第3話 フェンリル 後編

文字数 3,563文字

俺の期待を裏切って、日を追うごとに雅矢の症状は深刻になっていった。どんどん獣能力が浸透していったのだ。普通の人間ではあり得ない速さで窓から逃げ出していったこともあったし、聴力が異常をきたして、3キロ離れた学校のチャイムがうるさいと耳を塞いで泣くこともあった。
そして、雅矢が雅矢でなくなる時間も増えていった。あるときは食事を手掴みで食べ、またあるときは名前を呼んでも反応しなかった。頼りにしたい母は一向に退院する様子がない。それはそれで心配だが、弟の様子が気になって見舞いには行けていない。どうしても雅矢を一人にはさせたくなかったから、この1週間バイトも学校も休んでいる。
もしかしたら、バイトをクビになるかもしれない。生活が大変になるかもしれない。だけど、そんなことはどうでもよかった。

そして、赤い瞳を初めて見たあの日から、二週間と三日経った日。雅矢はついに、俺を忘れた。

夕食のカレーを一緒に食べたあと。俺が食器を洗っていると、背後から声をかけられた。
「ねえ」
俺は蛇口を止めて振り返る。感情のない瞳が、こちらをまっすぐに射抜く。
「だれ?」
「え、なに?」
「だれ? あなた、だれ?」
「お前の兄貴だよ。悠矢だよ」
「あにき、いない。ゆうや、しらない」
「何言ってんだよ」
俺は頑張って笑いながらおさめようとするが、心の中では震えていた。泣いていた。
「しらない。だから、いらない」
言い終えた瞬間、雅矢は素早く俺に近づいた。あまりの速さに避けることもできず、容易に両腕を掴まれて動きを封じられてしまう。気づいたときには、右の上腕を噛まれ激痛が走っていた。
「痛っ!」
そのとき初めて、身をもって獣能力の威力を知った。振りほどこうにも、圧倒的な力の差に対抗できない。とうとう牙が皮膚に食い込み、流れ出る血が腕を染めていく。
「痛いってば! やめろよ!」
痛さのあまり涙まじりに懇願しても、全く応じる気配はない。不本意ながらも弟のみぞおちを蹴り上げ、ほんのわずかに緩んだその手を振り切って距離を置いた。壁に身をもたれ、痛みが引くのを待った。

みぞおちへの一撃が効いたらしく、弟は俯いて胸を押さえている。そして、口から垂れる血を両手で拭い、その手をじっと見下ろしている。
「血だ……」
正気を取り戻した弟の声は震えていた。血の量に驚いているのか、自身への恐怖からかはわからない。ただ、こちらを見上げたとき、涙が溢れていた。

「お兄ちゃん、ごめん。僕……ごめんね……」
たぶん、俺の方へ近づきたかったんだと思う。そばに来たかったんだと思う。けれどこれ以上傷つけまいと、雅矢はぐっと耐えてその場で泣きじゃくる。血がついたままの手で涙を拭うから、目の周りが赤く染まっていった。

「痛かったよね、ごめんね。僕、やっぱり、オオカミになっちゃうみたい。このままいたら、お兄ちゃんを食べちゃうかもしれない。また、痛くしちゃうかもしれない……だから……」
その先を言わないまま、雅矢はじっと俺を見つめた。ただひたすら、俺を見ていた。もしかしたら、その瞳に俺の姿を焼き付けようとしてくれていたのかもしれない。

俺は次の言葉を聞きたくなかった。何を言うか、わかっていたから。優しいお前が何を望むのか、わかりきっていたから。だけど、消え入るような声で、雅矢は言った。

「僕を……とめて……」

「雅矢……」

「僕は、これ以上、お兄ちゃんを傷つけたくない。だから、お願い」

お前のそういうところ、ずるいよ。俺がお前のお願いを拒否できないこと、知ってるくせに。


俺は両手を握りしめ、雅矢から視線を外さず一歩ずつ近づいた。そして目の前に立って、か細い首筋に両手を伸ばした。覚悟なんてできてない。できるはずがない。これが最善だとも思わない。何かを解決するとも、思えない。雅矢の願いを叶えたい。ただそれだけが原動力だった。

「悠矢兄ちゃん、」
雅矢は泣きながら笑っていた。
「ごめんね。ありがとう」
俺のほうこそ、ごめん。さよなら。俺の大事な弟。


雅矢がぐったりした後、ゆっくりと床に寝かせてその顔を見つめる。もう息はしていないが、今にも起きそうな穏やかなものだった。ゆっくり起きて、お兄ちゃんって、言ってくれそうな……。急に全身の力が抜け、重力にまかせて床にうずくまった。


