第1話

文字数 1,991文字

 このところ、エリは眠れない夜が続いている。つわりが始まり、今までのように睡魔に見舞われるほど、エクササイズが出来ないからだとわかっている。ベッドで反転しているより、窓辺で星を見ている方が良い。妊娠してから住み替えた家には、寝室に大きな窓がある。今夜は新月なので、天の川がひときわ美しく見えるだろう。以前見た昔の映画では、夜の地上は様々な色の光に眩く彩られ、夜の空は暗く沈んでいた。エネルギーの大半が太陽光となり、太陽が沈んだ後のエネルギー消費は極端に制限されている現代では、どこからでも美しい星空を見ることができる。
 張り出した窓枠に腰をかけて夜空を見上げながら、お腹の子の父親であるマモルとの会話を思いだしていた。妊娠を希望した女性には、何人かの精子提供者の候補リストが与えられる。それぞれと個別に面談をした結果、エリが相手をマモルに決めたのは、彼が今後の精神的なサポートを申し出てくれたからだ。ディスプレイの向こう側で、マモルは熱心に三人の未来の姿を語ってくれた。それは、たった一人で子供を産み、育てていくエリにとって、とても心強く感じられた。

 二十一世紀を五分の一ほど過ぎた頃から地球上に蔓延しているウイルスは、人から動物、また人へと、宿主を移し、変化しながら生き続けている。地球上を我が物顔で席巻していたはずの人類は、じわじわと自分たちの領域を浸食し続けるウイルスとの闘いをついにあきらめ、一丸となって、種の存続に賭けることになった。環境の変化に応じて生息の方法を変えるのは、生物の常と考えれば当然だったのかもしれない。結局、人類が選択した方法は、自分たち一人一人を屋内に閉じ込め、自分以外の生物と接触することを止めることだった。
 ウイルスとの長い闘いの中で培われた非接触の技術は、閉じ込められた世界の中で、エネルギーを利用し、子孫を残すことを可能にしていた。人類の大半はソフトウエア技術者となり、人間に代わって屋外作業を行うロボットをコントロールするプログラムを次々と編み出している。医療も遠隔操作で診察から手術まで行われる。

 妊娠、出産も女性ひとりで行える技術が確立していた。慎重に選ばれた受精卵を、自分で体内に挿入し、出産時には麻酔や促進剤を医師の遠隔操作で与えられるので、自力で取り上げることができる。といっても、出産におけるリスクだけは昔と変わらない。考え出すと恐ろしいので、エリはその日が近づくまで忘れようと努めていた。それより、生まれた子供との暮らしに想いを馳せたい。子供は、15歳になるまで母親と暮らすことができるのだ。
 今日もマモルとの会話は、生まれてくる子供、赤ん坊との生活のあれこれを二人で想像することから始まった。エリの仕事は幼児教育プログラムの開発なので、ついそちらに話が行き、気が早いとマモルに笑われた。
 「それより、生まれたら、たくさん抱いてあげなよ。人と触れ合える期間は、限られているんだから。」
 「そうね。私も母の家を出てから10年ぶりに、自分以外の人間に触れるんですものね。」
 「うらやましいな。僕も…。」
 「ごめんなさい、あなたの分もたくさん抱くわ。」
 「いや、君が謝ることじゃない。仕方ないことだけれど、僕はあきらめたくなくてね。」
 「えっ。」
 「今、そのための研究をしているんだ。」
 マモルが医学系の研究者なのは知っていた。研究の詳細もプロフィールにあったが、エリの理解を超えていた。
 「どんな研究?」
 「触覚の共有さ。君が赤ん坊を抱いた感触を、君の脳から僕の脳に伝えてもらうんだ。そうすれば、温度や、微妙な柔らかさも、同じように僕が感じ取れるのさ。」
 「すごい、脳から脳へ?」
 「そうだよ。」
 マモルは少し興奮した口調で、詳しいメカニズムを早口に話し出した。もちろん、エリには理解できない。途中でそのことに気が付いたマモルは苦笑しながら、
 「とにかく、不可能な技術ではないから、僕たちの子供を実感するためにも開発を頑張るよ。」
 「僕たちの子供、私達の赤ちゃん、その言葉が嬉しいわ。」
 「あぁ、もう時間だ。また明日。」
 「うん、また明日。」
 ぷつりと、ディスプレイが消える。エネルギー消費量を下げる時間からは、通話は止められ、孤独な時間が始まる。

 星空を見上げていたエリの頬を涙が伝わった。マモルが実現しようとしていることが、マモルが追い求めていることが、エリには痛いほどよくわかった。それは、エリが切望し、妊娠に踏み切らせた理由だからだ。そしてまた、実現しても、彼が本当に求めていたものは手に入らないのだろうこともわかっている。だから、マモルのことを思って泣いたのだ。エリは、まだ何の変化もない自分のお腹に触れて、少しだけマモルに後ろめたさを感じながら、胎内の小さな命に話しかけた。
 「ママは、あなたに触れたくてたまらないの。」
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