細胞がバターのように溶けていく

文字数 4,755文字

   
 ネクタイ姿の上から白衣を着込んだ、白髪混じりの大学教授。医学博士でもある彼が、同じく白衣に包まれた数人の学生たちを引き連れて、大学の廊下を歩いていく。
 その光景は、見る者が見れば、大学病院を描いた有名なドラマの一場面――教授の総回診――を思い出すかもしれない。
 大学四年目の春、私は、その『数人の学生たち』の中の一人だった。

――――――――――――

 大学の三年目は、平日の午後を丸々費やして『学生実習』。それぞれ二週間くらいずつ、学部の全ての講座から実験を教わる。簡単な研究の真似事を行うのだ。
 そうして各講座の雰囲気を感じ取った上で、四年目には、どこか一つの講座に所属。『卒業実習』として、一年間、研究に携わることになり、そのレポートが、いわゆる卒論に相当する。
 これが、私が通う学部のカリキュラムだった。
 一応ことわっておくが、理系ではあるが医学部ではない。ただし医学系の講座もいくつかあり、私が配属されたのも、その一つ。ウイルスを研究する講座であり、教授は医学部から来た人、つまり医学博士だった。

 理系の研究者というと、知らない人にとっては「同じ席で一日中実験をしている学者」というイメージかもしれないが……。
 実際には『同じ席で一日中』ではなかった。実験室は、いくつもの部屋に分かれているからだ。
 例えば、私の講座の場合。教授室、助教授室、学生たちの机があるところ、といったデスクワークの部屋。細胞や危険度の低いウイルスを扱う部屋と、危険なウイルスのためのP3ルーム。実験器具の洗浄や滅菌処理をする部屋。電気泳動などを行う部屋が、タンパク質実験用と遺伝子実験用で二つ。それに関連して、フィルム感光のための暗室が一つ。もう一つ暗室が用意されていたが、こちらは蛍光顕微鏡のためであり、なぜか50メートルくらい離れたところにあった。
 この他にも、講座所有ではない高価な共同機器を使う場合もあり、それは渡り廊下を歩いた先の、別のビルの中。
 このように、毎日あちこち歩き回りながら実験するのが理系の研究者というものだった。
 そして。
 講座に配属されたばかりの学生たちは、研究テーマを与えられる前に、まずは『学生実習』の延長のような、練習じみた実験をやらされて、その中で、講座のルールや器具の扱い方などを学ぶことになる。それを教えるのが、指導教官なのだが……。
 私のところは、教授が何でも自分でやりたがる人だった。教授が自ら新人の面倒を見て、基礎を叩き込む、というタイプだ。
 その結果。
 冒頭のような『教授の総回診』が、毎日、繰り広げられるのだった。

――――――――――――

 その講座で主に研究していたのはRウイルスといって、犬や(ヒト)に感染する病原体。感染しても発症前に適切な措置を受ければ助かるが、万一発症してしまった場合、(ヒト)は、ほぼ100%死亡する。生存例がないこともないが、それらは天然記念物扱いされるレベルだった。
 さいわい日本では犬のワクチン接種が義務付けられているために撲滅されたことになっている病気だが、世界的には全く『撲滅』などされていない。そもそも日本でも、大量にワクチンが使われている以上、その品質向上やコストダウンのための研究は欠かせず……。
 というのは、ある種の建前であって、研究者なんてものは結局、知的好奇心を満たすがために研究を続けているのかもしれない。

 ともかく。
 そのような危険度の高いウイルスを、いきなり入ったばかりの学生が扱うわけにもいかず、最初のうちは、もっと安全なウイルスを用いた実習となっていた。
 とはいえ、ウイルスはウイルスだ。厳密な定義の上では生物に相当しないため、ウイルスを生かしたり増やしたりするには、他の生き物の組織を借りなければならない。
 そこで、ウイルス学者にとって必須となるのが、細胞培養だった。

