第1話

文字数 4,348文字

「何を言っているの。私は貴方に身も心も捧げて今迄生きて来たのに」
「そんな事、僕は知らないよ。君が勝手にした事だろう。もう君とは二度と会うつもりはないから」
「和彦さん本気で言っているの」
其の時「バン」客席のテーブルが突然叩かれた。
「ダメダメ、まったく。何をやってんだよ。台詞を心配しながらの一本調子じゃないか」
「心の底から絞り出す様な悲壮感は、何処に行ったんだよ」
「君の悲しみはいったい、何処に行ったんだよ」
演出家の加藤清秀は、陣取った客席から舞台に大声を張り上げて叱責した。
「陽ちゃん、今日は舞台稽古の初日だからまだ許されるけど、まるで学芸会だよ。君は台本をキッチリ消化していないじゃないか」
加藤清秀の野太い声だけが劇場に響く中、陽子は棒立ちのまま声を失っていた。
「よし、皆。十分間休憩してから第二ステージにいくよ」
加藤の怒鳴り声で静まり返っていた劇場が、急にざわついた。
「すみません」富樫陽子は緊張した赤い顔で、舞台の上から演出家の加藤清秀に頭を下げた。
今日は、衣装を着けての舞台稽古初日で有る。
演者、スタッフなど総勢五十人程の劇団員達は皆「ピリピリ」している。
陽子の相手役を務めている「山之内康夫」の顔にも笑顔は無い。
陽子は劇団で先輩の山之内康夫にも「すみません」頭を下げながら詫びた。
「たのむよ、陽ちゃん。やる気が有るの。しっかりしてもらわないと、僕迄下手な役者だと思われてしまうじゃないか。ほんとに」
山之内康夫は、吐き出すようにそれだけ言うと、眉間に皺を寄せたまま舞台を降りて行った。
「すみません」陽子は山之内康夫の後ろ姿に、再び頭を下げて詫びていた。
午後九時前。舞台稽古の長い初日がやっと終わった。
陽子は舞台裏を歩いていると、全身にどっと疲労感を覚えた。
劇団員達が帰った楽屋で一人着替え終えると、何故か身体が揺れる様な不思議な感覚に襲われた。
身体が「フワフワ」風に揺れる風船の様に揺れ動き、立っていられない。
側に有る椅子に手を添えてやっと座った。
陽子はテーブルに頬杖を突くと、気持ちの悪さに思わず目を閉じた。
どの位の時が経ったのだろうか、腕時計を片目だけ少し開けて覗くと午後の十時を過ぎていた。
陽子は椅子に座ったまま息を大きく吸うと「フー」ゆっくり吐き出した。
薄目を開けて首を軽く回しながら、ゆっくりと立ち上がった。
ふらつかない、目眩がようやく収まったようだ。
陽子は足元を確かめながらゆっくりと歩いて劇場の外に出ると、道の両側には明るいネオンの海が競い合うように輝いていた。
「あーあ、今日は酷い一日だった」
ネオンの明かりを漫然と見ながら、両手で頭を挟みながら独り言を呟いていた。
陽子はアパートへの帰り道を歩いていたが、橋を渡って真っすぐ行くべき道筋を、ふと気が変わると右に曲がっていた。
その道は二百メートル程行くと、旧知の浅井裕樹がやっている小さな居酒屋が有る。
店主の浅井裕樹は、陽子より二歳年上の二十五歳の青年である。
陽子とは同じ劇団に所属していて、将来を嘱望されていた新進気鋭な若手俳優の一人で有った。
だが不思議な事に、一年程前に突然劇団を退団すると、まさに畑違いと言える居酒屋を開いていた。
陽子はその店に、劇団員達と何度か足を運んだ事が有る。
小さな居酒屋は、カウンター席だけの店で、六人も座れば満席になるような狭さで有った。
陽子はそんな小さな居酒屋の前で思わず足を止めていた。
店の中からは、聞き覚えの有る笑い声がドアのむこうから漏れて来た。
裕樹の笑い声は何時も独特で「くっくっくっ」と無邪気な子供の笑い声のように聞こえて来る。
