第7話 それは原作なのか改作なのか
文字数 7,209文字
所謂文学賞の権威と言う点から述べると、ワールドクラスがノーベル文学賞、また国内の文学賞では芥川賞と直木賞が最高峰の権威であると言う格付けは論を待たないところである。
が、しかしである。
それ等権威有る文学賞を受賞する難易度が他の文学賞と比較して最も高いのかと言うと、それはそうではないと私は断言する。
何故ならそれ等の文学賞は、既にプロとして作家デビューを果たした「玄人」に授与されるものだからである。
で、あるからして、最も難易度が高いのは未だデビューしていない「素人」向けの文学賞の中で最も難易度が高いものが、日本人の受賞する文学賞の中で最難関であると言えよう。
何故なら「素人」は時間も経済的な余裕もない上に調査・取材・編集に到る迄総て一人でやらなければならず、「玄人」が文学賞を取るのとは比べ物にならないほど受賞に於いて不利だからだ。
一般に作家と言っても様々で、たとえば原稿料や印税を貰えずに執筆で生計を立てられない作家を「素人」とし、原稿料や印税を貰って執筆で生計を立てている作家を「玄人」とする。
そうすると余程のボンボンやお嬢様でない限りは、「素人」の成人ともなれば、正規非正規の別に拘わらず何等か執筆以外に仕事をしないと食べていけないと言うことになる。
斯く言う「素人」の私も日夜アルバイトを二つ掛け持ちし、休みの日にせっせと執筆や読書に明け暮れる生活を送っている。
畢竟執筆にのみ時間を割ける「プロ」と比較すると、私を代表とする「素人」がプロアマ混合の文学賞を受賞することは、色んな面で圧倒的な不利を受ける。
そこでその圧倒的な不利を補う為プロとは争わずに、「素人」のみが参加可能な文学賞が有って然るべきだと言うことになる。
そしてその「素人」達の声に応えるべく、新人がデビューする為の救済措置を目的として創設されたのが、各出版社の主宰する「新人賞」なのである。
とは言え前述の権威有る文学賞と比較すれば新人賞と言うものは余り著名ではなく、仮に受賞してもそのタイトルを持っているだけで即食べれる「プロ」になれるかは疑問だ。
それでは文学賞の意味が無いではないか、と、思う方もいらっしゃるかも知れない。
もしそう思われる方は、否、そうではなく、新人賞を各出版社に於ける新人スカウトの為のトライアウト、或いは採用試験と捉えて戴くと納得がいかれるのではないだろうか。
なるほど、しかし、で、あれば、「賞」と付けるの止めて、たとえば「新人作家トライアウト」とか、「新人作家採用試験」とかにすれば
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いいのに、とも思われるかも知れない。
勿論そう言う主旨のもと、比較的受賞難易度の低い新人賞本来の趣旨に沿った文学新人賞も実際に多数存在する。
ならばやはり芥川賞や直木賞の方が新人賞なんかより受賞難易度は高いじゃないか。
と、読者諸兄がお思いになるのは至極当然のことである。
そこで、さぁてお立会い、今から講談社主催の「江戸川乱歩賞」と言う、類まれなる新人賞をご紹介させて戴く。
それこそ新人賞の最高峰にして最難関。
至高の新人賞であり受賞はほぼ奇跡だ。
受賞者は天才かさもなくば余程の強運の持ち主と言えよう。
宝くじで三億円の当たりを引くよりも難易度は高いのである。
しかしそのような文学賞を果たして新人賞と呼んで良いのか。
そもそも並みの「素人」が取れる賞ではないし、仮にプロに投稿させたとして最終選考に残れる玄人が何人いるのか疑問だ。
ところがそんな「江戸川乱歩賞」が新人賞なのである。
しかも賞金は一千万円と言う破格の金額で、これは明らかに素人を救済する為にあるものではない、と、断言しても良い。
少し長くなってしまったが、私は乱歩賞作家になるのがどれ程難しいかと言うことを言いたかったのだ。
加えて受賞難易度と権威はまったく別次元なのだと言うことも。
そして私の五芒星の一人福井晴敏氏もまた乱歩賞作家である。
しかも投稿たったの二回で受賞に到るなんて奇跡としか言い様が無く、或る意味異常とも言えよう。
また奇しくもあの倍反しの「半沢直樹」や「下町ロケット」で有名な池井戸潤氏と彼は、第四十四回の同賞を同時受賞している。
この受賞者二名の名前を聴いただけでも同賞の凄まじさが分かって戴けると思うし、しかもそのふたりを同時受賞させている文学賞なのだから何をか言わんやである。
