失意

文字数 4,807文字

「椋沢さん」

 五月の連休が明けたころ、深雪は部室で珍しく語気を荒げる朝妻に呼び止められた。入部以来毎日部室へ顔は出すものの、朝妻は先輩とはいえ何かを教えてくれたりするわけではなく、お互い自由に活動している。その朝妻が今日は叱るような口調で声をかけてきた。何事だろうと思いめぐらすも特に心当たりもなく、おそるおそる返事をする。

「はい」

「椋沢さん校内で無茶な勧誘してるでしょ、写真同好会の」

「へ? はあ、無茶ではないと思いますけど」

「無茶苦茶だよ。二年生や三年生の教室の方まで勧誘に来てるってぼくのところにも苦情が来てるんだよ。あのね、二年生や三年生が今から部活を変わるってことはかなりレアケースなの、わかる? 少なくとも椋沢さんみたいなのが勧誘に来たからちょっとやってみましょうってことにはならないの、わかる?」

「はあ」朝妻がえらい剣幕で少し早口になってまくしたてるので、深雪は口の緩んだ風船みたいな声を出すよりなかった。

「ぼくは穏やかに写真を撮りたいだけなの、わかる? だから同好会に降格されたこともむしろちょうどいいぐらいに思ってるわけ。それを椋沢さんが積極的に勧誘し始めるもんだから、写真部返り咲くつもりなのか、とか冷やかされるわけ。ぼくにはそういうの迷惑なの、わかる?」

「はあ、わかるような気もします」

「たしかに予算の少ない同好会でさ、こんな倉庫みたいなところでぼくと二人だけなんて嫌だという気持ちはわかるから勧誘するなとは言わないけどさ。誰でもいいから入ってくれっていう感じのやり方はやめてください。せめてちゃんと相手を見極めて入ってくれそうな人を誘うとかして、わかる?」

 逐一わかるかどうか確認するのは朝妻の口癖のようだ。

「あ、朝妻さんと二人なのが嫌ってことはまったくありません。それは誤解です。そうじゃなくてわたしは単に写甲に出たいから三人集めたいというだけなんです」

「まだそんなことを目指してるの? それも別にいいけど、ぼくは参加しないから出たいならあと二人誘って三人でやって。ぼくは頭数に入れないでね。これ遠慮してるわけじゃなくて本当に出たくないだけだから。拒否だから、わかる? 頼むよ」

「はい、わかりました」素直に返事をする以外なかった。朝妻は深雪に背を向けて作業に戻り、すぐに振り返って付け加えた。

「写甲、ぼくは出ないけど椋沢さんが出ることに反対はしてないから。写真同好会と関係なくやってもいいし。同好会としてやってもいいよ。こまっちゃんに協力してもらうのもかまわないからね」

 それだけ言い切ると朝妻は改めて深雪に背を向けてパソコンに向かった。

「ありがとうございます」

 深雪はその背中に向かってお礼を言った。朝妻はまっすぐに人形(フィギュア)の写真を撮りたいだけなのだろう。深雪はなんとなく、彼の言葉には裏表がないという印象を受けた。もうこれ以上朝妻に迷惑がかからないようにしようと思った。

 深雪の勧誘が写真同好会への勧誘から写真甲子園参戦のチームメイト募集という形に変わってまもなく、何も劇的なこともなく、騒ぐ人もまったくいないままに写真甲子園初戦の応募締切日が過ぎた。締切が過ぎてしまったという事実以上に、それを誰も気に留めないことが深雪にはショックだった。写真甲子園はこの小さな町ではかなり大きなイベントだ。それなのに地元の高校生がこんなに冷めていていいのか。いいはずがない。深雪にはその事実が腹立たしいというよりもむしろ理解できなかった。
 
 
「最近おとなしいな」

 放課後、運動場(グラウンド)で練習する運動部の様子を外から見るともなく眺めていた深雪に鞍本(くらもと) 海人(かいと)が声をかけてきたのは、初夏を迎えて北の町東川にも暑さがやってきた頃だった。少し体を動かせば汗ばむほどではあるものの、町から見える大雪山はまだまだ輝くように白く、雲一つない群青の空に映えている。