陽子は、久しぶりに聞く裕樹の笑い声に釣られる様に店のドアを開けていた。
「おぅ、陽ちゃん」
陽子が暖簾を潜って店に入ると、裕樹の明るい声と笑顔が出迎えてくれた。
店内には、サラリーマン風の年配客三人がカウンターに座っているだけで、裕樹はお客の輪の中に入って笑っていた。
裕樹は三人の客に「チョット失礼します」笑顔で断りを入れると、カウンターの隅の席に陽子を誘った。
「ご無沙汰しております」陽子は劇団で先輩だった裕樹に頭を下げた。
「陽ちゃん、取り敢えず座ってよ」
裕樹に促され、陽子はカウンターの隅に座るとビールを頼んだ。
三人の先客たちは、賑やかに話しだしている。
「陽ちゃん、今日は絞られた」
裕樹は陽子にビールを注ぎながら、小さな声で聞いた。
「はい」
陽子は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら、声を潜めて答えていた。
「浅井さん。やはり、分かります」
「うん。陽ちゃんを見ていると何となく、ね」
裕樹は、はにかんだ顔で答えていた。
其の時「浅ちゃん、ご馳走様。勘定を頼むよ」
恰幅のいい、年嵩のサラリーマンが声を掛けて来た。
裕樹が会計書の集計をして居ると「浅ちゃん、変な意味にとらないでくれよ」
還暦に近いと思われる背広姿のその客は、前置きをしてから言った。
「あの女性の方、綺麗な人だねー」
心なしか声を潜めた様に聞こえた。
酔いの為に顔を赤くしてはいるが「チラリ」と陽子を見ながら、真面目な眼差しで言った。
「新井さん、彼女は僕の劇団仲間で現役なんですよ」
裕樹の声は、自分が褒められた様に何故か弾んでいた。
「其れでは、女優さんだね。綺麗な訳だよ」
一人大きく肯きながら、新井と呼ばれた男は陽子に声を掛けて来た。
「娘さん、気を悪くしないで下さいね。ホントの事を言っただけだから」新井は真顔から一変、双眸を崩した笑顔に顔を変えていった。
「さて皆の衆、明日の為に寝るとしょうか」
新井は仲間二人に声を掛けると、椅子から立ち上がり陽子に軽く頭を下げて会釈した。
陽子も新井の笑顔が伝染したかのように、笑みを浮かべ頭を下げていた。
三人の客が帰ると、裕樹は腕時計を見ながら外に出るなり、暖簾を仕舞い始めた。
「あっ、浅井さん。閉店ですか」
陽子は腰を浮かせて聞いた。
「閉店なら、帰らなければ」
と思った。
「陽ちゃん、此れで今日は貸し切りにしたから、ゆっくりしていってよ」
裕樹は仕舞った暖簾を陽子に見せた。
陽子は訳も分からず、ポカンと口を開けたまま立っていると。
「陽ちゃん、座りなよ。たまには僕もゆっくりと飲みたいから暖簾を下ろしたのさ」
裕樹はにこやかな顔で陽子の横に座ると、新しいビールと山盛りのおでんを陽子の目の前に置いた。
陽ちゃん。今日は稽古でお腹が空いただろう、残り物だけどいっぱい食べてよ」
裕樹は割り箸を割ると、陽子に手渡しながら言った。
二人がビールを注ぎ合うと裕樹は。
「何だか分からないけど、取り敢えず、カンパーイ」
裕樹は喉を鳴らしてビールを飲み干した。
「陽ちゃん、今日はよく来たね。嫌な事が有った時は飲んで忘れよう」
二人は再びピールを注ぎ合うと、又コップを合わせた。
裕樹の顔は、陽子が店に入って来た時から穏やかな笑顔を崩していない。
陽子は「此のおでん、旨くて、美味しいですね」
等と言いながら、おでんとビールをすきっ腹に入れた。
お腹が落ち着くと、アルコールの酔いで今迄強張っていた肩の力が自然と抜けて来たように思った。
「ハーイ、先生。質問が有ります」
陽子は唐突に手を上げて裕樹に言った。
其れは裕樹がまだ劇団に在籍していた頃、二人が演じた芝居の一場面でも有った。
「はい、何だね。陽子くん」
