第4話追懐

文字数 5,653文字

 窓から差し込む光で目が覚める。小鳥がチュンチュンと鳴いて朝を告げていた。ここにきてからこんなに長く寝たのは久しぶりである。大体夜中に暑さで一度は起きてしまうのだが。僕はいつも通り布団のわきに脱ぎ捨てたパジャマを着ると、階段を降りて母屋に向かった。
「おおっ!みっちゃんおはよう!今日は早いな!」
おばあちゃんは朝っぱらから元気である。むしろ元気でなかったことを見たことがないくらいだ。もう八十間近なはずなのにどこからそんな気力が湧いてくるのだろう。
「おはよ。今日は何するの。」
「今日も草刈り。毎日いやになっちゃうねぇ。」
おばあちゃんは、おぉ嫌だという身振りとともに顔をしかめた。今日はおじいちゃんも食卓にいた。ただもう食べ終わった後で、僕と入れ違いになるように、
「後から来いよ。」
そう言い残して去って行った。天気予報は、連日快晴で真夏日が続くため熱中症に注意しましょう、とのことだった。いつもはどうでもいい天気予報であるが、今日は内心ガッツポーズであった。八月十六日に雨だと、花火が中止される可能性があるからだ。僕は朝食を食べ終わると、いつも通り水分補給用のペットボトルを持って外に出た後、ボロボロのジャージに着替えた。しかしおじいちゃんの姿はどこにもなかった。
「今日は違う場所で草刈りやるからね。」
おばあちゃんは家の前に置いてある小型の草刈り機を肩にかけるよう指示すると、前に立って道を案内してくれた。日光はいつも通りじりじりと肌を照り付けている。もうここに来たときよりずっと肌が黒くなった気がする。あぜ道を通り抜け山へと続く道までたどり着くと、そこには草を刈っているおじいちゃんの姿があった。今日はどうやらここの草を刈るらしい。僕はペットボトルを邪魔にならない場所に放り投げると、おばあちゃんから草刈り機の使い方を教わった。前に使った草刈り機とは違い、直接回っている刃を振り回して刈るタイプだ。エンジン部分にある突起を四、五回押して取っ手を思いっきり引くと、ドルゥンという音がしてエンジンがかかった。刃が猛スピードで回りだす。
「斜面は危ないから平地だけやんなよ。」
そういって刈る場所を指差すとおばあちゃんは家に帰って行った。膝下程の高さの青々と生い茂った雑草を容赦なく刈っていく。すごい切れ味である。人間に当たってしまったらただでは済まなそうだ。こんな危ない物を、今教わったばかりの僕が振り回していいのだろうか。少し慣れてしまえばそんな考えはいつの間にか頭の中から消え去って、僕は名も知らない彼女について夢想していた。今日もあそこにいるのだろうか。今日はどんなことを話そうか。そろそろため口でしゃべりかけてもいいだろうか。柔らかくしなやかな肢体に、憂いを帯びた瞳。暑さで思考の焦点が定まらない。茹った頭を彼女に関する様々な事柄が浮かんでは消えた。僕は首を横に振って大きなため息を一つついた。人は愚かな生き物だと悟る。僕は彼女について何にも知らない。名前はおろか年齢や住んでいる場所すら知らないのだ。それなのに彼女についてあれこれ考えて何になろう。期待は人を盲目にする。その分絶望は冷静な時よりもずっと大きい。それなのに人は期待する。盲目であることを願うかのように。いつの間にか指定された場所の草は粗方刈り終えていた。おじいちゃんにそのことを報告すると、先に帰ってろと言われた。まだ刈り終えていない場所があるらしい。僕はペットボトルを拾って一口飲むと、元来た道を帰り始めた。また来ることになるだろうと思いながら。
「迎え火、あきちゃんも来るって。」
おばあちゃんが作ったラーメンをすする手が思わず止まる。
「あきちゃん来るんだ。最近忙しそうだったのに。」
「たまたま休みが取れたみたいでね。さっき電話かかってきたのよ。」
あきちゃんとは僕の従兄弟である。会うのは二、三年ぶりになるだろうか。
「迎え火っていつだっけ。」
「明日よ。あ、し、た。」
おばあちゃんは両手を挙げて、驚いたようなそぶりを見せた。
「迎え火って他には誰が来るの?」
「義雄と香織は来るって言ってた。あと博信も。他は来れないって。」
「ふぅん。」
従兄弟はあきちゃん以外来ないみたいだ。みんな忙しいのだろうか。まぁ今更会った所で話すこともないのだが。それからもおばあちゃんの長話は続いたが、ラーメンをすすりながら適当に相槌を打っていた。昼飯を食べ終わると僕はすぐさま寝室に戻り、ベッドに横になった。疲れた体を少しでも癒すためである。心地よい眠気に身を任せながら、頭の中を取り留めのない思考が泡のように浮かんでは消えた。久しぶりに会う従兄弟のこと。迎え火のこと。花火のこと。あの帳面に書かれた名前のこと。そして名も知らない彼女のこと・・・。気がついたらスマホの時計は十五時前を指していた。