 深雪は折り畳んだ膝に肘を乗せて頬杖をつき、顔がひしゃげるほど重さを預けて運動場を眺めていた。目に入ってくる運動部員の動きは何の意味も持たず、耳に入ってくる彼らの掛け声も効果音として景色を支えているだけだった。遠く大雪の山々から吹いてくる透明な風が深雪の形状を確かめるように輪郭を撫でてゆく。

「どうしたんだよ、例の甲子園は」海人が深雪の隣に腰を下ろしながら言った。

「どうもこうもないよ。締め切り過ぎちゃって今年は初戦すら不参戦よ」深雪は岩のように姿勢を崩さぬまま、器用に顔だけで海人を見上げて答えた。

「そうか。入学直後からの大騒ぎで一躍全校生徒中一番の有名人に躍り出た椋沢さんも最近は鳴りを潜めてるってもっぱらの噂だからな」

「うそ、まじで? そんなこと言われてるのわたし。誰に?」頬杖を解いて立ち上がらんばかりの勢いで聞き返すと、顔は瞬時にあるべき形に戻ろうとする。

「うん、そうね、主に俺に」海人はミントの香りでもしそうな顔で答える。

「なんだよばか。もう、本気で焦るじゃない」

 浮かびかけた腰を再び芝生に下ろす。動いた時の逆回しで戻ったつもりなのに、微妙に元の姿勢とは違うようでおさまりが悪い。深雪はその場でもぞもぞと姿勢を直して落ち着きの良いポーズを探したけれど、さっきの大地とつながっているような状態には戻れなかった。

 海人は深雪の幼馴染で、小学校に上がる前からずっと一緒だった。同じ保育園に通い、同じ小学校へ上がった。そのまま同じ中学校へ進み、この春同じ高校へ入学した。海人は整った顔立ちで女子からの人気も高い。深雪はこの海人と、周りの女子が羨むほど仲が良かった。しかしおそらく出会うのが早すぎたのだ。もはやお互いに異性として意識するには親しすぎてほとんど姉弟のような関係になっていた。あるいは兄妹かもしれない。

 小学校六年間ずっと同じクラスというのがどのぐらいの確率で起こり得るのか深雪にはわからないけれど、さらに中学校での三年間も同じクラスで過ごし、同じ高校へ入学してみたらまた同じクラスになるというのはそうそうないことだろう。家も近所だし、母親同士がいわゆるママ友で、小学校に上がる頃には一緒にいることがごく自然な状態になっていた。

「そうだ。海人がいるじゃん」深雪が叫ぶように声を上げた。

「いるよ俺はずっと。何の話?」深雪の行動に慣れきっている海人は落ち着いて答える。

「だからさ、メンバー、写甲の」

「え? 締め切り終わったんじゃないのかよ。つい一分前にその話してただろ」

「わかってないわね、来年に決まってるでしょ。来年挑戦するためのメンバー。ああ、わたしなんで思い出さなかったんだろ。海人がいるじゃん。海人写真好きだし、撮りまくってるもんね、適任、適任」

 海人は深くため息をついた。

「あのね、深雪こそわかってないよね」と言って海人はポケットからスマートフォンを取り出す。「俺のカメラはね、これなの。これだけで何でも撮る。撮ったらすぐその場でフォレストとかカンバスにアップ。それ以外の写真はやらないの」

 カンバスというのは総合コミュニケーションサービスの名前で、リアルタイムに文字でやり取りできるチャットや、写真や情報を共有し合える機能のほか、電話のような音声通話の機能もある。カンバスという名前は画布(キャンバス)会話(カンバセーション)を混ぜた造語で、canverseと綴る。深雪の周りでもほとんどの人がカンバスにアカウントを持っていて、今やコミュニケーションのメインツールとして浸透している。中高生がスマートフォンを持ちたがる一番の動機がカンバスによるコミュニケーションだ。フォレストのアカウントは持っていない人もいるけれど、カンバスのアカウントを持っていない人は深雪の周囲ではほとんど見たことがない。

