石川今昔物語
文字数 4,185文字
恒久展示作品『スイミング・プール』(レアンドロ・エルリッヒ)
画像は金沢21世紀美術館公式サイトより。
21世紀美術館の開館は2004年だから、随分近いタイミングだと分かるね。
さらに金沢駅からほど近い観光地、近江町市場の再開発着手が2007年。
他には金沢城の改修なども進めている。
「私どもには、初めは娘が八人もございました。ところが不幸なことに、ここの高志〔越、すなわち北陸を指すと考えられる〕と申すところに、八俣の大蛇(やまたのおろち)という怪物がおりまして、これが毎年のようにまいっては、娘を一人ずつ餌食といたします」
(「おいで祭り」とは)気多大社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。帰社した神輿は四月三日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録にいれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。
このオオクニヌシノ神、別名は八千矛神(ヤチホコノカミ)は、のちの越(こし)である高志の国の、沼河比売(ヌナカワヒメ)を妻にしたいと思って、はるばるその国へと出かけていったことがあった。
糸魚川は日本最大の翡翠(ひすい)の産地だったんだ。
日本海側の各地で、その翡翠が出土している。
つまり、糸魚川から海路を通じて、翡翠の取引があったということなんだよ。
糸魚川(姫川)は日本で唯一の翡翠の産地で、現在の新潟県と富山県の県境にあるが、そこから採掘された翡翠が日本海側の各地の遺跡で出土している。糸魚川の河口から、富山湾を渡り、能登半島を横断し、敦賀を経て丹後半島まで運んできたと考えられる。鉄蹄(鉄の半製品)を積んできた船が、帰り荷に翡翠を積んだのである。
(引用者注:翡翠の産出地は糸魚川の他にもあるため、「唯一」には語弊あり。当時はそうだったという意図かもしれないが未確認。)
越後国(こしのみちのしりのくに)の風土記に曰ふ。八坂丹(やさかに)は玉の名。玉の色青きを謂ふ。故(かれ)、青八坂丹の玉と云ふなり。
今昔、加賀の国□□郡に住ける下衆、七人一党として、常に海に出て、釣を好て業として、年来を経けるに、此の七人、一船に乗て漕出にけり。此の者共、釣しに出れども、皆弓箭・兵仗をなむ具したりける。
(以下略)
当時は海賊も多かった時代さ。
『石川県史第1編』278ページにそのへんのことも書いてある。
「漁人にして兵仗を携へたるは、当時海賊に備ふる為に、此の如き風習ありしなるべしといへり」
実現したのは羽咋市役所職員の高野誠鮮(たかのじょうせん)さん。
『ローマ法王に米を食べさせた男』という本も出している。
ローマ法王が食べたという宣伝効果はとても高く、米はバカ売れだそうだ。
足りないものを補うことに集中してしまうんだ。
そうすると、その町が持っている魅力を見落としがちになる。
高野さんは羽咋市の良いところを探すことで、様々なアイディアを生み出した。