第2話 ― For her son ―
文字数 23,098文字
ぐんぐんと勢いを増す四輪駆動車。その助手席で、僕は背中にあるシートにしがみつく。
「ジリアさん! やっぱり速すぎますってば!」
かけているゴーグルがぶっ飛ぶんじゃないかと思わせられるほどの風圧。今日の天気は快晴かつほぼ無風なのに、体が縛りつけられるような感覚に見舞われている。そんな絶叫じみた忠告ですら、平気で無視してアクセルを踏み抜く女性――アリトワ・ジリアには届きはしない。絹糸のようになびく金髪は、地味なゴーグルをかけていてもわかる精悍さを引き立たせている。しかし今は、その美しさからは想像できないほどの乱暴運転だ。
「時間が惜しいんだ、ウィットナーくん」
一蹴。たった一言で、僕の命は削られるような思いだ。
「べ、別に急ぐ理由は無いじゃないですか!」
「時間は有限だ。移動時間などという無駄な時間を悠長に過ごしている暇があったら、一つでも多くの任務を捌かなければならない。我々はいつだって人材不足だ」
そう言われてしまえば僕は押し黙るしかない。さらに彼女は『戦死通知課』における、僕の直属の上司である。故に下手に逆らうわけにもいかないし、無理矢理運転に手を出そうものなら二人ともただでは済まない。しかし体がもぎ取られそうな恐怖からか、何度目ともわからない絶叫を繰り返すしかないのだ。
「事故に遭ったら元も子も無いですよ!」
「大丈夫だ。安全確認はできている」
普段はとても落ち着いていて頼りになる上司なのに、なぜか運転の時だけは人が変わったようにかっ飛ばすのだ。ジリアさんは毎度『急ぐから』などと言うが、職場にいるときはそんなにせっかちな場面は見たことがない。純粋に付き合いが短いからかもしれないが、僕にはどうにも別の理由があるとしか考えられないのだ。
「ジリアさん。もしかして、なんか発散してませんか?」
「してない」
「イライラとか…」
「してない」
「ストレ」
「たまってない」
なんだか最後だけやけに反応が早かったように聞こえたのは気のせいか。しかしじろりとゴーグルの中のの視線をぶつけらると途端に何も言えなくなる。僕は逃げるように高速で移り変わる景色に視線を飛ばした。
「……昼までに着きたい。もうちょっと出すよ」
「嫌がらせじゃないですよね⁉」
「…………違う」
「なんですか今の間はぁ⁉」
田園広がる風景の中、僕は再び絶叫しながら、どうしてこうなったのだろうと考える。
※
「やぁ二人とも。調子はどうだい?」
同日の午前中。つまりついさっきの話であるが、新人である僕ことケイン・ウィットナーと、『教官役』のアリトワ・ジリアは、『戦死通知課』課長であるトリル氏に呼び出されていた。
「フォーラス村の報告は受けているよ。……どうだい? ウィットナーくん」
「……」
じっと真剣な表情を向けるトリル課長に、少しばかり驚いた。いつもは飄々としている彼だが、この話は、それだけ真面目な態度を要求しているということだろう。フォーラス村の一件――つまり僕の初任務。ジリアの助手という立場で付いて行ったに過ぎないが、それでも、この仕事の『闇』とも取れる部分に触れた。
――遺書の偽造。建前は戦死者の家族にかかる精神的負担を減らすためだが、紛れもなく、死者を冒涜する行為だ。
国の内乱の兆候を少しでも抑制するための政策。死してなお国のために忠義を尽くさせることを、果たして僕は容認できるのか。
「僕には、まだ答えがわかりません」
本心を言った。トリル課長はじっと僕を見つめて、静寂が包み込む。たっぷり五秒は気まずい時間が『戦死通知課長室』に流れた後、彼はそうかい、と答えるだけだった。。
「で、でも、少なくとも、ジーナさんは救われたと思います。――僕は、そう思います。ですから、この仕事が正しいのかどうか、ちゃんと見定めたいです」
逃げるわけではない。フォーラス村で夫の訃報を聞いたジーナさん、そして僕の母親も、もう一度前を向いて歩き出すことができた。偽物の現実を作り出すことへの怒りや失意と、彼女らがこれからを生き続けること。僕の中で、果たしてどちらが大きくなるのかはわからない。だから答えは、今度こそ自分の目で見つけたい。誰の手も加えられていない、本当の現実に居ることで。
「……それが聞ければ十分さ。これからもここで学んでくれ。この国が、そして我々『戦死通知課』が、どう進もうとしているのかを」
「はい」
再びしばしの沈黙。それぞれが、それぞれの内で考えることがある。正しさの裏に存在する過ちに向き合う覚悟が要る。誰が正義なんてものは、きっとここには存在しないのだろう。もしそれがあったとすれば、僕はトリル課長に、きっと糾弾されていたはずだから。
「トリル課長。本日はどのようなご用件でしょうか」
静寂を打ち破ったのは隣で微動だにしなかったジリアさんだ。相変わらず考えのわかりづらい気難しい表情をしながら僕らの会話を黙って聞いていた。彼女は偽物の現実が誰かの未来を救う――そう信じている人だ。だからもしかしたら、僕の曖昧な答えは気に食わなかったのかもしれない。ただ、僕に真実を伝え、逃げ道を用意してくれた彼女は、僕の中では紛れもなく優しい人だ。
「あぁ、そうだね。本題に移ろう。今日は二人に手紙……いや、『遺書』を届けて欲しい」
「それは……」
「こんな質問をした後でなんだけど、今回は本物さ」
言いかけた疑問は、トリル氏が懐から取り出した手紙によって阻まれた。差し出されたものをジリアさんが受け取り、僕はそれを横から覗き込むようにして確認する。まだ封も開いていない。しかし外紙はところどころが擦れてしまっていて、真新しさは感じ取れなかった。そのお世辞にも上等とは言えない作りの遺書は、記憶に新しいジリアさんが用意した偽物とそっくりだった。裏にはとある場所と差出人の名前が書いてあり、『テバリ村 煉瓦の屋敷』と、『カイネル・ロウェント』とある。
「これは三年前の戦地の塹壕後から見つかったものらしい。戦死者の名簿リストとも、照合が取れている」
「つまり今回の任務は、この遺書を宛先まで届ける、と」
「そうだ。もはや郵便局に回せば良い案件なんだけどね。国のために殉職した兵士の最後の想いだ……無下には扱えない」
「……そうですね」
ジリアの肯定はどこか弱々しかった。その台詞は、昨日の任務に対して言えば真逆である。死者を貶めることをした人間が、都合良く同調することへの、罪悪感。しかし彼女は顔色一つ変えることなく、その遺書を丁重に受け取った。
「すぐに行って来ます」
「あぁ。バギーと地図は好きに使ってくれ」
「了解しました」
――ゆっくり走ってくれたら良いなぁ。
僕は呑気にもそんなことを思っていた。この瞬間の、もしかしたら彼女に頑張って訴えれば少しは加減してくれるのではないか――と淡い期待を抱いてしまった自分をぶん殴ってやりたい。
僕らが部屋を出ようとすると、トリル課長からウィットナーくん、と呼び止められた。
「我々がしていることの意味。それをしっかりと探してくれ」
それは、この仕事の答えを求めるようなアドバイスであった。トリル課長でさえ――そこまで思考を働かせて、無理矢理に押し止めた。今は、僕が僕の答えを探すべきであり、誰かの考えに感情を押しつけることなどできない。ジリアさんですらそうなのだから。僕は少しの空白の後、はい、と元気良く言った。トリル課長は満足そうに、いつもの人当たりの良い笑顔を作っていた。
その後僕とジリアさんは地図でテバリ村の場所を調べると。
「少し遠い。急ごう」
はっきりと、そう言われた。
※
村の関所に辿り着き、疲れた表情でバギーから降りる。この国には四季があり、現在は春である。ゴーグルを外すと、やんわりと暖かくなったこの時期のテバリ村のそこかしこに、帝都では見られない新緑が広がっていた。心中穏やかではなかった僕だが、それでもこのように自然味溢れる様子を見れば、多少なりとも吸い込む空気がおいしくなった気がした。
「わぁっ……! すごいですね」
思わず上げた歓声の先には、花畑と言っても差し支えない風景があった。純白の細かな花弁を持つ花は決して大きくないのに、それでも地面に敷き詰められた緑色を覆うようにその場所に強く根付いている。
「あれはハルジオンか。綺麗に咲いているな」
「ハルジオン、ですか?」
僕はジリアさんに聞き返した。大して花の知識を持たない僕は、田舎に住んでいた頃でさえ近所に咲いている花の名前も知らない。業務とは何一つ関係無い質問だが、彼女は穏やかな口調で教えてくれる。
「あれは春に咲く花でな。『貧乏草』とも呼ばれるらしい」
「び、貧乏草? それは随分酷い呼び方ですね」
「なんでも、摘み取ると貧乏になってしまう、なんて話があったとか」
「……素直に花を愛でられなくなる話、やめません?」
優しさに反して伝えられたのは知らなくても良い俗説だった。僕の言葉を聞いたジリアさんは少しだけ笑みを浮かべると、家々の見える村へと視線を移す。
「のどかな場所だな」
「……そうですね」
貴女の運転とは対極ですね、と心の中だけで呟く。
「昼前に着けて良かった。どこかで昼食を取ったら、早速この遺書を届けに行こう」
――まさかこの人、腹時計基準で動いてないか?
そんな疑問もまた、僕の内側で巡るだけに終わる。バギーを関所に預け、僕らはいつもより心地よく感じるそよ風の中を歩き出す。
※
任務はテバリ村の調査から始まった。以前と同じように、人の多く集まる大衆食堂――こういった、帝都から距離のある小さな村では通例らしい――に行き、『煉瓦の屋敷』と『カイネル・ロウェント』について聞き込みをする。食堂を利用することにはアリトワ・ジリアという人間に対しての若干の疑問が無いわけではない。ただ実際、フォーラス村ではしっかりと地域民と交流を深めて村長の家をちゃんと突き止めていた。軍人であるという時点で多少なりとも警戒心を抱かれる僕らが初めて訪れる村で動きやすいように、彼女は『仕事』に取り組んでいた。こうやって休憩時間一つも無駄にせず、僕に『見せ』て教授してくれているのだろう。例え、店員に真っ先に聞いたのがこの店の定番メニューだったとしても。
フォーラス村での一件と異なるのは、やはり殉職を知らせる兵士自身が遺書を記したということである。偽造するでもないただの通達は、僕の中では大変安堵してしまうことだった。もちろんその『想い』が決して軽いものではないことくらいわかっているけれど、どうしても、虚偽を働くという罪悪感に苛まれないことだけが救いとして心の中にあるのだ。
結局、書き入れ時に忙しかったらしい店員は、メニュー表を指差しただけであった。ジリアさんは後輩に背中を向けたまま、おそらく『おすすめ!』と書かれた商品に目を向けていた。
「ウィットナーくん。……親子丼で良いか?」
「やっぱり」
思わず声に出ていた。
不特定多数に対する聞き込みとしては、ひとまず情報が露見しないように、『煉瓦の屋敷』についての情報を、それとなく伝えてみるといった具合だ。しかし個人名はあらぬ憶測を呼びかねないということで、『カイネル・ロウェント』の名前は確証を得るまで伏せるようにする、というのはジリアさんからの指導である。それでは難しいかと思ったが、僕の一杯目親子丼が無くなるとき、もしくはジリアさんがおいしいと絶賛して、二杯目を注文し終えたときに、求めていた情報――正確にはそれを持った人――が現れたのだった。
「この村で『煉瓦の屋敷』っていやぁ、そりゃあカーミュラさんのところじゃねぇか?」
そう言ったのは壮年に見える男性だった。体つきの良い人で、屈強な肉体は薄手の服の上から見て取れる。焦げた肌と相まって、腕なんかはさながら大木のようだ。
「カーミュラさん、ですか」
箸を止めていたジリアは彼の言った名前を復唱する。
「あぁ。十何年か前に、村に移り住んで来た女性だよ。どうやら帝都でこの村の男と恋仲になったんだと、噂で流れてたこともあったなぁ」
なにせ小さな村だからな、と男性は白い歯を見せながら笑う。思えばジリアさんが引き留める人は、失礼だが、それなりの年齢を刻んだ人を選ぶ傾向にある。これは不特定多数から話を聞き出すためには有効な手段、ということなのだろうか。もしくは、気さくな人間を選別することが得意、ということもあるかもしれない。
そういえば、と先日の一件を思い出す。彼女は仕事の性質上、他者の理解や性格の判断が得意なのかもしれない。人の死を伝えるという残酷な任務を請け負っている僕らには、そういった力は必然的に身につけなければならないのだろう。そんな思考を巡らせているうちに、ジリアさんは壮年の男性に『カーミュラ』という人物についてさらなる聞き込みをする。
本名はカーミュラ・セリエ。先の話の通り、どうやら帝都から移住して来た女性らしい。テバリ村から出稼ぎに行っていた男が、帝都で怪我を負い、退職してから彼女をこの村に連れてきたということだった。二人は既に夫婦であり、その間には一人娘を授かっていたらしい。しかしその娘が生まれつき体が弱かったということで、空気の澄んだこの村へと落ち着いたのだという。
「テバリ村は自然が豊かで、南の一帯は森に覆われてる。家を建てるときは、有り余った木材を使った木造建築が多いんだよ」
「なるほど。つまり、そもそも煉瓦の家自体が少ないと」
「おうよ。だがカーミュラさんの家は体の弱い娘さんのこともあって、この村では珍しく煉瓦で建てたんだ。なんなら、村の住宅街を回ってみるといいぜ。村っていう割には結構な数の家が並んでるからよ。俺の言ったこともすぐにわからぁ」