 一年前の『学生実習』でも、この講座が担当した期間中に、簡単なウイルス感染の実験は(おこな)っているのだが……。
 あくまでも、感染以降の段階だけだった。二週間という限られた時間の中で色々な実験を行うためには、準備段階である細胞培養までは手が回らないのだ。
 例えばテレビの料理番組で「こちらが、一晩寝かせたものとなります」というように、途中をすっ飛ばしたものが出されることがある。あれと同じで、料理の下ごしらえに相当する段階は講座の方であらかじめ終わらせてしまい、いわば美味しいところだけを三年目の学部学生にやらせる、というのが『学生実習』だったのだ。

 細胞培養について教わるために。
 白衣の教授に引き連れられて、『細胞や危険度の低いウイルスを扱う部屋』へと入っていく。
 部屋の照明は、なんとなく薄暗い感じだった。部屋全体を滅菌できるように、天井の蛍光灯は、スイッチ一つで紫外線ランプに切り替えられるようになっているのだが、そのせいだったのだろうか。
 部屋に入ってまず目につくのは、壁際に並べられた、無菌箱と安全キャビネット。……といっても知らない人には何だかわからないだろうが、一人用の机の上をすっぽりと大きな箱で覆ったものをイメージしてほしい。前面だけがガラス製で内部が見えるようになっており、その下部には腕を突っ込むための扉もある。
 要するに、外から雑菌などが混入しないように、また、逆に研究対象であるウイルスやバクテリアなどが外部に漏れ出さないように、少し工夫された作業台だった。
 安全キャビネットは無菌箱よりも高級品で、エアフィルターやエアカーテンなどを兼ね備えて、もっと無菌操作に気を使ったもの。細胞培養程度ならば無菌箱でも構わないが、ウイルスを扱うのであれば安全キャビネットでなければ駄目、という違いがあった。
 ちなみに、これら無菌箱と安全キャビネットには、それぞれ紫外線ランプが装備されており、使用前と使用後は内部を滅菌できるようになっている。

 そうした目立つ作業台を尻目に、まずは細胞のある場所へ向かう。
 インキュベーター、というと仰々しく聞こえるかもしれないが、簡単にいってしまえば、単なる保温機だ。培養形式によっては二酸化炭素を必要とする場合もあるが、私たちが最初に扱う細胞は密閉系の培養だったため、それも不要。本当に、ただ37度をキープするだけ、というインキュベーターだった。
 その中で飼われている細胞は、もちろん、剥き出しの状態ではない。それぞれ、小さなビンの中で培養されていた。
 細胞の培養ビン。タテではなくヨコに寝かせた状態なので、ボトルシップのガラス瓶をイメージしてもらうのが一番だと思う。
 当然のことながら、中には船の模型は入っておらず、代わりに細胞が入っているわけだが……。しかし肉眼では、そんな様子は全く見えない。パッと見てわかるのは、底面が完全に浸るくらいのオレンジ色の液体のみ。
 すぐ後で知らされるのだが、これは細胞を育てるための培養液であり、最初は真っ赤な色をしているはずだった。pH指示薬が含まれているので、細胞の呼吸に応じて色が変わる。その変色の程度で、細胞の育ち具合がわかるのだという。

 そう、ビンの中の細胞は育つのだ。
 浮遊性細胞ならば培養液の中をプカプカ漂うわけだが、私たちが使うのは接着性細胞。培養ビンの底のガラス面に、びっしりと張り付いている。肉眼ではわからないけれど。
 細胞が少ないうちは、隙間も多くて広々としているが、増えてくるとギッシリになる。あまりに満杯になると、生育できなくってしまう。つまり細胞が駄目になってしまう。
 だから、三日か四日に一回くらいの割合で、細胞全体の数を減らしてやる必要が出てくる。いったん培養ビンから細胞を剥がして、三つくらいに分割して、それぞれ別の培養ビンに入れてやるわけだ。
 これが細胞の継代と呼ばれる作業であり、ウイルス感染のための細胞を用意する上で必要な、実験以前の下準備の一つだった。