今ふと思ったのだがこの「江戸川乱歩賞」について言及し、「新人賞なのか新人賞ではないのか」なるタイトルで本エピソードを書く手もあったなぁ、しまった、エピソードひとつ分損をした、と。
何れにせよ通常の新人賞の範疇から頭ひとつ抜け出していると言わざるを得ないし、この「江戸川乱歩賞」こそが我が国の文学賞中受賞難易度ナンバー1の文学賞なのである。
と、私は考える。
また私には彼等を天才以外の言葉で表現する方法が思い付かない。
そんな乱歩賞作家達はプロの作家を目指す素人の私からすると、羨望と嫉妬が混沌として胸中に渦巻く複雑な存在なのである。
さて、ここから愈々今回のエピソードの本題に入っていく。
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今回取り上げるのは先程からその類まれなる才能を称えていた、福井晴敏氏原作「終戦のローレライ」についてだ。
何故このエピソードの前半で殊更に彼の才能に言及したかと言うと、彼の作品が如何に重厚で且つ深いものなのだと言うことを伝えたかったからである。
畢竟彼の作品を映画にするのなら、それ相応の覚悟と時間そして予算が必要になってくる。
殊に「終戦のローレライ」はその最たる作品である。
日本人に取って終戦とは何なのか、或いは原子爆弾の投下は何を意味するのか。
この作品にはそれ等重くて深い問題が提起されている。
元来ローレライと言うのはドイツの伝承を基にした楽曲である。
ドイツはプファルツ州にザンクト・ゴアールスハウゼンと言う街があり、そこにはライン川が流れていて川沿いに水面から130メートルほど突き出た岩山が聳え立っている。
またその岩山には不実な恋人に絶望して身を投げた美しい娘がセイレーンなる魔女となって宿り、その魔女の余りの美しさと歌声に船乗り達は舵を取るのも忘れてしまうと言う。
遂には水没した船乗り達は死出の旅へと導かれる。
そんな怪しくも悲しい物語を楽曲にした「ローレライ」なのだが、原作ではパウラと言う17歳の少女が操る特殊音響兵装を「ローレライシステム」と呼ぶ。
日本人の祖母を持つクォーターのパウラは、ナチスの人体実験によって水を媒介とする超能力を得る。
そんな彼女がソナー或いは水中レーダーとも呼べる新型策敵機の中枢を務める戦利潜水艦の伊507。
そしてその伊507が次々と米軍艦船を沈めていく。
無論原作の「終戦のローレライ」 に於いても、その伊507とローレライシステムが物語の核になっているのだが、しかし何もその伊507のとローレライシステムにのみ終始する物語ではない。
ところが映画では原作ファンの私としては、省いて貰っては困る最も重要なシーンが何箇所も省かれているのだ。
私のみならず原作ファンであれば看過出来ない由々しき事態だ。
しかしここで立ち止まって考えてみよう。
原作のタイトルご「終戦のローレライ」で、映画のタイトルは「ローレライ」なのだ。
つまり一番重要な「終戦の」と言う前置詞が外されている。
原作の「終戦のローレライ」に於いてローレライとは、戦利潜水艦の特殊音響兵装であると共に日独混血の少女が唱す歌でもある。
そして私流の解釈ではそのふたつのローレライが「終戦の」、と、言う言葉に収斂されて行
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く物語。
それが福井晴敏氏原作の「終戦のローレライ」と言う作品だ。
従って断固として単なる「ローレライ」ではない。
そのことから映画「ローレライ」の製作関係者が、タイトルから前置詞の「終戦の」を取り去ったことは賞賛に値する。
恐らく原作に対する誠意から或いは衷心からそうしたのだと思う。
何故なら映画のタイトルを原作タイトルそのままに「終戦のローレライ」としたのでは、とてもではないが僅か二時間八分と言う上映時間では原作の総てを表現し切れないからだ。
それが映画タイトルから「終戦の」と言う前置詞を外した理由かどうか定かではないが、少なくとも脚本家の鈴木智氏と監督の樋口真嗣氏はそのことに気付いていた筈だ。
そうでなければタイトルから「終戦の」、と、言う前置詞を外したりはしないだろう。
しかし映画関係者がそうした措置を取ったにも拘らず、映画を酷評した人が数多居る。
何故か?