煉瓦の材質は、耐熱や蓄熱に秀でている。そのため倉庫などの室内温度を一定に保ちたい場面では重宝されるのだと、学生時代に本で読んだことがある。四季の移ろいがあるこの国においては、食物の備蓄や、工場で作られた部品などが錆びたりしないようにといった用途で、帝都などではよく採用されているのを、実際に僕自身も目撃したことがあった。
「わかりました。後で気にかけてみることにします……それで、その『煉瓦の屋敷』はどこにあるのでしょうか?」
「おっといけねぇ。話が脱線しちまったな。お嬢さんたちが探してる煉瓦の『屋敷』ってーなら、今言った南の森の中にある家で間違いないだろうよ」
その言葉を聞いたジリアさんは、関所で借りたテバリ村の地図を開く。男性にとって北が上へ向くように差し出すと、彼は迷うことなく、その下の方にある『森林』と書かれた場所を示す。
「この森だ。道は整備されてるから、道なりに進みゃあいい。三十分くらいで屋敷が見えてくるはずだ」
「わかりました。――ではもう一つ、カイネル・ロウェントさんをご存知ですか?」
男性からの情報に信憑性を得たのか、とうとうジリアさんは差出人の名前を出した。すると男性はあぁ、と頷くと思い当たる節がある素振りを見せる。
「カイネルっつったら、しばらく前に兵士に志願した男だろう。確か赤んぼの頃から孤児院で育てられたやつだった気がするぜ」
「孤児……ですか」
「あぁ、いわゆる天涯孤独ってやつさ。どうやら両親共々行方知れずで、そういう事情になっちまったとさ」
平たく言ってしまえば、彼は捨て子だったというわけだ。親も居ない暮らしを続け、最期は戦争によって命を落とした――何とも報われない話である。僕は思わず、もうこの世には居ないカイネル・ロウェントを哀れんだ。
「そいつはカーミュラさんと関係があるのか?」
それは男性の純粋な疑問だったようだ。確かに、カイネル・ロウェントとカーミュラ・セリエに特別な接点は見えない。彼がお世話になった人とも考えられるが、それならば普通は孤児院に居るであろう育ての親にでも手紙を遺すのが筋ではないだろうか。
「……彼は先の戦争で殉職なさいました。私たちは、彼の残した『遺書』を届けにやって来たのです」
ジリアさんは全てを打ち明けた。男性は一瞬だけ目を見開き、今度はぐっと強く瞼を塞いで言った。
「……そうか。お嬢さんたちは『戦死通知課』の人だったのか」
「はい」
「……いつの時代も、自分より若い奴が死ぬのは悲しいもんだ。その遺志、必ず届けてやってくれ」
「もちろんです。それが私たちの任務ですから」
ジリアさんは強く頷いた。それは果たして任務ゆえか、自らの意志か。それとも、何も知らない一般人を騙してでも平和を築こうとする罪悪感からか。僕のような若輩にはまだ彼女を推し量るなんてできはしないが、彼女は間違いなく真摯な態度で死者に向き合っている。今はその気持ちが見えただけで良いと思った。ジリアさんは静かになった空間に一石を投じる。
「カイネル・ロウェントが軍役に志願したのはいつ頃か、わかりますか? 年齢と、具体的な年数がわかれば、幸いです」
「んん? っとなぁ……俺が二十歳の時には孤児院に入った話を聞いたから……今が三十手前ってとこだろう」
ということは、男性の年齢は四十代後半から五十歳くらいと推測できる。意外と若いのだな、と失礼なことを思いながら、カイネル・ロウェントに対する新たな情報を手に入れた。そしてジリアさんが礼を述べようとした瞬間、屈強な男性は思い出したようにこんなことを言った。
「そういやカイネルについては噂を一つ聞いたことがあるぞ」
「それはどのような?」
「なんでも惚れた女が居たらしい。上手くいったかまでは知らんがな。……おおっと、下世話野郎だなんて勘違いすんなよ。俺は仕事上、村の情報にちと詳しくてな。お偉いさんの会話からおばちゃん達の井戸端会議まで、結構聞くことが多いんだよ」
一体何の仕事をしているんだろう? という疑問は当然のごとく生まれたが、それは大したことではないだろう。それよりも、カイネル・ロウェントには想い人が居たというなら、最期の手紙がカーミュラ・セリエ宛であることには余計に疑問が残る。まさか家庭を持つカーミュラ・セリエがその相手だったとも考えにくい。やはり、彼らの間には何か当人同士の関わりがあるに違いない。
「まぁ噂だ噂。カイネルはこの村で目立っている奴でもなかったし、知ってることは全部伝えといた方が良いかと思っただけだからよ。忘れてくれ」
かかか、と綺麗な並びの歯を見せながら男性は自己完結した。どういう経緯かは知らないが、僕はその情報力に信頼を置き、ひとまずその噂すら頭に入れておくことにした。
「助かりました。混乱を生む可能性もありますから、しばらくは彼についてのことは伏せておいていただけますか?」
「おう。向こう一月は心の中に仕舞っておくよ」
「ありがとうございます」
今度こそジリアが頭を下げるのを見て、慌てて僕も同じようにする。空になったどんぶりに頭を突っ込みかけ、盛大に男性に笑われた。
「いいってことよ。それよりお嬢さんたち。そのどんぶりは鳥キャベツ丼か?」
「鳥キャベツ丼……? なんですかそれは」
ジリアさんの声のトーンが少し変わった気がした。それはあまりにも些細な変化だったけど、なぜか僕は冷や汗をかいた。
「いや、この時期になったら春キャベツが出てくるからな。この店、年中メニュー表を変えねぇくせに、季節ものは聞いたらあるかもしんねぇんだよ」
でも店員が忙しいからな、聞けねぇんだよ、と続けた男性の声は、どうやらジリアさんには届いていないようだった。いつも冷静な彼女が口をわななかせていると、新しいどんぶりが運ばれてきた。
「お、良いところに。店員さん、鳥キャベツ丼はもうやってるかい?」
「……ありますが」
「じゃあそれで」
それじゃあな、と言い残し、気さくな男性は似合いすぎる笑顔で去って行った。僕の目の前には、空になったどんぶりが二杯と、眩いくらいの黄金色をした三杯目の親子丼。さらにそれらを硬直した表情で見つめるジリアさんが残された。
「……」
「……えっと」
いつも気丈で冷静な上司は今にも泣きそうな表情をしており、当然僕はいたたまれず、目の前にある空のどんぶりに今度こそ頭ごと突っ込みたくなった。
※
森は暖かなこの季節に相応しい様相だった。幾歳月を経たと思しき風格を持った幹たちが、新緑をかぶり、揺らす。道の両脇に繁茂する草々も、葉っぱの奏でる自然の重奏に合わせるかのごとく、小さな体を右へ左へと振っていた。まさに森林――乱立しながらも豊かな土壌を一致団結して組み立てる大自然の構図がそこには存在した。
「おじさんのお話では、この森を道なりに進むということでしたよね」
「……あぁ。他の方からもいくつか情報を頂いたが、全て一致していた」
僕の確認に対して、ジリアさんの返しには元気が無い。さっきからしきりに、トリ、キャベ、と呟いているところを見ると、季節ものを逃してしまったショックが非常に大きいらしい。なんなら店を出る直前まで自分の胃袋と葛藤していたくらいだ。多分僕が急かさなかったら、この人はさらなるどんぶりにチャレンジしていただろう。彼女は帰りに晩ご飯を食べようと言っていたので、おそらくそのあたりの妥協で今の状態に落ち着いている。
生憎、傷心の上司にかける言葉など持ち合わせておらず、僕らは無言で土の上を歩き続ける。――正確にはジリアさんの小さな小さな呟き声があったが、そんなものは森の騒めきにかき消されていたのだけれど。
「……そういえば、カイネル・ロウェント氏は孤児だったんですね。てっきり遺族に宛てた手紙かと」
「お世話になった人に手紙を遺す者も多い。なにも血の繋がりだけが家族ではないさ」
せめてもと、僕は話題の提供を試みる。壮年の男性が教えてくれた通り、歩くこと三十分弱。唐突に葉と土以外の色、少し色落ちした赤橙が見えた。お、と思わず出た声に、隣を俯きがちに歩いていたジリアさんが顔を上げる。
「見えたな」
「こんな森の中に一軒だけ……そりゃ目立ちますよね」
平たく整備された土の道路から、少しだけ森へと足を踏み入れた場所。そこに宛先通りの『煉瓦の屋敷』は存在した。屋敷というだけあって、下級貴族が住んでいてもおかしくない大きさだ。荘厳、という言葉がよく似合う。白い三角屋根がいくつか連なり、その下は窓とドア、玄関前の木製階段を除いて、殆どの素材が煉瓦だと見受けられる。そして、今は任を解かれているのであろう、突き出た一本の煙突が特徴的な邸宅であった。
「これを建てたカーミュラさんの旦那さんは、一体なんの仕事をしていたんでしょうね?」
「わざわざ王都に出ていたのだから、実入りの良い仕事をなさっていたのだろう。さて、私たちもお邪魔するとしよう」
言うとジリアは、煉瓦の屋敷を見上げていた僕などお構いなしにズカズカと庭に踏み入る。後ろから彼女を追うと、その広さゆえか、あまり雑草の管理が行き届いていない光景が目に入った。玄関に着くと、ジリアさんはようやくこちらを一瞥してから、ドアノッカーを鳴らした。コンコン、という小気味良い金属の音が跳ねると、一分ほどしてから一人の少女が現れる。
「……どちら様でしょうか?」
半開きのドアから見えた彼女の姿を見た瞬間、僕は――否、僕らは、彼女が『カーミュラ』ではないことを察知した。理由は明白。艶やかに伸びる髪も、血色の良い肌も、とても話に出てきた女性の年齢と合わなかったからだ。見たところ少女は十七、八といったところで、僕とそう変わらないだろう。華美な装飾品は身につけておらず、左手に光る指輪だけが奥ゆかしくも主張をしている。若くはあるが、既婚者なのだろうか。
「こんにちは。私は帝国軍、戦死通知課所属の、アリトワ・ジリアです」
「同じく、ケイン・ウィットナーです」
ジリアさんがお辞儀による敬礼をしたのに続いて、僕も同じく頭を下げる。軍の所作については士官学校時代に毎日行っていたため、我ながら慣れたものである。しかし、斜め後ろから見えるジリアさんのそれは、さすが元兵士といったところか、実に機敏で美しかった。とてもさっきまで気落ちしていた人とは思えない。
「え……と、軍の方々が、一体何のご用件でしょうか……?」
おどおどとした様子でドアを背にした少女が尋ねてくる。当然ではあるが、こんな森の奥深くには、そうそう人はやってこないだろう。ましてやそれが軍の人間だとわかれば驚きも警戒もする。僕は普段よりも少しだけ口角に気を付けた。ジリアさんは制服に備え付けられた小型のポーチから、薄汚れた手紙を取り出す。
「手紙を届けに参りました。差出人はカイネル・ロウェント氏。ご存知ですか?」
はい、知っています。僕は彼女がそう言うものだとばかり思っていた。だから、少女の次なる言葉に少しだけ困惑した。
「……いいえ。知りませんが、どちら様でしょうか?」
少女は最初に僕らへと向けた言葉をそのまま伝えてきた。カイネル・ロウェントは最近とは言わずとも、亡くなってからそう時間は経っていないはずだ。おそらく彼女とも、なにか接点があるものだと踏んでいたのだが。
「では今、カーミュラさんはご在宅でしょうか?」
僕と違い、ジリアさんは全く動揺を見せることなく次の質問を繰り出した。
「母のことをご存知なんですね」
「村でこの手紙の宛先を探すときに、カーミュラさんの名前を何度か耳にしました」
「なるほど。でしたら母の知り合いかもしれませんね」
「ではお手数ですが、お母様を呼んできていただいてもよろしいでしょうか? もしかすると、ご存知かもしれません」
「でしたら中へどうぞ。母は足を悪くしておりまして、今は車椅子無しでは動けないのです」
「――そうですか。では、お邪魔させていただきます」
答えると、少女はさっきよりも大きく扉を開いてくれた。僕らは彼女の案内に従って屋敷へと入る。外装の派手さとは対照的に、内装は装飾華美というわけではなく、意外と閑散としている。
「おかしいでしょう? 外と違って、中は普通の家となんら変わらないんですよ」
僕の心を見透かしたかのように女性がはにかむ。
「昔はもうちょっと、花瓶や絵画、なんなら使用人もいたんですが……父が亡くなって、母が体調を崩してしまってからは、価値のあるものは質屋に出して、お金を工面することにしたんです」
なるほど、道理で庭が雑草だらけだったわけである。一人納得していると、だから庭の整理もできていないんですけどね、という少女の一言で、僕はまたびくりとしてしまった。
「では、お母様のお世話は娘である貴女がしているのですね」
「子どもの義務ですから。それに私の場合は昔から酷いぜん息を患っていまして。そのことで、両親には本当に苦労をかけてしまいました」
その言葉を聞いたジリアさんは、少し間を空けてから、そうですか、と呟いた。どこかいつもよりトーンが低かったのは、まださっきの季節限定どんぶりを引きずっているからか。
「でも、ですから、その証であるこの屋敷だけはどうにか残したいんです。見てくれだけになるかもしれませんけど、これが私にとって、最も両親の愛を感じ取ることができるものなのです」
「それは、とても良い心がけですね。ぜひ大事になさってください」
「すみません。聞かれてもいない話をぺらぺらと。その部屋が、母の寝室です」
言うと少女は多くある扉の中から一つを指し示す。彼女がノックをすると、内側から低めの女性の声で、はい、と短い返事が返ってきた。
「お母さん。今大丈夫かしら? 軍の方がお見えになられているのだけど」
「軍の方……?」
