第51話 柱の陰の乙女
文字数 3,749文字
その職を、ドゼ将軍は、素直に引き受けるだろうか。
一抹の不安、というか、予感が俺にはあった。
ドゼ将軍は、「栄光」を求めていると、サン=シル将軍は言った。だが、彼の求めている「栄光」は、ライン河畔にはない。といって、「栄光」が、ボナパルトの放つ光なのかというと、それは違う気がする。
もっと言うなら、ドゼ将軍は、「栄光」、あるいは、「祖国への愛」という言葉の下に、何かを隠そうとしている。そんな気がしてならない。
何を隠しているのかは、わからない。俺はそこまで、彼について知ってはいない。
*
ドゼ将軍が、オッフェンベルクで軍と合流したのは、10月も下旬に入ってからのことだった。
「
いやあ。参ったよ。イタリアからずっと、オーストリアの将校がくっついてきてさ。やつらが邪魔をするから、ドイツの人たちと話ができなくて。
だから、ミュンヘンに着いてすぐ、俺は、バイエルン選帝侯とサシで話すことを要求した。とにかく、オーストリアのスパイがジャマだったからね。だが、バイエルンの方で拒否しやがってさ。要するに、金を払いたくないんだ。なにせ、
だから王様は、隠し子達の為に、金なんて、いくらでも必要なのさ。ライン軍に払う金も惜しい、ってわけ。
もうね。バイエルンなんか外して、別の人を、選帝侯にすればいいのに!
バイエルン選帝侯が会ってくれないもんだから、首相って人を脅してみたんだが……金を払ってくれなければ、再び、貴国を戦乱の渦に巻き込みますよ、ってね! そしたら、首相の奴、にっこり笑いやがってさ。あなたにはもはや、私と話す資格はない、なんてぬかしやがるのさ。あなたは、フランス軍を解雇されたのだから、って!
」
息を詰めて彼の土産話を聞いていた兵士らは、どっと笑った。
今だからこそ笑える話だ。
「
もちろん、俺は、そんな話は信じなかった。で、その後、4日ほど、ミュンヘンに滞在してやった。だって、俺は、一介の民間人なんだろ? 何をやろうと、どこへ行こうと、自由なはずだ。まあ、本音としちゃ、とにかく、俺に貼り付いて離れない、オーストリア将校を困らせてやりたかっただけだけど。
それから、シュトゥットガルト(シュヴァーベンの都市)へ行ったんだけど、
」
ドゼ将軍は、イタリアへ、ただ、ボナパルトに会いに行っただけではなかった。
彼は、モローから与えられたミッションを、きちんと遂行しようとした。バイエルン選帝侯と、
イタリアからミュンヘンへ向かい、ドゼ将軍はそこで、自分が、軍務を解任されたことを知らされた。
それでも彼は、まだ、与えられた任務を果たそうとした。
彼はどこまでも、自分の任務に忠実だった。ライン軍に、誠意を尽くした。フランスの政府が金をくれないから、約束に従って、ドイツの領邦から搾り取ろうと、努力した。
「
親切な人が、ドイツの官報を見せてくれてね。そこでようやく、自分が解雇されたことが、確認できたんだ。いやあ。身うちが震えたね。明日からの生活が心配で。俺には、軍務以外で生きる方法が、さっぱり思いつかないし。これからは、志願兵として、再びやり直そうかとも考えたものさ
」
ぶう。
誰かが鼻を鳴らす音がした。
ドゼ将軍は、にっこりとした。
「大丈夫。年齢制限には、まだ遠く及ばないから!」
再び、笑い声が起きる。
そうすると、ボナパルトは、総裁政府のクーデターに、自分が、一枚も二枚も噛んでいた件を、ドゼ将軍には教えなかったのだな。
スパイを捕まえたとか、そのスパイの持っていた書類が、ピシュグリュの裏切りの証拠だったとか。件の書類を、総裁バラスに提出したとか。
さらには、夏のうちに、バラスから派兵要請がきた件、また、自分は行かず、オージュローを派遣したこと……。
ほらみろ。やっぱりだ。ラップとサヴァリは、甘すぎるんだよ。ボナパルトは、新しい「友達」なんて、信用するタマじゃないんだ。
「
仕方がないから、オッフェンベルクへ回って、軍に合流したんだ。そしたら、クビになんかなってない、と言うじゃないか。それどころか、
」
再び、大きな笑い声。おかえりなさい、ドゼ将軍、の思いに満ちた、温かい笑い声だ。
「ドゼ将軍。よく帰ってきてくれました」
サヴァリが涙ぐんでいる。
「よく、御無事で」