「どうしてよ、海人の写真評判いいでしょ。もっと一眼レフとかでさ、凝ったやつをさ、撮ろうよ。でもってギャラリーとかにさ、飾ったりしようよ」

 深雪にはもちろん海人をメンバーに引き入れて写真甲子園に出場しようという思惑があった。でもそれだけでなく、スマートフォンでしか写真を撮らないのでは海人の才能がもったいないという思いもあった。

「そういうのはいいの。俺はフォレスターなの」

「ええ? もったいないよ。せっかくうまいんだからさ」深雪が残念そうに言うと、海人は急に真剣な表情になる。

「もったいなくないだろ。俺は自分が撮った写真をすげえたくさんの人に見てもらってる。それがなんでもったいないってことになんだよ」

「だって海人はスマホじゃん」

「おまえそれ本気で言ってんのか。カメラなんてただの道具だろ。どんな写真を撮ってるかが問題なんであって、道具なんかなんだっていいだろ。じゃ深雪は一眼レフでスマホじゃ撮れないような写真を撮ってるのかよ。ほんとにそれスマホじゃ撮れないのか?」

「そりゃそうでしょ」深雪はちょっと頭に来て声を荒げた。「だってレンズだってCCDだって大きさが段違いだし。かかってる手間だって大違いだよ」

 海人は少し呆れ気味にため息をついた。

「あのな。深雪のその言い草はな、高い食材を使って手間かけてるから美味しいです、って言ってるのと同じなんだよ。安い食材でお手軽に作ったってうまいものはうまいんだよ」

「そりゃ、そうだけどさ」

「それにな。写甲って言ってるけどそんなところへ出品するよりフォレストとかカンバスにでもアップしたほうが大勢に見てもらえるんだよ。仮にこんな小さな町で個展やったって何人見に来るんだよ。俺は撮った写真をいろんな人に見てもらいたいだけだからカメラなんかなんだっていいし、大会にも個展にも興味ない。楽しく撮って、撮ったものをいろんな人に見てもらう、それだけ」

 海人は言い終えると涼しい笑顔を見せた。深雪はそれを見て憮然としたけれど反論することはできなかった。何か言い返してやろう、言い返さねば、と思いはしたものの、自分でも驚くほど何も出てこなかった。深雪の中には海人を説き伏せるだけの根拠が無かった。

「深雪はさ、あまりにも写甲にこだわりすぎていろいろ見えなくなっちゃってるんじゃないのか? なんのために写甲に出たいのかよく考えてみなよ。きっと深雪は何かのために出るんじゃなくて、出るために写真撮るみたいな方向へ行っちゃってるんだよ。それだと多分応募しても本戦には行けないと思うよ。それに深雪、写真撮ってるのかよ。メンバー集めに精が出てるのは知ってるけどさ。熱心に写真撮ってるっていう風にはぜんぜん見えないぞ」

「撮ってるよ」枚数だけは、と声に出さずに付け加える。「でもいくら写真撮ったってメンバーがいないと出場できないんだよ」深雪は声を荒げた。

「だけどメンバーが集まったって写真がヘボだったら本戦には出場できないよ。初戦に応募すればいいってわけじゃないんだろ」

「うるさいな、もう」

 海人の言葉は腹立たしかった。腹が立つのはそれが事実だからだ。たしかにメンバーを集めたところで初戦に通らなければ本戦には出られない。本戦に出られなければ地元で行われる本戦は結局外から眺めることしかできない。それは海人に指摘されるまでもなく深雪にもわかっていた。

 深雪は立てた両膝を両手で抱え込み、膝と胸の間にできた暗がりに顔をうずめた。視界が遮られ、運動場に飛び交う運動部員たちの声が遠ざかる。深雪の形を確かめた風が山へ帰っていく。涼しさの中に夏の気配を忍ばせた風だ。もうすぐこの小さな北の町にも夏が、暑く短い夏が、やってくる。写真甲子園の本戦を連れて。
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