くぐもった声で少し困惑した様子を見せたカーミュラと思しき人物は、娘の、なにか聞きたいことがあるそうなの、という一言で、入ってくださいなと返してくれた。娘がゆっくりと開き戸を押し、僕らに先に入るようにと促す。ジリアさんが軽く会釈をしたのに習って、僕も案内をしてくれた娘さんに感謝を伝えた。
部屋には低めの本棚があり、おそらく、足の悪いだという母に配慮した作りだと思われる。それ以外には彼女が座しているベッドと、その横に簡易ランプがある程度だ。屋敷と同じように華美なものは一切見当たらず、質素な生活態度の片鱗がうかがえる。
「ごめんなさいね。足が悪くて、立つのが億劫なのよ。このままで許して頂戴ね」
口調の柔らかい人だった。毛の色は殆どが抜けていて、彼女の年齢が娘と大きく離れていることを感じさせる。彼女がこの村に来たのは十数年前ということなので、子どもを産んでからそう経たないうちにこの村へやって来たのだろう。
「お気になさらないでください。こちらこそ、わざわざ上がってしまって申し訳ございません。私はアリトワ・ジリアです」
「ケイン・ウィットナーです」
「あらあら、ご丁寧にありがとう。私はカーミュラ・セリエと言います。よろしくね」
そう言う膝掛けをした女性は、見た目だけで言えば六十と言われても納得してしまいそうだが、娘さんの年齢を考えるともう少し下だと予想できる。にこりと笑う表情がとても愛嬌のある母親だった。
「お茶を持ってきます」
娘さんが言うと、カーミュラさんはお願いね、とその人当たりの良い笑顔を向けた。
「それで、どういったご用かしら? わざわざこんな森の奥まで、大変だったでしょう?」
「いえ、綺麗な森で、とてもリラックスできました。良い場所ですね」
「あら、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。私の夫が残してくれた、数少ないものだから」
確かに、森を歩いているうちにジリアさんの荒んだ心は持ち直したようである。その原因はと問われれば、口が裂けても言えないが、ジリアさんの言葉にカーミュラさんは喜んでいるので良しとしよう。
「本日はお手紙……いえ、遺書を届けに参りました」
「遺書……?」
『遺書』。カーミュラさんはその言葉を聞いて、笑顔を訝し気な表情に変えた。ジリアさんは先ほど玄関でしまっていた手紙を再び取り出す。
「私たちは帝国軍、戦死通知課の者です。先日塹壕から発見されたこの遺書の宛先が、『テバリ村 煉瓦の屋敷』と、この家になっていました」
「……失礼ですが、それは本当に私宛でしょうか? いえ、確かにこの村に煉瓦の家自体殆どありませんから、うちで間違いないのでしょうが……私には最後の手紙を届けたがるような知り合いはいませんよ。もしかして、娘宛ではありませんか?」
「差出人はカイネル・ロウェント。ご存知ありませんか?」
瞬間、彼女の表情はより一層怪訝なものになる。その双眸に宿ったものが困惑なのか動揺なのか、この時の僕には知る由もなかった。
「――知りませんね」
カーミュラさんは、短く、確かにそう言った。そして数秒前の表情に戻ったかと思うと、こう続ける。
「娘も知らないと言ったのであれば、この家にはもう誰もいませんから、その手紙は受け取りかねます」
「『受け取りかねます』――それは、受け取り拒否ということでしょうか?」
ジリアさんは間髪入れず、といった様子でカーミュラさんに問い直した。少しも動揺せずに、えぇ、と答えた女性に対し、ジリアさんはそうですか、と短く答えた。違和感があった。まるで揚げ足を取るようなジリアさんの態度にも、カーミュラさんの冷静な――冷静過ぎる態度にも。
「お茶が入りましたよ」
一瞬の静寂の後、部屋の外に出ていた娘さんがお盆にコップを乗せて戻って来てくれた。ありがとうございます。いつもだったら率先してそう返すはずのジリアさんが黙ったままなのを見て、僕はさらに違和感を募らせる。
「――アリア。少しの間、部屋から出ていてくれないかしら」
「えっ?」
その言葉に驚いたのはアリアと呼ばれた娘さんだけでなく、僕もであった。困惑したアリアさんだったが、軍の人間と話をしているというイレギュラーな状況が、あえて背中を押したのだろう。すぐに、わかりましたの一言だけを残して去っていった。
「……さて、お嬢さん。貴女、なにかに気づいたわね?」
かちゃりという音の後、カーミュラさんは目の前に立つ女性に向かって言った。対してジリアさんはというと、手紙を持っていないほうの手を、爪が食い込んでしまうんじゃないかというくらいに握り締めている。やがて、口を開いた。
「――真実です」
「しん、じつ……?」
置いてきぼりの僕は、とうとう声を出した。しかしその声は一番近くにいるジリアさんにも届くことはなく、次に口を開いたのはカーミュラさんだった。
「でもそれは、憶測でしょう? 証拠も根拠も、その手紙の中にしかないでしょう?」
「……その通りです」
「だったら、その手紙を私が受け取らなければ、その手紙は廃棄になる。全て、無かったことになるのよね?」
「ですからっ……!」
この瞬間、初めてジリアさんは語気を強めた。答えなどわからない。ただ、二人の間には何かがあるのだ。譲れないもの同士をぶつけ合う、何かが。
「だからこそ、その手紙は受け取れません。貴女もわかっているのなら、私の気持ちを汲んで。――その手紙の主に、私は覚えが無いもの」
「……っ」
後ろからでは見えないが、今ジリアさんの表情は間違いなく強張っているだろう。つい先日、僕に戦士通知課の本当の職務を話した時のように。
「これを届けることが私たちの役目です。殉職したカイネル・ロウェントの想いを貴女に届けることがっ――」
「お嬢さん……想いを届けることが、必ずしも幸福になるとは限らないのよ」
カーミュラ・セリエは実に強い言葉でジリアさんを諭した。その目には多分、僕のことなんて映っていない。ただジリアさんに対する警戒心のようなものだけが宿っていた。
「……そうですか」
やがて、短い言葉で折れたのはジリアさんだった。お邪魔しました、という一言とともに、コツという音を立てて扉へと向く。綺麗な黄金色が顔を隠し、そこにある感情へと触れることはできなかった。
「ごめんなさい。――でも、ありがとう」
背を向けた女軍人に向かって、カーミュラさんはそれだけを言った。ドアノブを回し、まだ近くにいたアリアさんと目が合ったジリアさんは軽い会釈をする。帰りを伝えると、玄関まで送ってくれた。そして、ジリアさんはいつもより暗いヘーゼルの瞳で彼女を見つめ、言ったのだ。
「お幸せに」
「えっ?」
まるで皮肉ったようにも聞こえるセリフに僕もアリアさんは驚いた。その真意はおそらく彼女に伝わることもないまま、真っ赤な邸宅の扉はゆっくりと閉まったのだった。
※
村を出るまで、ジリアさんはごちそうを逃した時よりも沈んだ表情のままだった。夕方になり、関所にバギーを引き取る直前、僕はどうしてもカイネル・ロウェントの真実について聞きたかった。ジリアさん、と呼びかけてみると、彼女はいつもより幾分か伏せた瞳でこちらを見てきた。
「……どうした?」
水分を取っておらず、いつもより枯れた声がした。僕は意を決して、彼女に尋ねてみることにした。
「僕にも教えてくれませんか? カイネル・ロウェント氏の残した真実のこと」
あの遺書は未だ開封されていない。そういった意味では、カイネル・ロウェントが『残した』という表現は適切ではないだろう。しかし、あの場でジリアさんとカーミュラさんの間にあった『真実』が、カイネル・ロウェントに深く結びついているということは容易に想像がついた。
「……それを聞いたところで、もう何にもなりはしないよ」
ジリアさんはとつとつと言った。
「彼女は手紙を受け取ることを拒否した。彼女にこの遺書が届かないなら、もう意味は無い。あの男性にも、悪いことをしたな」
それは多分、情報をくれた壮年の男性のことを示しているのだろう。彼女と男性の間に交わされた約束は、果たされることはなかった。
だがもちろん僕もそんな言葉だけでは納得できない。聡明なジリアさんは全てお見通しかもしれないが、僕は何一つとして真実がわかっていない。カーミュラ・セリエが受け取りさえ拒んだ理由、ジリアさんが無念に思うこと。謎だらけのままだ。それに――
「僕は、戦死通知課の人間です」
ジリアさんがこちらを見た。その端正な顔に、少しだけ驚きの様子が見て取れる。
「僕はまだ新人です。でも、この部署で仕事をすると決意しました」
戦死通知課で扱う案件は、どれも辛く、デリケートだ。殉職という文字通り命を張った人々や、彼らの帰りを待つ家族に、虚言をもってしてでも納得させなければならない。これが正しいことなのか、実状を知らない僕にとっては、まだ判断しかねる。しかし、すると決めた以上、僕はその道の先で答えを見つけるしかないのだ。
「だから、聞かせてください。ジリアさんが話すべきではないと判断したことも、全部」
ジリアさんはやはり考える素振りを見せたが、やがてコクリと頷くと、まずはバギーを引き取ってからにしよう、と告げたのだった。
関所に預けていた――とは言っても、外に置いているのを目の届く範囲に置いてもらっていただけである――バギーを返してもらい、テバリ村を出ると、そこには午前中と変わらない春の様相があった。とある地域には春になるとピンクの花を咲かせる木もあるそうだが、さすがにそんな珍しいものはお目にかかれないらしい。ジリアさんは村がギリギリ見えるくらいまで、バギーをゆっくりと走らせる。日暮れにはもう少しといった空の下、僕らは止まった車の中で少しだけ膝を寄せ、向かい合った。
「これから話すことは、全て私の仮説――辻褄合わせだと思って聞いてくれ」
ジリアさんの第一声はこんな言葉だった。理由を尋ねてみると、手紙が開いていないから、という至極単純な理由であった。僕は納得し、彼女に対してわかりました、と頷く。そしてしばしの沈黙の後、ジリアさんは驚くべきことを平然と言ってのけた。
「カイネル・ロウェントは、カーミュラ・セリエの息子だ」
僕は最初、意味がわからなかった。言っていることがではなく、その仮説そのものに対してである。食堂で聞いたはずだ。カイネル・ロウェントは孤児院出身であり、両親はともに居ないと。
「じゃあ、あの男性の言っていたことは嘘ということになるんですか? でも、他の人とも証言が一致していたと言ったのは、ジリアさんでしょう?」
「いや、少なくとも彼らは嘘をついた覚えは無いはずだ。個人的な恨みでもない限り、私達が騙される謂れも、騙す理由も無い」
僕が答えにたどり着けないでいると、ちらりと前方を見たジリアさんはヒントのような一言を言った。
「共通認識だったんだよ。つまり、騙されていたのは彼らだったんだ」
「共通認識……?」
それはつまり、彼らにとっては常識であったことが嘘であったということになる。その可能性がある情報と言えば、どこに当たるのか。
「カイネル・ロウェントの両親はこの村にずっと隠れていた?」
思わず口に出してしまった考えを、隣に座る女性がいいや、と否定する。
「それなら、役所勤めらしいあの男性や、彼のような職でなくとも他の人間からカイネル・ロウェントに伝わってしまうはずだ。どうやらあの村の人間は、噂話が好きなようだからな」
やはりというかなんというか、ジリアさんは最も詳しい情報をくれた男性の職業については推測が立っていたらしい。しかし、今の僕にはそんなことよりも気にかけるべきことが存在するのだ。
「でも、カーミュラ・セリエが母親なら、実際にこの村に身を隠していたことになりますよね?」
「現状は、な。しかしカイネル・ロウェントが気づかない状況が、一つだけある」
「……」
カイネル・ロウェントが両親の存在を知らず、かつ、この村の人々を騙し続けられる。そんなことがあり得るのだろうか。ここまでに得た情報を頭の中でひたすら思い浮かべていると、一つだけ違和感のある証言を思い出した。
「あ……カーミュラ・セリエは、十数年前に移住して来た……」
時系列に違和感が生じた。こんがらがる頭を整理し終えると、ジリアさんの、わかったかな、という声が聞こえた。僕はまるで独り言ちるように呟いていた。
「カーミュラ・セリエはカイネル・ロウェントを生んで、置き去りにしてこの村を去ったんだ……そしてもう一度戻って来た……それなら、おかしな状況にも筋が通る」
「そういうことだ」
肯定を示してくれたジリアに、僕はぱんと手を打った。
「じゃあカーミュラ・セリエとカイネル・ロウェントに接点はあったんですね。息子のために戻って来たってこと……」
「いや、違うだろうな」
今度はばっさりと否定された。僕の浅はかな希望的観測は彼女の言うところの『真実』ではないらしい。
「戻らざるを得ない事情があったんだ。そうでもなければ、彼女が遺書を受け取らない理由が無い」
「た、確かに」
そう、カーミュラ・セリエは遺書の受け取りを拒否するという選択をしたのだ。その謎を解こうとしているのに、それを失念してしまっては元も子もない。謎だらけの僕に比べて、ジリアさんはずっと冷静だ。この人はいつからこんな突拍子もない仮定を描いていたのだろう。カイネル・ロウェントがカーミュラ・セリエの息子であるなんてことに、いつ至っていたのか。
「あれ……じゃあ父親は? おかしくないですか? だって、あれ……あ」