考えてみれば、イタリアから、彼が野放図に突っ切ってきたドイツは、かつての敵国だ。オーストリアのスパイがくっついていたせいもあろうが、よくまあ、無事で帰ってこれたものだ。
柱の陰で、俺の目も、潤んでいた。
何で柱の陰にいるかというと、俺は、こういう場に慣れていないからだ。大好きな人が帰ってきたからって、どう振舞っていいか、わからない。
サヴァリやラップのように、ドゼ将軍! と叫んで、仔犬みたいにまとわりついて行けるほど、俺は、人生の修行を積んではいない。
ドゼ将軍の留守中、頑張って、仲間たちと喧嘩をしないように努力はしてきた。でも、完璧には、言いつけを守れていない気がする。何人かの将校にいちゃもんをつけてみたが、それらは、向こうが、ぐっと吞み込みやがった。俺に喧嘩を挑んでも、勝てる見込みがないからだ。弱虫どもめ。
もちろん、口喧嘩は、日常茶飯事だったけど。
「何やってんだ、こんなところで」
ガラガラ声が問い糾した。部屋に入ってきたばかりの、オージュロー新司令官だ。
「しっ!」
鋭い警告を、俺は発した。
「なにをこそこそしてるんだ、ダヴー」
つられてひそひそ声になって、オージュローが尋ねる。
「だって、今、俺が出て行ったら、せっかくの雰囲気が壊れるでしょ」
「せっかくの、雰囲気?」
「みんながドゼ将軍を囲んでいる、なごやかで穏やかな、明るい雰囲気ですよ!」
「だが、お前だって、嬉しいんだろ? あいつが帰ってきて」
「もちろん!」
「じゃ、そばに行けばいいじゃないか」
「だから、俺が行くと、雰囲気が壊れるんですって!」
「なぜ?」
「知りません。とにかく昔から、俺は、そうなんです!」
わけがわからない、という風に、オージュローは肩を竦めた。
「おかえり、ドゼ」
いきなり、彼は、胴間声を上げた。
みんなの視線が、一斉に、こちらに向けられた。
ドゼ将軍の視線もだ。
心の中で、俺は悲鳴をあげた。
「ほら、ここにお前の部下がいるぞ。そばに行けなくて、うじうじしてる」
「ダヴー!」
おおらかな、温かい声が、俺を呼んだ。
「ダヴーじゃないか。今までどこにいたんだ?」
「ずっとここにいました」
「ただいま、ダヴー」
胸がいっぱいになった。3ヶ月ぶりにドゼ将軍に声を掛けてもらって、泣きそうになった。
落涙直前で、遠慮のない馬鹿笑いが轟いた。
「ダヴーに、助太刀してやったんだ。柱の陰に、まるで乙女みたいに隠れてるから。ドゼ、お前も、ちっとも気づいてやらないんだもんな。ま、無視したい気持ちもわかるけどよ。こいつが、も少し可愛ければ、お前も嬉しかったろうが」
「乙女?」
俺の耳が、ピクンと動いた。
「オージュロー将軍。俺の名誉を棄損したあんたに、決闘をも、」
「恩人になんてことを……。冗談だ、って。ダヴーが乙女であるわけなかろうが。鏡を見ろ、鏡を!」
この間、ドゼ将軍は、じりじりと後じさり、赤毛の大尉の影に隠れてしまっていた。そのドゼ将軍に、オージュローが声を掛けた。
「なあ、ドゼ。俺は冷たい男じゃ、なかろう?」
「冷たい?」
大柄な大尉の後ろから、ドゼ将軍が、ひょっこりと顔を出す。彼は、眉を顰めていた。
「何のことやら」
「おっと、」
再び、オージュローが大声で笑った。けらけらと、本当におかしそうだ。
「お前とは、はじめましてだものな。俺が、オージュローだ。ボナパルトの下にいた」
「あ……」
ドゼ将軍は、知らない。
イタリア軍につけられた派遣議員、クラークに、スパイされていたことも。
自分が彼と交わした会話が、総裁カルノーに報告されていたことも。
その報告書を、よりによって、噂の主、オージュローに見られてしまったことも。
だが、即座に、彼は、何かを悟ったようだ。明らかに慌て始めた。
単に、イタリアでの噂話を思い出しただけかもしれない。それによると、オージュローは、宝石強盗の上に、仲間の見張りを殺すような冷たい男だ。
噂ではなく、事実だが。
「ええと、オージュロー将軍。新たに創設されたドイツ軍の総司令官に就任された……」
つまり、ドゼ将軍の上官だ。ドイツ軍における、たった一人の。
「
オージュローの出現で、ピンと張りつめていた空気が、一気に緩んだ。
温かい眼差しが、向けられた。
それらはなぜか、オージュローと並んで立っていた俺に注がれた。