたの手助けになりそうな本がありますから、持っていってみてください」
セイちゃんはすべての本の位置を正確に覚えているのか、ためらいのない足取りで右側の本棚に向かっていった。
「おおっ、さすがセイちゃん! ――で、それってわたしが読んでも理解できそう?」
「またおまえ、本から知識仕入れて輝臣の気を惹こうとしてるだろ……」
「もちろん! 使えるものはなんでも使わなくちゃ!!」
こぶしをつくって意気ごんで告げると、嗣斗はわざとらしいため息をつく。
「あいつにとっちゃ、直接本渡してもらえるほうがありがたいと思うけどな」
「遠まわしに『説明が下手な馬鹿め』って言うのやめてくれる?」
「おまえがそれを否定できるなら考える」
「そんなの無理に決まってるじゃない!」
「威張るな」
「当然のようにあんたも手伝うんだよっ!」
嗣斗の両肩に手を置いて、逃がさないように力をこめた。
これも当然だけど、嗣斗の表情は完全に引きつっている。
「結局また、いつものパターンかよ……」
「諦めなさい、嗣斗くん。舞ちゃんの幼なじみに生まれてしまったときから、運命は決まっていたのですよ」
年代ものの分厚い本を片手に戻ってきたセイちゃんが、とどめを刺してくれた。
「笑えない冗談はやめてくれ、探偵」
「大丈夫ですよ、僕は笑いませんから」
「さあ嗣斗っ、帰って読みこむよ!」
「く……っ」
わたしとセイちゃんに笑顔で迫られて、嗣斗が首を横に振れるはずがなかった。