 有名な草枕の冒頭は山を登っている場面だったか。なるほど山登りというのは考え事に最適である。終わりの見えない山道を、一歩また一歩地道に足を前に出す作業は思考のそれと瓜二つだ。また木々が影になってくれるおかげで、日光を遮るものがない田畑で作業しているよりも幾分涼しいのもありがたい。ただ綺麗に整備されていない山道を歩くというのは結構疲れる。滑らないように足を踏ん張ったり、草木を分けて入ったり。もう少し道を綺麗に整備してくれれば登りやすいのに。昔は今よりも綺麗に整備されていたのだろうか。おじいちゃんが子供の頃は、たまに山頂の神社に集まって宴会をしたそうだ。僕が子供の頃、おじいちゃんは懐かしそうに神社の裏側に散乱している酒のビンを見せてくれたっけ。もう今は過疎化が進んだせいで、そういったことはやらないらしい。もっと過疎化が進めば、いつしか道は草木の中にかき消えて、神社も荒れ果ててしまうのだろうか。そうしたら山頂にある神社のことなんて人々の記憶から忘れ去られてしまうのではないだろうか。ひぐらしの音色が辺りにこだまする。僕は寂寥感で押しつぶされるそうになる心の中に、小さな胸騒ぎを覚えていた。
 彼女は今日もいた。昨日と同じように神社の縁側に座ってどこか遠くを見つめている。不思議と山を登っている間、今日彼女はいないかもとは思わなかった。なんとなくいるのだろうという気分でいた自分に気づいて少し驚く。
「やぁ。また会いましたね。」
僕は昨日と同じように、賽銭箱を挟んで向こう側の縁側に腰かけた。
「・・・。」
彼女は特に返事をしなかったが、僕の存在には気づいたみたいだった。僕の方を見る眼差しが昨日より少し親密になった、気がする。僕は彼女に無理に話しかけるのをやめた。このぐらいの距離感が一番なようだ。風に身を震わせる木の葉。木々の隙間を蝉の音が満たす。僕はしばらくの間、無言の時間を楽しんだ。
「そうだ。名前書かないと。」
僕は昨日賽銭箱の上に置いたままの帳面と鉛筆を取ると名前を書き始めた。もちろん昨日の僕が書いた名前以降、誰も書き込んでいない。こんなに毎日来ているのに律儀に名前を残す必要などない気もするが、なんとなく記録に残しておきたかった。ここに僕がいたこと。彼女と過ごした時間。そういえば彼女と最初に出会ったのも、ここに名前を書いている最中だったか。
「それね。」
声がする方向を見ると、彼女が縁側に立って後ろからのぞき込んでいた。僕はびっくりして、思わずのけぞる。いつの間に後ろに回り込んだのだろう。風ではためいたワンピースが顔にかかる。
「え。どうかしたの。」
「この中にも同じの見つけた。」
彼女は神社の中に目をやった。これと同じような帳面が神社の中にあったということだろうか。と考えていた矢先、いきなり彼女は神社の扉を開けてずかずかと中に入っていった。あまりにも自然に入っていったので、僕の思考はフリーズした。彼女はここの神主なのだろうか。いやまさか。こんなことをして罰当たりではないだろうか。僕は少し迷った挙句、彼女を追いかけることに決めた。靴を脱いで縁側に立つと、軽く一礼して中に入った。
中は薄暗く目の前には立派な神棚が祀られていた。少しかび臭いが無人にしては比較的綺麗である。しかし彼女の姿はない。辺りを見渡すと左後ろに本棚のようなものがあり、そこに彼女は立っていた。なにかをパラパラとめくっている。僕は彼女に近づいた。床がギィギィと軋む。
「どうかした?」
そう訊ねると、彼女は持っている帳面のある箇所を指差した。
2011年1月1日荒井義雄
これはおじさんの名前である。七年前のものだ。確か今さっき書いていた帳面の最後が五年前のものだったから、これはそれより前のものになる。
「これ。」
次に彼女は本棚を指差した。なにやら郷土史や教典のような難しそうな本の他に、帳面が何冊か保管されているのに気が付いた。どれもうっすらと埃を被っている。過去に名前で埋まってしまった帳面は、ここにしまわれていたのか。
「よく見つけたね。これ。」
僕はその中の一つを取り出して、パラパラめくってみた。なんだかタイムカプセルを開いているみたいだ。神社の中に入ってしまっているという背徳感も相まって僕は少しワクワクした。これは今から十五年前の日付で始まっている。僕の親戚の名前の他にも、何人か今使っている帳面にも出てきた名前がチラホラ見える。参拝日は正月が一番多いが、その他にもバラバラの日付が記されていた。僕は胸が熱くなった。ただ日付と名前が書かれているだけなのに、ここには様々な人の思いが詰まっている。年中行事として来た者、祈願しに来た者、ただなんとなく来た者、なにかを求めて来た者。みな同じ山道を通り、同じ場所に辿り着くのに胸中はそれぞれ異なっている。そんな過ぎ去りし一瞬がここには残されている。ページの最後は十九年前で止まっていた。