それは酷評した殆どの人が原作を読んでいたと言う点に拘わる。
ネットを検索してみると直ぐに分かることなのだが、殆どの酷評文が「原作と比較して云々」、と、評価していたのだ。
無論原作と映画は別物だし、これを同じものとして評価するのはナンセンスなことだ。
しかし原作ファンの私はそこである誤りに気付いてしまったのだ。
酷評した人達が「原作」と「準拠」を取り違えてしまったことに。
そしてもうひとつの誤りにも気付いた。
それは映画の製作サイドが興行収入を上げる為に、原作を準拠していない映画のタイトルに「ローレライ」を残すことで、原作ファンを巻き込もうとしたことだ。
このふたつの間違いが映画「ローレライ」の酷評を招き、続く同氏原作の映画「亡国のイージス」で興行収入の2割減、延いては映画「人類資金」に於いて瀕死の8割減を招いてしまったのだと思う。
そこで整理してみることにする。
酷評した原作ファンの言い分。
「原作」と「準拠」を取り違えたと言われるが、単に原作福井晴敏とだけされてタイトルが「ローレライ」だと、原作を準拠して完全映画化したものだと勘違いするのは人情だろう。
例えばこんな風なタイトルだったら自分は酷評していなかった。
福井晴敏原作「終戦のローレライ」より抜粋の上改作とした上で、『戦利潜水艦伊507』、
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と、言うタイトルにする。
これなら原作と映画は別物だとはっきり分かるし、酷評どころか原作と比較することすら出来ない。
製作サイドの言い分。
原作とした以上は福井晴敏氏にも著作権料を支払っている訳だし、それに依って原作である書籍も売れるだろうから、こちらとしては映画と原作との相乗効果も考慮に入れている。
そのことからもタイトルをまったく変えてしまうなんて有り得ないし、どう考えても利益の喪失に繋がる。
やはり原作ファンも巻き込んでの映画興行だし、そうでないと原作者に著作権料を支払う意味がない。
確かに原作を準拠し切れていないと言われるとそうかも知れないが、我々には原作を使用する権利があるのであって、その際原作に準拠しなければならないと言う義務はない。
従って変更出来るとすればタイトルから「終戦の」を外す程度だ。
と、言う感じではないだろうか。
何やら裁判に於ける冒頭陳述のようになってしまったが、どうだろうか、ここで双方の言い分の中を取って以下のようにするのは。
*福井晴敏原作「終戦のローレライ」を改作*
『パウラの奏でるローレライ』
これがベストとは言えない。
しかし少なくとも原作ファンはこの映画を原作に準拠したものだとは捉えないだろう。
改作とした上でローレライの前に「パウラの奏でる」を付与することに依り原作との違いを強調する。
そしてローレライと言う言葉を残しつつ、ローレライを歌うことと且つ特殊音響兵装のローレライシステムを操ることの、その両方をパ
ウラが為すことを示唆する。
うーん、我ながら良い出来である、と、自画自賛してみる。
とは言えこの映画「ローレライ」は、「終戦の」を外しただけまだ他の作品より幾らか良心的だと言える。
何故ならそれ以降の映画作品「亡国のイージス」と「人類資金」に於いては、原作タイトルをそのまま映画のタイトルにしているからだ。
その二作品とも映画の枠の中では原作を再現し切れていないことは言う迄もなく、映画「ロ
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ーレライ」同様少なからぬ原作ファンの酷評を
呼んだ。
信じられないことだが最新作の「人類資金」に到っては、脚本をプロの脚本家に依頼せずに監督の坂本順治氏が務めている。
それが予算の関係なのかどうかは私の知るところではないが、その結果が興行収入に現れていることは紛れも無い事実である。
そこで制作費並びに興行収入を以下に列記してみる。
2005年3月5日公開 「ローレライ」
制作費12億円、興行収入24億円。
2005年7月30日公開「亡国のイージス」
制作費12億円、興行収入21億円。
2013年10月19日公開「人類資金」
制作費3千万円、興行収入 4億円。
と、以上のように右肩下がりに興行収入が下降している。
無論「ローレライ」と「亡国のイージス」は2008年9月のリーマンショック以前の公開であり、リーマンショック後に公開の「人類資