そこまで言って気がついた。行方知れずになったカイネル・ロウェントの父親。既に他界したカーミュラ・セリエの夫。この二人が同一人物ではないことは、最初からわかっていたことではないか。
「そこが少し複雑なんだ。つまりカーミュラ・セリエは、二人の男の間に子をもうけている」
「この村でカイネル・ロウェントを生んだ時の夫と、帝都で出会ったという二人目の夫……その人との間に生まれたのが、アリアさんなんですね」
風が音を立てて吹いた。目の前のジリアさんは金糸の髪を抑え、雲を見上げる。
「少し話を急ごう……カーミュラ・セリエはこの村でカイネル・ロウェントを出産し、その後夫とともにこの村を飛び出してしまった。その後どういった経緯かはわからないが、別の男性と関係を持ち、新たにアリア・セリエをもうけた。そしてこの村の出身だった二人目の夫に連れられ、もう一度この村に戻ってくることになった」
ジリアさんの考えた仮説は特に矛盾することもなく、あたかもカーミュラ・セリエの半生を語っているかのようだった。これはあくまで彼女の仮説――それを忘れさせるほどに、僕は納得してしまった。しかしいくらカイネル・ロウェントが置き去りにした子と言えど、最期の言葉すら拒絶するほどだったのだろうか。彼には他に血の繋がった人間もいなかったというのに、これではあまりに彼が報われない。ジリアさんの見据える、さらに先の真実はまだまだ見えてこないが、僕はふと浮かんだ疑問を投げかけることにした。
「でも、気づかないものですかね。村の人達も、昔この村にいた人間くらいわかってもおかしくはないと思いますが」
ジリアはその質問も折り込み済みであったようで、ぴっと人差し指を立てた。
「私達は、そんな人間の絶好の隠れ家に行ったではないか」
「あ……」
煉瓦の屋敷。森の中にひっそりと佇む邸宅。そんなところに、ふらりと村の人間が訪れることがあるだろうか。カーミュラ・セリエは、この村で暮らす上で必要最低限の住民としか接触しないようにしていたのだ。
「だとしても、帰って来ますか? そんなに会いたくないなら、移住なんてしないんじゃ……」
「アリア・セリエは幼い頃体が弱かった。帝都に自然は少ないから、彼女を育てるためには、
不都合も多かったのだろう」
「それで、カーミュラ・セリエは危険を犯すんでしょうか? 一度は息子を捨てたような人ですよ」
「……わからない。だが少なくとも、彼女は娘を愛していたように見えた。しかし同じ愛情が息子にも注がれていたと考えるのは、早計だろう」
向こうを向いてしまっていたジリアさんの表情は掴めなかったが、彼女の声はどこか達観したような、しかし同情するような声音だった。
「ここからは、本当に何の確証も無い話だ」
ジリアさんはそう前置きし、自身の内に溜め込んでいたものを僕だけに吐き出す。
「カーミュラ・セリエ――いや、当時はもっと違う名前だっただろうな。彼女は三十年ほど前、まだ赤子だったカイネル・ロウェントを置いてこの村を出た。案の定カイネル・ロウェントは孤児院に預けられ、彼一人だけがこの村で暮らすことになった」
僕は彼女の説明を止めることなく、エンジンの切られたバギーとともに聞き入った。
「彼がどういう感情を母親に抱いていたかは計りかねるが、それでも彼はこの村で天涯孤独の身でありながら生き続けていた。もしかしたら、彼は自分の出自など気にすることなく、幸せだったのかもしれない」
「それは本当に……本人にしかわかりませんね。それに、もう確かめる術も……」
言いかけて、僕は一つだけ確かめる方法があることを悟った。しかしそれはあのカーミュラ・セリエの決断によって阻止されてしまっている。それに仮に僕らがここで非人道的なことをしても、もうどうにもならないのだ。彼女の封じ込めた彼の想いを僕らだけが知ったところで、何も変わることはない。僕はその先の言葉だけは絶対に言うまいと口を強く結んだ。ジリアさんも、それで良い、と言ってくれた。
「これはあくまで私の仮説の話。最初にそう言った。だから、私は彼の置かれていた状況でしか推測することができない。死者の感情を理解しようなんて……私たちの強欲だよ」
ジリアさんの言葉は、彼女が『戦死通知課』という場所に立っているからこそ――誰よりも死者の感情を理解しようとしているからこそ出てくる言葉なのだと直感的に思った。彼女は多分、そこまで冷酷な人じゃない。そうでなければ、カーミュラ・セリエに食い下がることなんてしなかっただろうから。
「じゃあそれだと、カイネル・ロウェントは、カーミュラ・セリエが母親だということに気づいていたということになりますね」
「カーミュラ・セリエはこの村に戻って来て、まだ息子が生きていたことに……どう思ったのだろうな。少し考えれば当然なのに、そうまでして帰って来たのは……本当に、あのアリアという娘を愛していたから、なんだろう。そしてそうまでして守られている彼女を見て、カイネル・ロウェントは、母親にどういう気持ちを……抱いたのだろうな」
「……」
答えの無い問いが、夕焼けの中に溶けていく。カイネル・ロウェントの想いは永遠に解かれることはない。そんな無念を考え続けること――それが、もしかしたら今回僕らに課せられた使命なのかもしれない。死してなお、帝国に忠義を尽くさせる――今回は遺書を届けることは叶わなかったが、『戦死通知課』という組織としては正しい行いだったからこそ、ジリアさんはあの場で届けないという選択をしたのだ。死者の遺志を蔑ろにしていることは、いつだって変わらない。だからせめて考え続けなければならない。死者の冥福ではなく、今を生きる者の幸福を。
「戦死通知課では、今回のようなことはよくあるんですか?」
「珍しいケースだ、とは言わない。今までも、受取人が自らの不都合を理由に拒否されたことは何度かある。まぁ、ここまで事情に正確な仮説が立てられないのは、なかなか無いがな」
「そうですか……」
「遺書が届くことだけが彼らの幸せとは限らない。ただ今回は少し……カイネル・ロウェントに同情してしまっていたのかもな。私も、まだまだ未熟だよ」
そう言ってジリアさんは一人反省した。彼女もまた、『戦死通知課』で答えを探す一人なのかもしれない。いつだって強い意志を見せていた彼女でも、まだ何かを決するには早いと思っている部分があるのだ。
「そう言えば、もう一つ疑問があります。カイネル・ロウェントはそうまでしたカーミュラ・セリエを恨んでいなかったのでしょうか? 生みの親にそんな扱いを受ければ、それこそ彼女が母親であると気づいたと同時に、報復をしてもおかしくないですよね?」
例えば彼女の存在を露見させるだけで、この村では腫物のように扱われるだろう。しかしそういったことはなく、カーミュラ・セリエは問題なく、娘とともに平和に暮らしている。カイネル・ロウェントがもう彼女との関係について気にしていなかった可能性もあるが、それでは遺書を残した理由がわからない。
しかしその疑問を聞いたジリアさんは、あぁ、と短く言ってから、さも当然の顔で僕に告げた。
「それは、アリア・セリエが、カイネル・ロウェントの想い人だったからだろう」
「え、えぇっ⁉」
衝撃、と言うには可愛過ぎた。一体どんなことがあればそんな結論を導き出せるのか。僕はすぐに、どうしてそうなるんですかと聞き直していた。
「そう考えれば自然に辻褄が合うんだ。彼がカーミュラ・セリエに報復しなかったこと、そして兵士となった理由も」
彼女の突飛な発想に追いつけず混迷に陥る僕に、彼女はゆっくりと順を追って説明してくれた。
「彼がどこぞの娘に惚れていた、というのはウィットナーくんも聞いていただろう。それがアリア・セリエだったのだ」
「で、でも、アリアさんはカイネル・ロウェントを知りませんでしたよ?」
「当然だ。彼はアリアがカーミュラの娘であることに気づいていた……つまり、腹違いの妹を好きになってしまった、ということになる」
ジリアは、次の発言のために深呼吸をした。ふぅ、と吐き出された空気には、どことなく疲れが混ざっている。
「彼は思い悩んだ。自分の好きな少女とは結ばれてはならない。かといって母親の存在を告げる報復行為をすればセリエ一家を――自分の想い人を傷つける。そこで彼が選んだ手段が、現実から逃亡することだった」
「それが、カイネル・ロウェントが兵士に志願した理由……」
正直、出来過ぎだと思った。しかし彼女の推測に反論する言葉を僕は持てなかった。心機一転か、自暴自棄か。とにかく彼はこの村から出て行くことを決めた。最も手っ取り早い方法――兵士になることで。そして戦場の塹壕に手紙を残し、たった一人で死んでいったのだ。
「確証なんて、もう無い。でもこれが、私の思っている真実だよ」
どこまでも、報われない。カイネル・ロウェントはたった一人で悩み、藻掻き、苦しみ、最期は本人の何が変わることもなかった。遺書をカーミュラ・セリエに宛てていたのがその証拠だ。彼はずっと、彼女の呪縛から解き放たれることはなかったのだから。そしてその手紙の内容は結局わからずじまいだ。それが母への怨念の残滓か、その娘への告白か、告発かも。
「……もしその仮定が本当なら、母親は息子のことを、自身を縛るものにしか考えていないんでしょうか」
「そうだろうな。カイネル・ロウェントは彼女を脅かす存在。息子の遺書を受け取らなかったことも、自分の正体が露見することを恐れてだろう」
ジリアは苦虫を噛み潰したような表情で、カーミュラ・セリエが手紙の破棄を望んだ理由を述べた。
「でも、もしかしたら」
一抹の可能性に、僕は思わず口から考えを漏らしていた。
「母親は、息子とともに娘を守ろうとしたのではないでしょうか」
どういうことだ? と聞いてくるジリアに、仮定でしかないんですけれど、と彼女と同じ前置きをしてから答える。
「アリアさんの薬指には指輪がありました。――母親は、結婚するアリアさんのために、カイネル・ロウェントの想いを犠牲にしたんじゃありませんか?」
「……なるほど。母親の素性がばれれば、結婚が破談になる可能性も少なくない。それを阻止するために、カイネル・ロウェントの手紙を受け取らなかった、ということか」
僕の想像を、ジリアは正しく読み取ってくれた。彼女の頭の回転に何度目かもわからない驚きを得ながら、僕はその通りです、と肯定を示した。
「だとすると何を一緒に守ろうとしていたと言うのだ? 明らかにカイネル・ロウェントのことを切り捨てているだろう」
「……カイネル・ロウェントの恋感情を、母親が知っていた場合です。もしそうなら、彼女は生きる者のために、死者の想いを――ちょうど僕達のように」
戦死通知課本来の目的は『軍に対する反勢力の事前抑止』である。だからこそ遺書の偽造も行うし、想いをすり替えることだってする。しかし、綴った想いが本意でないとも限らない。
「突拍子もない話だ。カイネル・ロウェントは母を恨むこともなく、しかも彼女に愛されていた娘の幸せを願っていたと。彼は随分と……お人好しだな」
そう言われてしまえばそれまでだ。僕の浅い想像力では、辻褄の合わない希望的観測を語るのがせいぜいだ。だが僕は少しでも――ほんの少しだけでも、あの哀れな息子が笑っていられるような『今』を考えたかった。
「しかしそれが事実ならば、真実が明かされることは彼の意に反する……カーミュラ・セリエは息子の最後の想いを、受け取らないという選択肢で叶えたのかもしれないな。そうだと、良いな」
言うとジリアさんはバギーから降りて、春の芽吹きの元へと歩く。屈んで摘み取ったのは、彼女が貧乏草の話をしたハルジオンだった。
「貧乏になっちゃいますよ」
「私は貴族出身だが、今は特別裕福というわけでもない。そんなことは気にしないよ」
そしてポーチから未開封の遺書を取り出すと、摘み取ったハルジオンを重ねて、マッチで焼いてしまった。
「ハルジオンの花言葉は『追想の愛』。もしウィットナーくんの仮説が正しいなら……いや、正しいことを願って、私はこうするよ」
ジリアさんはそのまま両手を指を重ねるように握り、もうこの世にはいないカイネル・ロウェントに黙祷を捧げた。追想――その想いを抱いていたのは、母か子か、それは僕達にはわかり得ないことだ。もう読まれることのない手紙と一輪の白い花が小さく立てる煙は、星の浮かび始めた夕暮れの空へと届いていくようだった。
「さて、行こうか。ウィットナーくん」
立ち上がったジリアさんはゴーグルを頭に引っ掛け、バギーを走らせる準備をし始める。手慣れた動作に続いて、僕も恐々乗り込み、ふとあることを思い出した。
「そういえば鳥キャベツ丼は良かったんですか?」
ぽかんと口を開けたジリアさんは、実に微妙な顔で村を見る。関所もほどほど遠ざかり、戻るという選択肢が合理的でないことは誰の目にも明らかだった。
「……」
彼女はしばらくテバリ村を見つめていたが、やがて、行こう、と短く言った。その声が若干震えていたのは、僕の聞き間違えだったのかもしれない。
※
「お母さん、帰ったよ。軍の人達」
「そう。――彼らは何か言っていたかしら?」
「え? ううん、特には。あ、でも『お幸せに』って言ってくれたよ。お母さん、私が結婚することを話したの?」
「……えぇ」
「そっか。お母さんもお喋りね」
言い残すように去って行こうとした娘を、アリア、と呼び止める。ん? といつもと変わらない返事に安堵し、×××××は言った。
「私は私の子が大好きよ。忘れないでね」
「ありがとう。私もよ」
そうして部屋を出て行った少女は、笑顔を絶やさず何も知らずに幸せになっていく。それで良いと彼女は思った。それが母親の願った形なのだから。ごめんなさい、そう呟いたのはきっと、カーミュラ・セリエではなかった。