既にビールで赤くなった顔の裕樹も、芝居口調で答えた。
「先生はどうして何時も「ニコヤカ」な顔で居られるのですか。私も先生の様に穏やかな顔でこれからの人生を生きて行きたいです」
其れは前々から抱いていた、裕樹への疑問でもあり陽子の願望でもあった。
裕樹は人と向かい合って話す時、相手の目を見つめながら、微笑みに似た穏やかな顔で話し掛けて来るのが常で有った。
陽子が劇団に入ってからの三年間、裕樹が見せるそんな顔を何時も見ていた様な気がする。
「この人は私と違い、恵まれた家庭に育ったお坊ちゃんなのだろう。何時も屈託のない笑顔で暮らしている幸せな人」
陽子は朧気にそう思っていた。
怒鳴り声を嫌というほど聞いた今日、アパートへの帰り道で裕樹の顔が何故か浮かび、笑顔の磁石に引き寄せられるかの様に店に来た気がした。
だが陽子が問いかけると、何時もにこやかな裕樹の笑顔が突然消え、悲しそうな顔に変わって行った。
陽子は訳も分からずに
「あっ、先生。嫌なら答えなくて構いません」
陽子は今迄見た事の無い裕樹の顔を見つめると、急いで言葉を重ねた。
「浅井さん、ホントに答えなくても良いんですから」
裕樹は右手を上げたままの陽子を見ながら、悲し気な顔が一変すると、何時もの笑顔に変わっていた。
「陽ちゃん、僕もまだまだ稽古がたりないみたいだね」
「えっ、稽古ですか」
陽子の、腑抜けた声が店の中に響いた。
「うん」裕樹は、はにかんだ顔を陽子に向けて話し出した。
「陽ちゃん僕はね。赤ん坊の時、親に捨てられていた孤児なんだよ」
何故か裕樹は明るい顔と声で、暗い話を語り出した。
「だから僕は赤ん坊の時から十五歳まで、施設が唯一の我が家だった。親の愛情と云う物を全然知らないで育った男、それが僕なんだよ」
裕樹の明るい声は変わらない。
「僕は、愛情に飢えた子供のまま大きくなった様な気がする」
「だからだよ、陽ちゃん。僕は物心ついた時から何時も、何時も一人芝居ばかりをして生きて来たんだ」
「僕は子供の頃からずーと俳優だった気がする。誰にでも笑顔を振りまく演技ばかりをしてね。
他の人に良く思われたい。皆に愛されたい。人に嫌われたくない。何時もそんなことばかりを考えながら生きて来たんだよ」
「そんな男だから、俳優という仕事が段々と辛くなって辞めたのさ。僕には、悪人や嫌われ役は無理だからね」
「フフフ、笑ってしまうだろう。陽ちゃん」
裕樹は一息おくと、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
「僕は君が思って居る様な心穏やかな人間では無いし、いい人に見せかける馬鹿な芝居しか出来ないつまらない男なんだよ」
裕樹の顔から微笑みは消え、虚ろになった目はやがて焦点を無くしていった。
「浅井さん、ごめんなさい。嫌な話をさせてしまって」陽子は掠れた声でそれだけを言うと、大粒の涙が白いスカートに滴り落ちた。
裕樹は陽子の泣き顔を見ながら、陽子のコップと自分のコップにビールを満たし、一口飲むと急に笑顔を見せた。
「陽ちゃん、僕の芝居はどうだった」
裕樹は楽しそうに言った。
陽子はハンカチで拭いていた目を大きく見開いて「えっ、芝居だったのですか」
陽子は酔った頭を横に振ると、赤い顔を益々赤くして裕樹を見つめていた。
「裕樹さんはホントに演技がうまい。私はもっともっと勉強しなければ」
帰り道を歩きながら、陽子は暗闇に呟いていた。

後日、劇団代表に陽子が聞いた話によると、浅井裕樹は本当の孤児だったという。












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