「これ面白いね。」
彼女はかがんで帳面が並んでいる棚を覗き込み、キョトンとしていた。
「これいつからあるんだろう。」
僕は一緒になって棚を覗き込んだ。息がかかるほど顔が近い。彼女は左手で髪をかきあげた。柔らかいきれいな耳が露わになる。僕はドキドキしているのを悟られないように平静を装った。並んでいる帳面は、見た感じでは右から左にいくにつれて古くなっているみたいだ。僕は一番左にあるそれを手に取った。ボロボロで表面はかなり色あせている。僕はページを優しくめくる。最初のページには昭和五十四年と記されていた。
「あれ昭和五十四年って何年前だっけ。」
彼女は僕の手にある帳面を見つめたまま、答えようとしない。単に知らないのか、それとも何か別のことを考えているのだろうか。僕は彼女に期待せず、自力で計算することにした。えーっと昭和二十年に第二次世界大戦が終結したから・・・。今から三十九年前ということになるだろうか。なんだ、思ったより最近だな。百年、二百年前を想像していた僕は少し肩透かしを食らう。まあこれが一番古いとは限らないが、この本棚にある帳面の量から考えて、数十年前がいいところか。僕はページをパラパラとめくった。これまでも見たことあるような姓が続く中、名前まで同じ人を見つけるとなぜだか嬉しくなった。古くからの友人を見つけたような気分である。祖父の名前もそこには残されていた。日付は正月である。おじいちゃん四十年も前から正月になると律儀にここに来ていたのか。堅物のおじいちゃんらしい。
昭和五十二年七月十七日 荒井譲治
「ん?」
ページをめくっていた僕の手が思わず止まる。僕と同じ荒井姓である。親戚にこんな名前の人いたかな。
「どうかしたの?」
「いやね、ここに荒井譲治ってあるでしょ。そんな親戚いたかなーって。」
彼女は口に手を当てて何か考えている様子だった。よく考えてみれば荒井なんて苗字どこにでもいる。僕の親戚とは限らないじゃないか。
「ごめん。親戚とは限らないわ。たまたま苗字が同じなだけかも。」
僕の言葉が耳に入らないのか、彼女はまだ考えているようだった。まるで何かを思い出そうとしているかのように。
「おばあちゃんに聞いてみれば?」
「あ・・・。確かに。」
僕の親戚に荒井譲治という人がいたのなら、おばあちゃんかおじいちゃんなら知っているはずである。
「ありがとう。ちょっと聞いてみるよ。」
窓から差し込んだ西日が神社の一角を淡く照らしている。そろそろ帰らないと。彼女に断りを入れると僕は神社を出た。縁側に腰かけ、靴紐を締め直す。
「お盆の日、晴れるといいね。」
ぽつり、彼女はそうつぶやいた。
「そう、本当に。」
僕は彼女と離れるのが無性に寂しくなった。もう二度と会えないんじゃないかという予感が頭をかすめる。ひぐらしの音色が遠く、遠くに聞こえた。
 一度生まれた予感は次第に大きくなり、振り払おうとしてもべったりと絡みついて離れない。心が酷くざわつく。こんな気持ちははじめてだ。寝室を支配するよどんだ空気を切り裂いたのは、おばあちゃんの大声だった。
「みっちゃん!ごはんできたよー!」
重い体をなんとか起こして、トボトボと母屋に向かった。夕食の後、おじいちゃんがお盆の準備が整った仏壇を見せてくれた。仏壇は、いつも食事を取るリビングを抜けた大広間の隅にある。仏壇の前には注連縄がまかれ、間には鬼灯なんかが挿さっていた。まこものゴザには精霊馬とお供え物が並び、提灯まで飾られている。辺りに漂う線香のにおいは、信心深くない僕でも、なんだか厳かな気分にさせてくれる。いつの間に準備したのだろうか。
「明日は迎え火だからね!みんな来るからね!」
寝室に向かおうとする僕の後ろからおばあちゃんが声をかける。うつ病で受験勉強が出来ず、祖父母の家に泊まっている僕としては、今親戚と顔を合わせるのは複雑な心境である。ここに来て忘れかけていた、自分が社会の落ちこぼれであることを、改めて突き付けられる気分だ。僕は台所に置いてある精神安定剤を水で流し込んだ。薬はゆっくりと心の奥に落ちていき、僕に落伍者としての印を付けた。
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