「ジリアさん! やっぱり速すぎますってば!」
かけているゴーグルがぶっ飛ぶんじゃないかと思わせられるほどの風圧。今日の天気は快晴かつほぼ無風なのに、体が縛りつけられるような感覚に見舞われている。そんな絶叫じみた忠告ですら、平気で無視してアクセルを踏み抜く女性――アリトワ・ジリアには届きはしない。絹糸のようになびく金髪は、地味なゴーグルをかけていてもわかる精悍さを引き立たせている。しかし今は、その美しさからは想像できないほどの乱暴運転だ。
「時間が惜しいんだ、ウィットナーくん」
一蹴。たった一言で、僕の命は削られるような思いだ。
「べ、別に急ぐ理由は無いじゃないですか!」
「時間は有限だ。移動時間などという無駄な時間を悠長に過ごしている暇があったら、一つでも多くの任務を捌かなければならない。我々はいつだって人材不足だ」
そう言われてしまえば僕は押し黙るしかない。さらに彼女は『戦死通知課』における、僕の直属の上司である。故に下手に逆らうわけにもいかないし、無理矢理運転に手を出そうものなら二人ともただでは済まない。しかし体がもぎ取られそうな恐怖からか、何度目ともわからない絶叫を繰り返すしかないのだ。
「事故に遭ったら元も子も無いですよ!」
「大丈夫だ。安全確認はできている」
普段はとても落ち着いていて頼りになる上司なのに、なぜか運転の時だけは人が変わったようにかっ飛ばすのだ。ジリアさんは毎度『急ぐから』などと言うが、職場にいるときはそんなにせっかちな場面は見たことがない。純粋に付き合いが短いからかもしれないが、僕にはどうにも別の理由があるとしか考えられないのだ。
「ジリアさん。もしかして、なんか発散してませんか?」
「してない」
「イライラとか…」
「してない」
「ストレ」
「たまってない」
なんだか最後だけやけに反応が早かったように聞こえたのは気のせいか。しかしじろりとゴーグルの中のの視線をぶつけらると途端に何も言えなくなる。僕は逃げるように高速で移り変わる景色に視線を飛ばした。
「……昼までに着きたい。もうちょっと出すよ」
「嫌がらせじゃないですよね⁉」
「…………違う」
「なんですか今の間はぁ⁉」
田園広がる風景の中、僕は再び絶叫しながら、どうしてこうなったのだろうと考える。
※
「やぁ二人とも。調子はどうだい?」
同日の午前中。つまりついさっきの話であるが、新人である僕ことケイン・ウィットナーと、『教官役』のアリトワ・ジリアは、『戦死通知課』課長であるトリル氏に呼び出されていた。
「フォーラス村の報告は受けているよ。……どうだい? ウィットナーくん」
「……」
じっと真剣な表情を向けるトリル課長に、少しばかり驚いた。いつもは飄々としている彼だが、この話は、それだけ真面目な態度を要求しているということだろう。フォーラス村の一件――つまり僕の初任務。ジリアの助手という立場で付いて行ったに過ぎないが、それでも、この仕事の『闇』とも取れる部分に触れた。
――遺書の偽造。建前は戦死者の家族にかかる精神的負担を減らすためだが、紛れもなく、死者を冒涜する行為だ。
国の内乱の兆候を少しでも抑制するための政策。死してなお国のために忠義を尽くさせることを、果たして僕は容認できるのか。
「僕には、まだ答えがわかりません」
本心を言った。トリル課長はじっと僕を見つめて、静寂が包み込む。たっぷり五秒は気まずい時間が『戦死通知課長室』に流れた後、彼はそうかい、と答えるだけだった。。
「で、でも、少なくとも、ジーナさんは救われたと思います。――僕は、そう思います。ですから、この仕事が正しいのかどうか、ちゃんと見定めたいです」
逃げるわけではない。フォーラス村で夫の訃報を聞いたジーナさん、そして僕の母親も、もう一度前を向いて歩き出すことができた。偽物の現実を作り出すことへの怒りや失意と、彼女らがこれからを生き続けること。僕の中で、果たしてどちらが大きくなるのかはわからない。だから答えは、今度こそ自分の目で見つけたい。誰の手も加えられていない、本当の現実に居ることで。
「……それが聞ければ十分さ。これからもここで学んでくれ。この国が、そして我々『戦死通知課』が、どう進もうとしているのかを」
「はい」
再びしばしの沈黙。それぞれが、それぞれの内で考えることがある。正しさの裏に存在する過ちに向き合う覚悟が要る。誰が正義なんてものは、きっとここには存在しないのだろう。もしそれがあったとすれば、僕はトリル課長に、きっと糾弾されていたはずだから。
「トリル課長。本日はどのようなご用件でしょうか」
静寂を打ち破ったのは隣で微動だにしなかったジリアさんだ。相変わらず考えのわかりづらい気難しい表情をしながら僕らの会話を黙って聞いていた。彼女は偽物の現実が誰かの未来を救う――そう信じている人だ。だからもしかしたら、僕の曖昧な答えは気に食わなかったのかもしれない。ただ、僕に真実を伝え、逃げ道を用意してくれた彼女は、僕の中では紛れもなく優しい人だ。
「あぁ、そうだね。本題に移ろう。今日は二人に手紙……いや、『遺書』を届けて欲しい」
「それは……」
「こんな質問をした後でなんだけど、今回は本物さ」
言いかけた疑問は、トリル氏が懐から取り出した手紙によって阻まれた。差し出されたものをジリアさんが受け取り、僕はそれを横から覗き込むようにして確認する。まだ封も開いていない。しかし外紙はところどころが擦れてしまっていて、真新しさは感じ取れなかった。そのお世辞にも上等とは言えない作りの遺書は、記憶に新しいジリアさんが用意した偽物とそっくりだった。裏にはとある場所と差出人の名前が書いてあり、『テバリ村 煉瓦の屋敷』と、『カイネル・ロウェント』とある。
「これは三年前の戦地の塹壕後から見つかったものらしい。戦死者の名簿リストとも、照合が取れている」
「つまり今回の任務は、この遺書を宛先まで届ける、と」
「そうだ。もはや郵便局に回せば良い案件なんだけどね。国のために殉職した兵士の最後の想いだ……無下には扱えない」
「……そうですね」
ジリアの肯定はどこか弱々しかった。その台詞は、昨日の任務に対して言えば真逆である。死者を貶めることをした人間が、都合良く同調することへの、罪悪感。しかし彼女は顔色一つ変えることなく、その遺書を丁重に受け取った。
「すぐに行って来ます」
「あぁ。バギーと地図は好きに使ってくれ」
「了解しました」
――ゆっくり走ってくれたら良いなぁ。
僕は呑気にもそんなことを思っていた。この瞬間の、もしかしたら彼女に頑張って訴えれば少しは加減してくれるのではないか――と淡い期待を抱いてしまった自分をぶん殴ってやりたい。
僕らが部屋を出ようとすると、トリル課長からウィットナーくん、と呼び止められた。
「我々がしていることの意味。それをしっかりと探してくれ」
それは、この仕事の答えを求めるようなアドバイスであった。トリル課長でさえ――そこまで思考を働かせて、無理矢理に押し止めた。今は、僕が僕の答えを探すべきであり、誰かの考えに感情を押しつけることなどできない。ジリアさんですらそうなのだから。僕は少しの空白の後、はい、と元気良く言った。トリル課長は満足そうに、いつもの人当たりの良い笑顔を作っていた。
その後僕とジリアさんは地図でテバリ村の場所を調べると。
「少し遠い。急ごう」
はっきりと、そう言われた。
※
村の関所に辿り着き、疲れた表情でバギーから降りる。この国には四季があり、現在は春である。ゴーグルを外すと、やんわりと暖かくなったこの時期のテバリ村のそこかしこに、帝都では見られない新緑が広がっていた。心中穏やかではなかった僕だが、それでもこのように自然味溢れる様子を見れば、多少なりとも吸い込む空気がおいしくなった気がした。
「わぁっ……! すごいですね」
思わず上げた歓声の先には、花畑と言っても差し支えない風景があった。純白の細かな花弁を持つ花は決して大きくないのに、それでも地面に敷き詰められた緑色を覆うようにその場所に強く根付いている。
「あれはハルジオンか。綺麗に咲いているな」
「ハルジオン、ですか?」
僕はジリアさんに聞き返した。大して花の知識を持たない僕は、田舎に住んでいた頃でさえ近所に咲いている花の名前も知らない。業務とは何一つ関係無い質問だが、彼女は穏やかな口調で教えてくれる。
「あれは春に咲く花でな。『貧乏草』とも呼ばれるらしい」
「び、貧乏草? それは随分酷い呼び方ですね」
「なんでも、摘み取ると貧乏になってしまう、なんて話があったとか」
「……素直に花を愛でられなくなる話、やめません?」
優しさに反して伝えられたのは知らなくても良い俗説だった。僕の言葉を聞いたジリアさんは少しだけ笑みを浮かべると、家々の見える村へと視線を移す。
「のどかな場所だな」
「……そうですね」
貴女の運転とは対極ですね、と心の中だけで呟く。
「昼前に着けて良かった。どこかで昼食を取ったら、早速この遺書を届けに行こう」
――まさかこの人、腹時計基準で動いてないか?
そんな疑問もまた、僕の内側で巡るだけに終わる。バギーを関所に預け、僕らはいつもより心地よく感じるそよ風の中を歩き出す。
※
任務はテバリ村の調査から始まった。以前と同じように、人の多く集まる大衆食堂――こういった、帝都から距離のある小さな村では通例らしい――に行き、『煉瓦の屋敷』と『カイネル・ロウェント』について聞き込みをする。食堂を利用することにはアリトワ・ジリアという人間に対しての若干の疑問が無いわけではない。ただ実際、フォーラス村ではしっかりと地域民と交流を深めて村長の家をちゃんと突き止めていた。軍人であるという時点で多少なりとも警戒心を抱かれる僕らが初めて訪れる村で動きやすいように、彼女は『仕事』に取り組んでいた。こうやって休憩時間一つも無駄にせず、僕に『見せ』て教授してくれているのだろう。例え、店員に真っ先に聞いたのがこの店の定番メニューだったとしても。
フォーラス村での一件と異なるのは、やはり殉職を知らせる兵士自身が遺書を記したということである。偽造するでもないただの通達は、僕の中では大変安堵してしまうことだった。もちろんその『想い』が決して軽いものではないことくらいわかっているけれど、どうしても、虚偽を働くという罪悪感に苛まれないことだけが救いとして心の中にあるのだ。
結局、書き入れ時に忙しかったらしい店員は、メニュー表を指差しただけであった。ジリアさんは後輩に背中を向けたまま、おそらく『おすすめ!』と書かれた商品に目を向けていた。
「ウィットナーくん。……親子丼で良いか?」
「やっぱり」
思わず声に出ていた。
不特定多数に対する聞き込みとしては、ひとまず情報が露見しないように、『煉瓦の屋敷』についての情報を、それとなく伝えてみるといった具合だ。しかし個人名はあらぬ憶測を呼びかねないということで、『カイネル・ロウェント』の名前は確証を得るまで伏せるようにする、というのはジリアさんからの指導である。それでは難しいかと思ったが、僕の一杯目親子丼が無くなるとき、もしくはジリアさんがおいしいと絶賛して、二杯目を注文し終えたときに、求めていた情報――正確にはそれを持った人――が現れたのだった。
「この村で『煉瓦の屋敷』っていやぁ、そりゃあカーミュラさんのところじゃねぇか?」
そう言ったのは壮年に見える男性だった。体つきの良い人で、屈強な肉体は薄手の服の上から見て取れる。焦げた肌と相まって、腕なんかはさながら大木のようだ。
「カーミュラさん、ですか」
箸を止めていたジリアは彼の言った名前を復唱する。
「あぁ。十何年か前に、村に移り住んで来た女性だよ。どうやら帝都でこの村の男と恋仲になったんだと、噂で流れてたこともあったなぁ」
なにせ小さな村だからな、と男性は白い歯を見せながら笑う。思えばジリアさんが引き留める人は、失礼だが、それなりの年齢を刻んだ人を選ぶ傾向にある。これは不特定多数から話を聞き出すためには有効な手段、ということなのだろうか。もしくは、気さくな人間を選別することが得意、ということもあるかもしれない。
そういえば、と先日の一件を思い出す。彼女は仕事の性質上、他者の理解や性格の判断が得意なのかもしれない。人の死を伝えるという残酷な任務を請け負っている僕らには、そういった力は必然的に身につけなければならないのだろう。そんな思考を巡らせているうちに、ジリアさんは壮年の男性に『カーミュラ』という人物についてさらなる聞き込みをする。
本名はカーミュラ・セリエ。先の話の通り、どうやら帝都から移住して来た女性らしい。テバリ村から出稼ぎに行っていた男が、帝都で怪我を負い、退職してから彼女をこの村に連れてきたということだった。二人は既に夫婦であり、その間には一人娘を授かっていたらしい。しかしその娘が生まれつき体が弱かったということで、空気の澄んだこの村へと落ち着いたのだという。
「テバリ村は自然が豊かで、南の一帯は森に覆われてる。家を建てるときは、有り余った木材を使った木造建築が多いんだよ」
「なるほど。つまり、そもそも煉瓦の家自体が少ないと」
「おうよ。だがカーミュラさんの家は体の弱い娘さんのこともあって、この村では珍しく煉瓦で建てたんだ。なんなら、村の住宅街を回ってみるといいぜ。村っていう割には結構な数の家が並んでるからよ。俺の言ったこともすぐにわからぁ」