金」とは経済事情が大きく違う。
そんな中「人類資金」は制作費の13倍を上げていて、一見成功しているようにも見える。
それに関して私は素人なのではっきりとした事は言えない。
しかし制作費の何倍上げたからと言う計算で、映画興行の損益分岐点が満たされるものでないことくらいは知っている。
その点から鑑みると如何に映画「人類資金」の制作費が集まらなかったのか、時間がなかったのか、そして遂にはその計画が水泡に帰し
てしまうことになったのかは、誰が見てもこの数字を見れば明らかだ。
これ等の悲惨な事態はどのような理由で惹起したのか。
それは先程来私が訴えている原作ファンの「映画は原作を準拠すべし」、と、言う解釈と、製作サイドの「たとえ原作を準拠していなくとも原作ファンを巻き込まなければ損をする」、と、言う誤った解釈から生まれたもののように思う。
その両者の誤った解釈から齟齬が生じ、その齟齬がこれ等忌むべき結果を生み出したのではあるまいか。
読者諸兄はそう言った私の見解をどう思われるだろうか。
無論私と違う意見をお持ちの方もいらっしゃるだろう。
しかしそうであってもひとつだけ言わせて欲しい。
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私は単に良い映画を見たいだけなのだ、と。
その映画が原作に準拠していようがしていまいが、良い映画は良い映画だし、悪い映画は悪い映画なのだ。
例えば2006年12月9日公開の、クリントーストウッド監督が手掛けた「硫黄島からの手紙」。
これを名作と呼ばずして何と呼ぶ、と、言う名作中の名作だ。
日系アメリカ2世のアイリス・ヤマシタ氏の原案脚本によるこの作品は、製作費も20億円と破格だが、それにも増して凡そ100憶円と言う莫大な興行収入が上がったのだ。。
アイリス・ヤマシタ氏の素晴らしい脚本があったことは言うに及ばないが、しかし福井晴敏氏の原作がそれに劣るのか。
決してそんなことはない。
福井晴敏の作品は総てが勝るとも劣らない素晴らしい仕上がりだ。
では何故「硫黄島からの手紙」とそこ迄差がついてしまったのか。
無論邦画をハリウッド映画と比べるのはナンセンスである。
それはその通りだ。
しかしアイリス・ヤマシタ氏は映画の為に脚本を書いたのである。
つまり原作がそのまま脚本なのだ。
福井晴敏氏原作の映画とはそこか決定的に違っている。
ならばここで私が自問自答してみよう。
「原作が余りに重厚で2時間程度の上映時間で表現出来ないのなら、全十話くらいに区切って製作するのも有りだったのではないか?」
「否、それでは制作費の予算がオーバーするし、そんなに長期に亘れば興行収入の予測も立てられなくなる」
「それならドラマにして地上波放送で流せば良いだろう」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。
そもそも地上波のドラマに出来る程軽い内容のものではないから映画にしようとしたんだ。
そんなことをしたらそれこそ本末転倒だ。
第一我々の撮ったフィルムを買い取る予算など、今の地上波ドラマの制作班は持たない。
考えてもみろフジテレビだって制作費を出したのは、『ローレライ』の一回きりでそれ以降はまったく手を出していない。
否、出せなかった、と、言うべきかもな」
「それなら改作にした上でタイトルを変えてくれないと、そちらにしたって時間も予算も不足していたんだろ?」
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「そんなことは言われなくても分かってるさ」
「じゃあ何故原作タイトルをそのまま映画のタイトルにしたんだ?」
「それは何度も言っているように・・・・・」
これでは堂々巡りである。
しかし解決法はある。
今後は私の論じた作品だけに限らず、原作ファンと映画制作サイドが歩み寄りまた互いの誤りを互いが認め、そしてそれを修正し互いの納得出来る映画を製作する。
そうした僥倖を唯々願うばかりの私なのだ。
そしてその良質な映画の脚本からまた新たに良質な小説が生まれる。
それこそが私の望む、「誤りから生まれるもうひとつの文学」であることは言う迄もないことだろう。
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