 インキュベーターから取り出した培養ビンを、教授はまず、安全キャビネットや無菌箱ではなく、中央テーブルにある顕微鏡の台の上にセットする。
 教授から「観察してみなさい」と促されて、私たち学生も、一人ずつ順番にレンズを覗き込む。
 すると、肉眼ではわからなかったものが、びっしりと広がっているのが見えてきた。教授は細胞ビンの底面に焦点を合わせたはずだから、これが『細胞が培養ビンに付着している』という話の実態なのだろう。
 学生たちが顕微鏡で確認している間に、教授は、今から行う細胞継代の手順を説明していた。
 まずは古くなったオレンジ色の培養液を捨てて、トリプシンという別の液体を入れる。全体に行き渡ったら、余分なトリプシンは取り除く。タンパク質分解酵素なので細胞の付着因子に作用してガラス底面から剥がしてくれるのだが、多すぎると細胞そのものにもダメージを与えるからだ。
 細胞が剥がれてきたら、新しい真っ赤な培養液を入れて懸濁させる。この細胞懸濁液を三等分して、それぞれ新しい培養ビンに移し替える。
 ……これが、大まかな流れだった。

 培養ビンを一本ずつ与えられた学生たちは、安全キャビネットあるいは無菌箱の中で、言われた通りにオレンジ色の液体を取り除き、トリプシンを入れる。細胞を満遍なく浸してから、トリプシンをピペットで吸い出して捨てる。ただし、一滴残らず、ではなく、少し残る程度で。
 この時点で、ビンの中身は、細胞と微量のトリプシンだけになるわけだが……。オレンジ色の液体が消えたことで、ようやく「ガラスの底面に何か存在しているらしい」というのが見えてくる。ただし、まだ「透明なガラスが曇りガラスに見える」という程度であり、「はっきりと細胞が見えた」というほどではなかった。
 続いて。
 トリプシンにより細胞が剥がれたことを確認するために、細胞ビンを少し斜めに傾けて、軽くトントンと叩いてやると……。

 おお!

 この瞬間、私は、不思議な感動を覚えてしまった。
 溶け剥がされた細胞がスーッと滑っていくのは、それまでとは違って、白く集まった物体として、はっきり肉眼で確認できるのだ!
 その様は、まるで熱したバターが溶けていくかのようだった。
 いや、バターの場合は、もともと黄色くて目に見えるものだから、これでは私の感動も正しく伝わらないかもしれない。バターで例えるならば、最初は見えないくらいに薄く塗り広げられていた、と想定してもらえば良いだろうか。
 薄く広がったバタートースト。熱せられて、表面のバターが白く泡立つように溶け始めたら、「ああ、本当に、このトーストにはバターが塗られていたのだな」と実感できる……。
 そんな感覚だった。

 不可視のものが可視化された感動、というと大げさかもしれない。
 そもそも細胞の継代作業なんて、ウイルス研究を続けていく上では、毎週二回のルーチンワーク。むしろ面倒で鬱陶しい作業、という認識になっていくのだが……。
 それでも。
 これが私の研究生活における、初めての感動だった。

 私は常々、研究者というものは、子供じみた好奇心を心に宿した大人なのだろう、と考えている。小さな子供が「なぜ、何、どうして」と聞いて回る、あの精神を持ち続ける人種を研究者と呼ぶ、と思うのだ。
 些細な物事に大きな感動を覚える、というのも、それと似た子供っぽさなのかもしれない。幼き日の理科の自由研究において、大人になってみれば当然のことでも子供の目には新鮮に映る場合があったが、それと同じなのではないか、と。
 その意味で。
 バターのように溶ける細胞に感動を覚えたあの一瞬は、私にとっては、研究生活の原点だったのではないか、と今でも思うのだ。



(「細胞がバターのように溶けていく」完)
   
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