煉瓦の材質は、耐熱や蓄熱に秀でている。そのため倉庫などの室内温度を一定に保ちたい場面では重宝されるのだと、学生時代に本で読んだことがある。四季の移ろいがあるこの国においては、食物の備蓄や、工場で作られた部品などが錆びたりしないようにといった用途で、帝都などではよく採用されているのを、実際に僕自身も目撃したことがあった。
「わかりました。後で気にかけてみることにします……それで、その『煉瓦の屋敷』はどこにあるのでしょうか?」
「おっといけねぇ。話が脱線しちまったな。お嬢さんたちが探してる煉瓦の『屋敷』ってーなら、今言った南の森の中にある家で間違いないだろうよ」
その言葉を聞いたジリアさんは、関所で借りたテバリ村の地図を開く。男性にとって北が上へ向くように差し出すと、彼は迷うことなく、その下の方にある『森林』と書かれた場所を示す。
「この森だ。道は整備されてるから、道なりに進みゃあいい。三十分くらいで屋敷が見えてくるはずだ」
「わかりました。――ではもう一つ、カイネル・ロウェントさんをご存知ですか?」
男性からの情報に信憑性を得たのか、とうとうジリアさんは差出人の名前を出した。すると男性はあぁ、と頷くと思い当たる節がある素振りを見せる。
「カイネルっつったら、しばらく前に兵士に志願した男だろう。確か赤んぼの頃から孤児院で育てられたやつだった気がするぜ」
「孤児……ですか」
「あぁ、いわゆる天涯孤独ってやつさ。どうやら両親共々行方知れずで、そういう事情になっちまったとさ」
平たく言ってしまえば、彼は捨て子だったというわけだ。親も居ない暮らしを続け、最期は戦争によって命を落とした――何とも報われない話である。僕は思わず、もうこの世には居ないカイネル・ロウェントを哀れんだ。
「そいつはカーミュラさんと関係があるのか?」
それは男性の純粋な疑問だったようだ。確かに、カイネル・ロウェントとカーミュラ・セリエに特別な接点は見えない。彼がお世話になった人とも考えられるが、それならば普通は孤児院に居るであろう育ての親にでも手紙を遺すのが筋ではないだろうか。
「……彼は先の戦争で殉職なさいました。私たちは、彼の残した『遺書』を届けにやって来たのです」
ジリアさんは全てを打ち明けた。男性は一瞬だけ目を見開き、今度はぐっと強く瞼を塞いで言った。
「……そうか。お嬢さんたちは『戦死通知課』の人だったのか」
「はい」
「……いつの時代も、自分より若い奴が死ぬのは悲しいもんだ。その遺志、必ず届けてやってくれ」
「もちろんです。それが私たちの任務ですから」
ジリアさんは強く頷いた。それは果たして任務ゆえか、自らの意志か。それとも、何も知らない一般人を騙してでも平和を築こうとする罪悪感からか。僕のような若輩にはまだ彼女を推し量るなんてできはしないが、彼女は間違いなく真摯な態度で死者に向き合っている。今はその気持ちが見えただけで良いと思った。ジリアさんは静かになった空間に一石を投じる。
「カイネル・ロウェントが軍役に志願したのはいつ頃か、わかりますか? 年齢と、具体的な年数がわかれば、幸いです」
「んん? っとなぁ……俺が二十歳の時には孤児院に入った話を聞いたから……今が三十手前ってとこだろう」
ということは、男性の年齢は四十代後半から五十歳くらいと推測できる。意外と若いのだな、と失礼なことを思いながら、カイネル・ロウェントに対する新たな情報を手に入れた。そしてジリアさんが礼を述べようとした瞬間、屈強な男性は思い出したようにこんなことを言った。
「そういやカイネルについては噂を一つ聞いたことがあるぞ」
「それはどのような?」
「なんでも惚れた女が居たらしい。上手くいったかまでは知らんがな。……おおっと、下世話野郎だなんて勘違いすんなよ。俺は仕事上、村の情報にちと詳しくてな。お偉いさんの会話からおばちゃん達の井戸端会議まで、結構聞くことが多いんだよ」
一体何の仕事をしているんだろう? という疑問は当然のごとく生まれたが、それは大したことではないだろう。それよりも、カイネル・ロウェントには想い人が居たというなら、最期の手紙がカーミュラ・セリエ宛であることには余計に疑問が残る。まさか家庭を持つカーミュラ・セリエがその相手だったとも考えにくい。やはり、彼らの間には何か当人同士の関わりがあるに違いない。
「まぁ噂だ噂。カイネルはこの村で目立っている奴でもなかったし、知ってることは全部伝えといた方が良いかと思っただけだからよ。忘れてくれ」
かかか、と綺麗な並びの歯を見せながら男性は自己完結した。どういう経緯かは知らないが、僕はその情報力に信頼を置き、ひとまずその噂すら頭に入れておくことにした。
「助かりました。混乱を生む可能性もありますから、しばらくは彼についてのことは伏せておいていただけますか?」
「おう。向こう一月は心の中に仕舞っておくよ」
「ありがとうございます」
今度こそジリアが頭を下げるのを見て、慌てて僕も同じようにする。空になったどんぶりに頭を突っ込みかけ、盛大に男性に笑われた。
「いいってことよ。それよりお嬢さんたち。そのどんぶりは鳥キャベツ丼か?」
「鳥キャベツ丼……? なんですかそれは」
ジリアさんの声のトーンが少し変わった気がした。それはあまりにも些細な変化だったけど、なぜか僕は冷や汗をかいた。
「いや、この時期になったら春キャベツが出てくるからな。この店、年中メニュー表を変えねぇくせに、季節ものは聞いたらあるかもしんねぇんだよ」
でも店員が忙しいからな、聞けねぇんだよ、と続けた男性の声は、どうやらジリアさんには届いていないようだった。いつも冷静な彼女が口をわななかせていると、新しいどんぶりが運ばれてきた。
「お、良いところに。店員さん、鳥キャベツ丼はもうやってるかい?」
「……ありますが」
「じゃあそれで」
それじゃあな、と言い残し、気さくな男性は似合いすぎる笑顔で去って行った。僕の目の前には、空になったどんぶりが二杯と、眩いくらいの黄金色をした三杯目の親子丼。さらにそれらを硬直した表情で見つめるジリアさんが残された。
「……」
「……えっと」
いつも気丈で冷静な上司は今にも泣きそうな表情をしており、当然僕はいたたまれず、目の前にある空のどんぶりに今度こそ頭ごと突っ込みたくなった。
※
森は暖かなこの季節に相応しい様相だった。幾歳月を経たと思しき風格を持った幹たちが、新緑をかぶり、揺らす。道の両脇に繁茂する草々も、葉っぱの奏でる自然の重奏に合わせるかのごとく、小さな体を右へ左へと振っていた。まさに森林――乱立しながらも豊かな土壌を一致団結して組み立てる大自然の構図がそこには存在した。
「おじさんのお話では、この森を道なりに進むということでしたよね」
「……あぁ。他の方からもいくつか情報を頂いたが、全て一致していた」
僕の確認に対して、ジリアさんの返しには元気が無い。さっきからしきりに、トリ、キャベ、と呟いているところを見ると、季節ものを逃してしまったショックが非常に大きいらしい。なんなら店を出る直前まで自分の胃袋と葛藤していたくらいだ。多分僕が急かさなかったら、この人はさらなるどんぶりにチャレンジしていただろう。彼女は帰りに晩ご飯を食べようと言っていたので、おそらくそのあたりの妥協で今の状態に落ち着いている。
生憎、傷心の上司にかける言葉など持ち合わせておらず、僕らは無言で土の上を歩き続ける。――正確にはジリアさんの小さな小さな呟き声があったが、そんなものは森の騒めきにかき消されていたのだけれど。
「……そういえば、カイネル・ロウェント氏は孤児だったんですね。てっきり遺族に宛てた手紙かと」
「お世話になった人に手紙を遺す者も多い。なにも血の繋がりだけが家族ではないさ」
せめてもと、僕は話題の提供を試みる。壮年の男性が教えてくれた通り、歩くこと三十分弱。唐突に葉と土以外の色、少し色落ちした赤橙が見えた。お、と思わず出た声に、隣を俯きがちに歩いていたジリアさんが顔を上げる。
「見えたな」
「こんな森の中に一軒だけ……そりゃ目立ちますよね」
平たく整備された土の道路から、少しだけ森へと足を踏み入れた場所。そこに宛先通りの『煉瓦の屋敷』は存在した。屋敷というだけあって、下級貴族が住んでいてもおかしくない大きさだ。荘厳、という言葉がよく似合う。白い三角屋根がいくつか連なり、その下は窓とドア、玄関前の木製階段を除いて、殆どの素材が煉瓦だと見受けられる。そして、今は任を解かれているのであろう、突き出た一本の煙突が特徴的な邸宅であった。
「これを建てたカーミュラさんの旦那さんは、一体なんの仕事をしていたんでしょうね?」
「わざわざ王都に出ていたのだから、実入りの良い仕事をなさっていたのだろう。さて、私たちもお邪魔するとしよう」
言うとジリアは、煉瓦の屋敷を見上げていた僕などお構いなしにズカズカと庭に踏み入る。後ろから彼女を追うと、その広さゆえか、あまり雑草の管理が行き届いていない光景が目に入った。玄関に着くと、ジリアさんはようやくこちらを一瞥してから、ドアノッカーを鳴らした。コンコン、という小気味良い金属の音が跳ねると、一分ほどしてから一人の少女が現れる。
「……どちら様でしょうか?」
半開きのドアから見えた彼女の姿を見た瞬間、僕は――否、僕らは、彼女が『カーミュラ』ではないことを察知した。理由は明白。艶やかに伸びる髪も、血色の良い肌も、とても話に出てきた女性の年齢と合わなかったからだ。見たところ少女は十七、八といったところで、僕とそう変わらないだろう。華美な装飾品は身につけておらず、左手に光る指輪だけが奥ゆかしくも主張をしている。若くはあるが、既婚者なのだろうか。
「こんにちは。私は帝国軍、戦死通知課所属の、アリトワ・ジリアです」
「同じく、ケイン・ウィットナーです」
ジリアさんがお辞儀による敬礼をしたのに続いて、僕も同じく頭を下げる。軍の所作については士官学校時代に毎日行っていたため、我ながら慣れたものである。しかし、斜め後ろから見えるジリアさんのそれは、さすが元兵士といったところか、実に機敏で美しかった。とてもさっきまで気落ちしていた人とは思えない。
「え……と、軍の方々が、一体何のご用件でしょうか……?」
おどおどとした様子でドアを背にした少女が尋ねてくる。当然ではあるが、こんな森の奥深くには、そうそう人はやってこないだろう。ましてやそれが軍の人間だとわかれば驚きも警戒もする。僕は普段よりも少しだけ口角に気を付けた。ジリアさんは制服に備え付けられた小型のポーチから、薄汚れた手紙を取り出す。
「手紙を届けに参りました。差出人はカイネル・ロウェント氏。ご存知ですか?」
はい、知っています。僕は彼女がそう言うものだとばかり思っていた。だから、少女の次なる言葉に少しだけ困惑した。
「……いいえ。知りませんが、どちら様でしょうか?」
少女は最初に僕らへと向けた言葉をそのまま伝えてきた。カイネル・ロウェントは最近とは言わずとも、亡くなってからそう時間は経っていないはずだ。おそらく彼女とも、なにか接点があるものだと踏んでいたのだが。
「では今、カーミュラさんはご在宅でしょうか?」
僕と違い、ジリアさんは全く動揺を見せることなく次の質問を繰り出した。
「母のことをご存知なんですね」
「村でこの手紙の宛先を探すときに、カーミュラさんの名前を何度か耳にしました」
「なるほど。でしたら母の知り合いかもしれませんね」
「ではお手数ですが、お母様を呼んできていただいてもよろしいでしょうか? もしかすると、ご存知かもしれません」
「でしたら中へどうぞ。母は足を悪くしておりまして、今は車椅子無しでは動けないのです」
「――そうですか。では、お邪魔させていただきます」
答えると、少女はさっきよりも大きく扉を開いてくれた。僕らは彼女の案内に従って屋敷へと入る。外装の派手さとは対照的に、内装は装飾華美というわけではなく、意外と閑散としている。
「おかしいでしょう? 外と違って、中は普通の家となんら変わらないんですよ」
僕の心を見透かしたかのように女性がはにかむ。
「昔はもうちょっと、花瓶や絵画、なんなら使用人もいたんですが……父が亡くなって、母が体調を崩してしまってからは、価値のあるものは質屋に出して、お金を工面することにしたんです」
なるほど、道理で庭が雑草だらけだったわけである。一人納得していると、だから庭の整理もできていないんですけどね、という少女の一言で、僕はまたびくりとしてしまった。
「では、お母様のお世話は娘である貴女がしているのですね」
「子どもの義務ですから。それに私の場合は昔から酷いぜん息を患っていまして。そのことで、両親には本当に苦労をかけてしまいました」
その言葉を聞いたジリアさんは、少し間を空けてから、そうですか、と呟いた。どこかいつもよりトーンが低かったのは、まださっきの季節限定どんぶりを引きずっているからか。
「でも、ですから、その証であるこの屋敷だけはどうにか残したいんです。見てくれだけになるかもしれませんけど、これが私にとって、最も両親の愛を感じ取ることができるものなのです」
「それは、とても良い心がけですね。ぜひ大事になさってください」
「すみません。聞かれてもいない話をぺらぺらと。その部屋が、母の寝室です」
言うと少女は多くある扉の中から一つを指し示す。彼女がノックをすると、内側から低めの女性の声で、はい、と短い返事が返ってきた。
「お母さん。今大丈夫かしら? 軍の方がお見えになられているのだけど」
「軍の方……?」