「ああああああっ!!」


行き場を失った怒りが溢れかえる。叫びとなって、涙となって、一気呵成に溢れ出る。力一杯握りしめた拳に血が滲もうとも構わない。雅矢が耐えた痛みに比べたら、こんなの痛みのうちに入らない。その日を最後に、俺は一度も涙を流していない。


間も無くして母も息を引き取り、親戚のいない俺は寄る辺なく一人で生きていくことになった。学校も行かず、知り合いのいない町に移り、俺は完全に表の世界からいなくなることに成功した。そして独学で獣能力のことを調べながら、ひたすら働いてお金を貯め、戸籍を買い、「八竹徹」として生き始めた。しばらくして「八竹雅斗」に改名し、学歴と職歴も一流のものを飾りつけた。

あるときから、獣能力に関係する犯罪者のみを集めた刑務所の看守としてキャリアを積み始める。でっち上げの経歴にも関わらず、所長に気に入られていきなり看守長の座に着くことができた。そして、看守に必要な能力として、正規ルートで、つまり医師の許可を正式に得て獣能力を手に入れた。そのときには完成していた、オオカミの能力だ。
精度の高い聴力と素早い脚力に加え、強靭な牙と鋭い爪も有している。それらは猫の爪のごとく必要な時にだけ出し入れができるため、獣能力を発動させない限り見た目は普通の人間でいられるのだ。

看守長としての時間は実に楽しいものだった。ウワベは暴動や脱獄が起きないよう厳しく管理するエリート職員。その素顔は、受刑者と情報取引をする犯罪者。
子どもの頃から裏社会と隣り合わせだった経験が功を奏して、受刑者が対価として望むものが手に取るようにわかっていたから、やすやすと欲しい情報を収集することができた。
天下りで名ばかりの所長は仕事の一切を俺に一任していたので、出所日や刑期の改ざんなんてお手の物だった。もちろん金品を動かしたりもした。それでも俺に反抗しようとするものは、容赦無く顔面に爪を立てたし、首筋に牙を食い込ませたこともある。生殺与奪権を把握した俺のことを告発しようとする命知らずなやつも、歯向かう阿呆もいなかった。

俺が収集していたのは、非合法に獣能力の研究をしている人物や組織、その全てについてだった。弟の仇は全て消してやる。その誓いを胸に、どんなに危ない人物でも執拗に追い詰め、この手で葬り去ってきた。だが暗い世界を生きる人間が何人いなくなろうと、報道されず、警察も動く様子を見せなかった。
あるとき、有名な医薬品メーカーの役員が関係者であることを知り、そいつも例外なく消してやったが、報道するのはごく一部のメディアだけだった。そもそもオオカミの獣能力は広く普及していて、一般人でも組み込んでいる人が多いゆえに、そこを糸口として俺にたどり着くのは不可能だろう。
俺は誰にも捕まえられない。誰でもない俺に手を伸ばしたって、掴めるものは何もない。


あらかた情報収集を完了させたところで、また職歴を改ざんし今の職場に転職した。前職と違って、生ぬるい人間が働く平和な場所だった。簡単に人を信じる面々は、俺を寛容で分別のある人間と思い込んでいる。

***

「本田さん、今日はありがとうございました」
「いえ。誘ったのは私なのに、ご馳走になっちゃいましたね。次回は私に奢らせてください」
「ええ」
本田と八竹はお店を出て挨拶を交わした。腕時計を見るとゆうに十一時を回っている。
「本田さんは終電大丈夫ですか?」
「はい。結構遅くまである路線なので」
二軒目に誘われているのかもしれないという淡い期待を膨らませ、彼女は嬉しそうに八竹を見上げる。
「それは良かった。では気をつけて帰ってくださいね」
ものの五秒で期待は崩れた。八竹はすでに付近のバス停の方へと体を向けている。
「お疲れ様でした。また月曜日に」
引き止める暇も与えず、彼は会釈して去っていった。本田は大きなため息をついて、すぐさまスマホを取り出す。
「今日のお礼ついでに、次回の約束取り付けよーっと」



本田と別れた八竹は、ひと気のない暗闇の中を歩いていた。とある場所を目指しながら、仕入れたばかりの情報をスマホで確認する。彼の目論みどおり、勤務先のネットワークはセキュリティが脆弱で簡単にハッキングすることができた。そしてこのネットワークは、国家機関のそれとも繋がっている。

メガネを外し、整髪剤で固めていた前髪を手櫛で崩す。

「今宵も掃除を始めるとしよう」

八竹は右腕に手を当てる。これは願掛けのようなものだ。そこにはまだ、あの傷跡が残っている。


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