くぐもった声で少し困惑した様子を見せたカーミュラと思しき人物は、娘の、なにか聞きたいことがあるそうなの、という一言で、入ってくださいなと返してくれた。娘がゆっくりと開き戸を押し、僕らに先に入るようにと促す。ジリアさんが軽く会釈をしたのに習って、僕も案内をしてくれた娘さんに感謝を伝えた。
部屋には低めの本棚があり、おそらく、足の悪いだという母に配慮した作りだと思われる。それ以外には彼女が座しているベッドと、その横に簡易ランプがある程度だ。屋敷と同じように華美なものは一切見当たらず、質素な生活態度の片鱗がうかがえる。
「ごめんなさいね。足が悪くて、立つのが億劫なのよ。このままで許して頂戴ね」
口調の柔らかい人だった。毛の色は殆どが抜けていて、彼女の年齢が娘と大きく離れていることを感じさせる。彼女がこの村に来たのは十数年前ということなので、子どもを産んでからそう経たないうちにこの村へやって来たのだろう。
「お気になさらないでください。こちらこそ、わざわざ上がってしまって申し訳ございません。私はアリトワ・ジリアです」
「ケイン・ウィットナーです」
「あらあら、ご丁寧にありがとう。私はカーミュラ・セリエと言います。よろしくね」
そう言う膝掛けをした女性は、見た目だけで言えば六十と言われても納得してしまいそうだが、娘さんの年齢を考えるともう少し下だと予想できる。にこりと笑う表情がとても愛嬌のある母親だった。
「お茶を持ってきます」
娘さんが言うと、カーミュラさんはお願いね、とその人当たりの良い笑顔を向けた。
「それで、どういったご用かしら? わざわざこんな森の奥まで、大変だったでしょう?」
「いえ、綺麗な森で、とてもリラックスできました。良い場所ですね」
「あら、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。私の夫が残してくれた、数少ないものだから」
確かに、森を歩いているうちにジリアさんの荒んだ心は持ち直したようである。その原因はと問われれば、口が裂けても言えないが、ジリアさんの言葉にカーミュラさんは喜んでいるので良しとしよう。
「本日はお手紙……いえ、遺書を届けに参りました」
「遺書……?」
『遺書』。カーミュラさんはその言葉を聞いて、笑顔を訝し気な表情に変えた。ジリアさんは先ほど玄関でしまっていた手紙を再び取り出す。
「私たちは帝国軍、戦死通知課の者です。先日塹壕から発見されたこの遺書の宛先が、『テバリ村 煉瓦の屋敷』と、この家になっていました」
「……失礼ですが、それは本当に私宛でしょうか? いえ、確かにこの村に煉瓦の家自体殆どありませんから、うちで間違いないのでしょうが……私には最後の手紙を届けたがるような知り合いはいませんよ。もしかして、娘宛ではありませんか?」
「差出人はカイネル・ロウェント。ご存知ありませんか?」
瞬間、彼女の表情はより一層怪訝なものになる。その双眸に宿ったものが困惑なのか動揺なのか、この時の僕には知る由もなかった。
「――知りませんね」
カーミュラさんは、短く、確かにそう言った。そして数秒前の表情に戻ったかと思うと、こう続ける。
「娘も知らないと言ったのであれば、この家にはもう誰もいませんから、その手紙は受け取りかねます」
「『受け取りかねます』――それは、受け取り拒否ということでしょうか?」
ジリアさんは間髪入れず、といった様子でカーミュラさんに問い直した。少しも動揺せずに、えぇ、と答えた女性に対し、ジリアさんはそうですか、と短く答えた。違和感があった。まるで揚げ足を取るようなジリアさんの態度にも、カーミュラさんの冷静な――冷静過ぎる態度にも。
「お茶が入りましたよ」
一瞬の静寂の後、部屋の外に出ていた娘さんがお盆にコップを乗せて戻って来てくれた。ありがとうございます。いつもだったら率先してそう返すはずのジリアさんが黙ったままなのを見て、僕はさらに違和感を募らせる。
「――アリア。少しの間、部屋から出ていてくれないかしら」
「えっ?」
その言葉に驚いたのはアリアと呼ばれた娘さんだけでなく、僕もであった。困惑したアリアさんだったが、軍の人間と話をしているというイレギュラーな状況が、あえて背中を押したのだろう。すぐに、わかりましたの一言だけを残して去っていった。
「……さて、お嬢さん。貴女、なにかに気づいたわね?」
かちゃりという音の後、カーミュラさんは目の前に立つ女性に向かって言った。対してジリアさんはというと、手紙を持っていないほうの手を、爪が食い込んでしまうんじゃないかというくらいに握り締めている。やがて、口を開いた。
「――真実です」
「しん、じつ……?」
置いてきぼりの僕は、とうとう声を出した。しかしその声は一番近くにいるジリアさんにも届くことはなく、次に口を開いたのはカーミュラさんだった。
「でもそれは、憶測でしょう? 証拠も根拠も、その手紙の中にしかないでしょう?」
「……その通りです」
「だったら、その手紙を私が受け取らなければ、その手紙は廃棄になる。全て、無かったことになるのよね?」
「ですからっ……!」
この瞬間、初めてジリアさんは語気を強めた。答えなどわからない。ただ、二人の間には何かがあるのだ。譲れないもの同士をぶつけ合う、何かが。
「だからこそ、その手紙は受け取れません。貴女もわかっているのなら、私の気持ちを汲んで。――その手紙の主に、私は覚えが無いもの」
「……っ」
後ろからでは見えないが、今ジリアさんの表情は間違いなく強張っているだろう。つい先日、僕に戦士通知課の本当の職務を話した時のように。
「これを届けることが私たちの役目です。殉職したカイネル・ロウェントの想いを貴女に届けることがっ――」
「お嬢さん……想いを届けることが、必ずしも幸福になるとは限らないのよ」
カーミュラ・セリエは実に強い言葉でジリアさんを諭した。その目には多分、僕のことなんて映っていない。ただジリアさんに対する警戒心のようなものだけが宿っていた。
「……そうですか」
やがて、短い言葉で折れたのはジリアさんだった。お邪魔しました、という一言とともに、コツという音を立てて扉へと向く。綺麗な黄金色が顔を隠し、そこにある感情へと触れることはできなかった。
「ごめんなさい。――でも、ありがとう」
背を向けた女軍人に向かって、カーミュラさんはそれだけを言った。ドアノブを回し、まだ近くにいたアリアさんと目が合ったジリアさんは軽い会釈をする。帰りを伝えると、玄関まで送ってくれた。そして、ジリアさんはいつもより暗いヘーゼルの瞳で彼女を見つめ、言ったのだ。
「お幸せに」
「えっ?」
まるで皮肉ったようにも聞こえるセリフに僕もアリアさんは驚いた。その真意はおそらく彼女に伝わることもないまま、真っ赤な邸宅の扉はゆっくりと閉まったのだった。
※
村を出るまで、ジリアさんはごちそうを逃した時よりも沈んだ表情のままだった。夕方になり、関所にバギーを引き取る直前、僕はどうしてもカイネル・ロウェントの真実について聞きたかった。ジリアさん、と呼びかけてみると、彼女はいつもより幾分か伏せた瞳でこちらを見てきた。
「……どうした?」
水分を取っておらず、いつもより枯れた声がした。僕は意を決して、彼女に尋ねてみることにした。
「僕にも教えてくれませんか? カイネル・ロウェント氏の残した真実のこと」
あの遺書は未だ開封されていない。そういった意味では、カイネル・ロウェントが『残した』という表現は適切ではないだろう。しかし、あの場でジリアさんとカーミュラさんの間にあった『真実』が、カイネル・ロウェントに深く結びついているということは容易に想像がついた。
「……それを聞いたところで、もう何にもなりはしないよ」
ジリアさんはとつとつと言った。
「彼女は手紙を受け取ることを拒否した。彼女にこの遺書が届かないなら、もう意味は無い。あの男性にも、悪いことをしたな」
それは多分、情報をくれた壮年の男性のことを示しているのだろう。彼女と男性の間に交わされた約束は、果たされることはなかった。
だがもちろん僕もそんな言葉だけでは納得できない。聡明なジリアさんは全てお見通しかもしれないが、僕は何一つとして真実がわかっていない。カーミュラ・セリエが受け取りさえ拒んだ理由、ジリアさんが無念に思うこと。謎だらけのままだ。それに――
「僕は、戦死通知課の人間です」
ジリアさんがこちらを見た。その端正な顔に、少しだけ驚きの様子が見て取れる。
「僕はまだ新人です。でも、この部署で仕事をすると決意しました」
戦死通知課で扱う案件は、どれも辛く、デリケートだ。殉職という文字通り命を張った人々や、彼らの帰りを待つ家族に、虚言をもってしてでも納得させなければならない。これが正しいことなのか、実状を知らない僕にとっては、まだ判断しかねる。しかし、すると決めた以上、僕はその道の先で答えを見つけるしかないのだ。
「だから、聞かせてください。ジリアさんが話すべきではないと判断したことも、全部」
ジリアさんはやはり考える素振りを見せたが、やがてコクリと頷くと、まずはバギーを引き取ってからにしよう、と告げたのだった。
関所に預けていた――とは言っても、外に置いているのを目の届く範囲に置いてもらっていただけである――バギーを返してもらい、テバリ村を出ると、そこには午前中と変わらない春の様相があった。とある地域には春になるとピンクの花を咲かせる木もあるそうだが、さすがにそんな珍しいものはお目にかかれないらしい。ジリアさんは村がギリギリ見えるくらいまで、バギーをゆっくりと走らせる。日暮れにはもう少しといった空の下、僕らは止まった車の中で少しだけ膝を寄せ、向かい合った。
「これから話すことは、全て私の仮説――辻褄合わせだと思って聞いてくれ」
ジリアさんの第一声はこんな言葉だった。理由を尋ねてみると、手紙が開いていないから、という至極単純な理由であった。僕は納得し、彼女に対してわかりました、と頷く。そしてしばしの沈黙の後、ジリアさんは驚くべきことを平然と言ってのけた。
「カイネル・ロウェントは、カーミュラ・セリエの息子だ」
僕は最初、意味がわからなかった。言っていることがではなく、その仮説そのものに対してである。食堂で聞いたはずだ。カイネル・ロウェントは孤児院出身であり、両親はともに居ないと。
「じゃあ、あの男性の言っていたことは嘘ということになるんですか? でも、他の人とも証言が一致していたと言ったのは、ジリアさんでしょう?」
「いや、少なくとも彼らは嘘をついた覚えは無いはずだ。個人的な恨みでもない限り、私達が騙される謂れも、騙す理由も無い」
僕が答えにたどり着けないでいると、ちらりと前方を見たジリアさんはヒントのような一言を言った。
「共通認識だったんだよ。つまり、騙されていたのは彼らだったんだ」
「共通認識……?」
それはつまり、彼らにとっては常識であったことが嘘であったということになる。その可能性がある情報と言えば、どこに当たるのか。
「カイネル・ロウェントの両親はこの村にずっと隠れていた?」
思わず口に出してしまった考えを、隣に座る女性がいいや、と否定する。
「それなら、役所勤めらしいあの男性や、彼のような職でなくとも他の人間からカイネル・ロウェントに伝わってしまうはずだ。どうやらあの村の人間は、噂話が好きなようだからな」
やはりというかなんというか、ジリアさんは最も詳しい情報をくれた男性の職業については推測が立っていたらしい。しかし、今の僕にはそんなことよりも気にかけるべきことが存在するのだ。
「でも、カーミュラ・セリエが母親なら、実際にこの村に身を隠していたことになりますよね?」
「現状は、な。しかしカイネル・ロウェントが気づかない状況が、一つだけある」
「……」
カイネル・ロウェントが両親の存在を知らず、かつ、この村の人々を騙し続けられる。そんなことがあり得るのだろうか。ここまでに得た情報を頭の中でひたすら思い浮かべていると、一つだけ違和感のある証言を思い出した。
「あ……カーミュラ・セリエは、十数年前に移住して来た……」
時系列に違和感が生じた。こんがらがる頭を整理し終えると、ジリアさんの、わかったかな、という声が聞こえた。僕はまるで独り言ちるように呟いていた。
「カーミュラ・セリエはカイネル・ロウェントを生んで、置き去りにしてこの村を去ったんだ……そしてもう一度戻って来た……それなら、おかしな状況にも筋が通る」
「そういうことだ」
肯定を示してくれたジリアに、僕はぱんと手を打った。
「じゃあカーミュラ・セリエとカイネル・ロウェントに接点はあったんですね。息子のために戻って来たってこと……」
「いや、違うだろうな」
今度はばっさりと否定された。僕の浅はかな希望的観測は彼女の言うところの『真実』ではないらしい。
「戻らざるを得ない事情があったんだ。そうでもなければ、彼女が遺書を受け取らない理由が無い」
「た、確かに」
そう、カーミュラ・セリエは遺書の受け取りを拒否するという選択をしたのだ。その謎を解こうとしているのに、それを失念してしまっては元も子もない。謎だらけの僕に比べて、ジリアさんはずっと冷静だ。この人はいつからこんな突拍子もない仮定を描いていたのだろう。カイネル・ロウェントがカーミュラ・セリエの息子であるなんてことに、いつ至っていたのか。
「あれ……じゃあ父親は? おかしくないですか? だって、あれ……あ」
そこまで言って気がついた。行方知れずになったカイネル・ロウェントの父親。既に他界したカーミュラ・セリエの夫。この二人が同一人物ではないことは、最初からわかっていたことではないか。
「そこが少し複雑なんだ。つまりカーミュラ・セリエは、二人の男の間に子をもうけている」
「この村でカイネル・ロウェントを生んだ時の夫と、帝都で出会ったという二人目の夫……その人との間に生まれたのが、アリアさんなんですね」
風が音を立てて吹いた。目の前のジリアさんは金糸の髪を抑え、雲を見上げる。
「少し話を急ごう……カーミュラ・セリエはこの村でカイネル・ロウェントを出産し、その後夫とともにこの村を飛び出してしまった。その後どういった経緯かはわからないが、別の男性と関係を持ち、新たにアリア・セリエをもうけた。そしてこの村の出身だった二人目の夫に連れられ、もう一度この村に戻ってくることになった」
ジリアさんの考えた仮説は特に矛盾することもなく、あたかもカーミュラ・セリエの半生を語っているかのようだった。これはあくまで彼女の仮説――それを忘れさせるほどに、僕は納得してしまった。しかしいくらカイネル・ロウェントが置き去りにした子と言えど、最期の言葉すら拒絶するほどだったのだろうか。彼には他に血の繋がった人間もいなかったというのに、これではあまりに彼が報われない。ジリアさんの見据える、さらに先の真実はまだまだ見えてこないが、僕はふと浮かんだ疑問を投げかけることにした。
「でも、気づかないものですかね。村の人達も、昔この村にいた人間くらいわかってもおかしくはないと思いますが」
ジリアはその質問も折り込み済みであったようで、ぴっと人差し指を立てた。
「私達は、そんな人間の絶好の隠れ家に行ったではないか」
「あ……」
煉瓦の屋敷。森の中にひっそりと佇む邸宅。そんなところに、ふらりと村の人間が訪れることがあるだろうか。カーミュラ・セリエは、この村で暮らす上で必要最低限の住民としか接触しないようにしていたのだ。
「だとしても、帰って来ますか? そんなに会いたくないなら、移住なんてしないんじゃ……」
「アリア・セリエは幼い頃体が弱かった。帝都に自然は少ないから、彼女を育てるためには、
不都合も多かったのだろう」
「それで、カーミュラ・セリエは危険を犯すんでしょうか? 一度は息子を捨てたような人ですよ」
「……わからない。だが少なくとも、彼女は娘を愛していたように見えた。しかし同じ愛情が息子にも注がれていたと考えるのは、早計だろう」
向こうを向いてしまっていたジリアさんの表情は掴めなかったが、彼女の声はどこか達観したような、しかし同情するような声音だった。
「ここからは、本当に何の確証も無い話だ」
ジリアさんはそう前置きし、自身の内に溜め込んでいたものを僕だけに吐き出す。
「カーミュラ・セリエ――いや、当時はもっと違う名前だっただろうな。彼女は三十年ほど前、まだ赤子だったカイネル・ロウェントを置いてこの村を出た。案の定カイネル・ロウェントは孤児院に預けられ、彼一人だけがこの村で暮らすことになった」
僕は彼女の説明を止めることなく、エンジンの切られたバギーとともに聞き入った。
「彼がどういう感情を母親に抱いていたかは計りかねるが、それでも彼はこの村で天涯孤独の身でありながら生き続けていた。もしかしたら、彼は自分の出自など気にすることなく、幸せだったのかもしれない」
「それは本当に……本人にしかわかりませんね。それに、もう確かめる術も……」
言いかけて、僕は一つだけ確かめる方法があることを悟った。しかしそれはあのカーミュラ・セリエの決断によって阻止されてしまっている。それに仮に僕らがここで非人道的なことをしても、もうどうにもならないのだ。彼女の封じ込めた彼の想いを僕らだけが知ったところで、何も変わることはない。僕はその先の言葉だけは絶対に言うまいと口を強く結んだ。ジリアさんも、それで良い、と言ってくれた。
「これはあくまで私の仮説の話。最初にそう言った。だから、私は彼の置かれていた状況でしか推測することができない。死者の感情を理解しようなんて……私たちの強欲だよ」
ジリアさんの言葉は、彼女が『戦死通知課』という場所に立っているからこそ――誰よりも死者の感情を理解しようとしているからこそ出てくる言葉なのだと直感的に思った。彼女は多分、そこまで冷酷な人じゃない。そうでなければ、カーミュラ・セリエに食い下がることなんてしなかっただろうから。
「じゃあそれだと、カイネル・ロウェントは、カーミュラ・セリエが母親だということに気づいていたということになりますね」
「カーミュラ・セリエはこの村に戻って来て、まだ息子が生きていたことに……どう思ったのだろうな。少し考えれば当然なのに、そうまでして帰って来たのは……本当に、あのアリアという娘を愛していたから、なんだろう。そしてそうまでして守られている彼女を見て、カイネル・ロウェントは、母親にどういう気持ちを……抱いたのだろうな」
「……」
答えの無い問いが、夕焼けの中に溶けていく。カイネル・ロウェントの想いは永遠に解かれることはない。そんな無念を考え続けること――それが、もしかしたら今回僕らに課せられた使命なのかもしれない。死してなお、帝国に忠義を尽くさせる――今回は遺書を届けることは叶わなかったが、『戦死通知課』という組織としては正しい行いだったからこそ、ジリアさんはあの場で届けないという選択をしたのだ。死者の遺志を蔑ろにしていることは、いつだって変わらない。だからせめて考え続けなければならない。死者の冥福ではなく、今を生きる者の幸福を。
「戦死通知課では、今回のようなことはよくあるんですか?」
「珍しいケースだ、とは言わない。今までも、受取人が自らの不都合を理由に拒否されたことは何度かある。まぁ、ここまで事情に正確な仮説が立てられないのは、なかなか無いがな」
「そうですか……」
「遺書が届くことだけが彼らの幸せとは限らない。ただ今回は少し……カイネル・ロウェントに同情してしまっていたのかもな。私も、まだまだ未熟だよ」
そう言ってジリアさんは一人反省した。彼女もまた、『戦死通知課』で答えを探す一人なのかもしれない。いつだって強い意志を見せていた彼女でも、まだ何かを決するには早いと思っている部分があるのだ。
「そう言えば、もう一つ疑問があります。カイネル・ロウェントはそうまでしたカーミュラ・セリエを恨んでいなかったのでしょうか? 生みの親にそんな扱いを受ければ、それこそ彼女が母親であると気づいたと同時に、報復をしてもおかしくないですよね?」
例えば彼女の存在を露見させるだけで、この村では腫物のように扱われるだろう。しかしそういったことはなく、カーミュラ・セリエは問題なく、娘とともに平和に暮らしている。カイネル・ロウェントがもう彼女との関係について気にしていなかった可能性もあるが、それでは遺書を残した理由がわからない。
しかしその疑問を聞いたジリアさんは、あぁ、と短く言ってから、さも当然の顔で僕に告げた。
「それは、アリア・セリエが、カイネル・ロウェントの想い人だったからだろう」
「え、えぇっ⁉」
衝撃、と言うには可愛過ぎた。一体どんなことがあればそんな結論を導き出せるのか。僕はすぐに、どうしてそうなるんですかと聞き直していた。
「そう考えれば自然に辻褄が合うんだ。彼がカーミュラ・セリエに報復しなかったこと、そして兵士となった理由も」
彼女の突飛な発想に追いつけず混迷に陥る僕に、彼女はゆっくりと順を追って説明してくれた。
「彼がどこぞの娘に惚れていた、というのはウィットナーくんも聞いていただろう。それがアリア・セリエだったのだ」
「で、でも、アリアさんはカイネル・ロウェントを知りませんでしたよ?」
「当然だ。彼はアリアがカーミュラの娘であることに気づいていた……つまり、腹違いの妹を好きになってしまった、ということになる」
ジリアは、次の発言のために深呼吸をした。ふぅ、と吐き出された空気には、どことなく疲れが混ざっている。
「彼は思い悩んだ。自分の好きな少女とは結ばれてはならない。かといって母親の存在を告げる報復行為をすればセリエ一家を――自分の想い人を傷つける。そこで彼が選んだ手段が、現実から逃亡することだった」
「それが、カイネル・ロウェントが兵士に志願した理由……」
正直、出来過ぎだと思った。しかし彼女の推測に反論する言葉を僕は持てなかった。心機一転か、自暴自棄か。とにかく彼はこの村から出て行くことを決めた。最も手っ取り早い方法――兵士になることで。そして戦場の塹壕に手紙を残し、たった一人で死んでいったのだ。
「確証なんて、もう無い。でもこれが、私の思っている真実だよ」
どこまでも、報われない。カイネル・ロウェントはたった一人で悩み、藻掻き、苦しみ、最期は本人の何が変わることもなかった。遺書をカーミュラ・セリエに宛てていたのがその証拠だ。彼はずっと、彼女の呪縛から解き放たれることはなかったのだから。そしてその手紙の内容は結局わからずじまいだ。それが母への怨念の残滓か、その娘への告白か、告発かも。
「……もしその仮定が本当なら、母親は息子のことを、自身を縛るものにしか考えていないんでしょうか」
「そうだろうな。カイネル・ロウェントは彼女を脅かす存在。息子の遺書を受け取らなかったことも、自分の正体が露見することを恐れてだろう」
ジリアは苦虫を噛み潰したような表情で、カーミュラ・セリエが手紙の破棄を望んだ理由を述べた。
「でも、もしかしたら」
一抹の可能性に、僕は思わず口から考えを漏らしていた。
「母親は、息子とともに娘を守ろうとしたのではないでしょうか」
どういうことだ? と聞いてくるジリアに、仮定でしかないんですけれど、と彼女と同じ前置きをしてから答える。
「アリアさんの薬指には指輪がありました。――母親は、結婚するアリアさんのために、カイネル・ロウェントの想いを犠牲にしたんじゃありませんか?」
「……なるほど。母親の素性がばれれば、結婚が破談になる可能性も少なくない。それを阻止するために、カイネル・ロウェントの手紙を受け取らなかった、ということか」
僕の想像を、ジリアは正しく読み取ってくれた。彼女の頭の回転に何度目かもわからない驚きを得ながら、僕はその通りです、と肯定を示した。
「だとすると何を一緒に守ろうとしていたと言うのだ? 明らかにカイネル・ロウェントのことを切り捨てているだろう」
「……カイネル・ロウェントの恋感情を、母親が知っていた場合です。もしそうなら、彼女は生きる者のために、死者の想いを――ちょうど僕達のように」
戦死通知課本来の目的は『軍に対する反勢力の事前抑止』である。だからこそ遺書の偽造も行うし、想いをすり替えることだってする。しかし、綴った想いが本意でないとも限らない。
「突拍子もない話だ。カイネル・ロウェントは母を恨むこともなく、しかも彼女に愛されていた娘の幸せを願っていたと。彼は随分と……お人好しだな」
そう言われてしまえばそれまでだ。僕の浅い想像力では、辻褄の合わない希望的観測を語るのがせいぜいだ。だが僕は少しでも――ほんの少しだけでも、あの哀れな息子が笑っていられるような『今』を考えたかった。
「しかしそれが事実ならば、真実が明かされることは彼の意に反する……カーミュラ・セリエは息子の最後の想いを、受け取らないという選択肢で叶えたのかもしれないな。そうだと、良いな」
言うとジリアさんはバギーから降りて、春の芽吹きの元へと歩く。屈んで摘み取ったのは、彼女が貧乏草の話をしたハルジオンだった。
「貧乏になっちゃいますよ」
「私は貴族出身だが、今は特別裕福というわけでもない。そんなことは気にしないよ」
そしてポーチから未開封の遺書を取り出すと、摘み取ったハルジオンを重ねて、マッチで焼いてしまった。
「ハルジオンの花言葉は『追想の愛』。もしウィットナーくんの仮説が正しいなら……いや、正しいことを願って、私はこうするよ」
ジリアさんはそのまま両手を指を重ねるように握り、もうこの世にはいないカイネル・ロウェントに黙祷を捧げた。追想――その想いを抱いていたのは、母か子か、それは僕達にはわかり得ないことだ。もう読まれることのない手紙と一輪の白い花が小さく立てる煙は、星の浮かび始めた夕暮れの空へと届いていくようだった。
「さて、行こうか。ウィットナーくん」
立ち上がったジリアさんはゴーグルを頭に引っ掛け、バギーを走らせる準備をし始める。手慣れた動作に続いて、僕も恐々乗り込み、ふとあることを思い出した。
「そういえば鳥キャベツ丼は良かったんですか?」
ぽかんと口を開けたジリアさんは、実に微妙な顔で村を見る。関所もほどほど遠ざかり、戻るという選択肢が合理的でないことは誰の目にも明らかだった。
「……」
彼女はしばらくテバリ村を見つめていたが、やがて、行こう、と短く言った。その声が若干震えていたのは、僕の聞き間違えだったのかもしれない。
※
「お母さん、帰ったよ。軍の人達」
「そう。――彼らは何か言っていたかしら?」
「え? ううん、特には。あ、でも『お幸せに』って言ってくれたよ。お母さん、私が結婚することを話したの?」
「……えぇ」
「そっか。お母さんもお喋りね」
言い残すように去って行こうとした娘を、アリア、と呼び止める。ん? といつもと変わらない返事に安堵し、×××××は言った。
「私は私の子が大好きよ。忘れないでね」
「ありがとう。私もよ」
そうして部屋を出て行った少女は、笑顔を絶やさず何も知らずに幸せになっていく。それで良いと彼女は思った。それが母親の願った形なのだから。ごめんなさい、そう呟いたのはきっと、カーミュラ・セリエではなかった。