第一章(一) こんなことになろうとは
文字数 2,384文字
箸を片手に、固まっている男がいた。男の名は天笠 庵 、料理研究家の大波 朔夜 に雇われた、試食人である。
天笠の年齢は二十歳。細い眉に面長の顔をしていた。体格はいたって普通の中肉中背。着ている服は白衣だが、サマになっていないので、研究者には見えなかった。
有名な料理研究家の大波のスペシャル料理を食べられると聞いたので、天笠は喜んできた。だが、大波専用キッチンに入って、強烈な違和感を持った。
保険会社がスポンサーの、七分間の料理番組でよく見る大波は、小柄な女性だった。髪の色は茶色。短めの髪を二つに分けて結んでいた。顔は丸顔。目は大きく、化粧は、ほとんどしていない。
実際に会った大波は少し違った。顔や体型は問題ではない。問題は格好だ。大波は対毒ガステロ用の防毒マスクを着け、服装は緑色の手術着を着ていた。
感染が拡大する病院でウィルスと戦う医者には見えても、とても料理をする人間の格好ではなかった。もし、医食同源の言葉もあると口にする人間がいたら、素直に詐欺師の称号をあげたい気分だ。
爆弾処理班がするようなミトンを付けた大波が一皿目を持ってきた。なんとも形容しがたい料理だった。見た目からすると、溶け掛かった亀の半身に蜂を詰め込んだような料理だった。
見た目は最悪だが、相手は料理業界では知る人ぞ知る人物の大波。味は最高だった、となるかもしれない。勇気を持って、一口にした。
きつい苦さの中に仄かな甘みがあり、辛味と強い塩加減で食材の味を見事に殺した料理だった。
試食人たるもの、ただ不味 いではなく、どこがどう不味いか。また、どう改良したら美味しくなるかを依頼人に伝えなければならない。
だが、さすがの天笠も目の前の料理にはアドバイスがなかった。強いて言うなら次の通りになるだろう。
「料理を厚手のビニール袋に入れて、しっかりと口を閉じる。黒のマジックで大きく袋に×印を付け、生ゴミの日に出すべし」
正直で生きていける人生は、学生くらいまでだ。社会に出れば、正直な感想は、必ずしもプラスにならない。天笠は控えめな口調で意見した。
「すいません。大波さん。この料理、何か、根本的に違う気がするんですが。参考にした本が間違ってないでしょうか」
「悪の根源は、あくまで資料。大波ではない」との意を込めた、社会人的な発言だ。
大波がタブレットPCに何か記載しながら短く「問題ないわ」と口にした。
「問題ないわ」ではない。喰えたものではなかった。こんな仕事は、したくない。天笠が席を立ち上がろうとすると、大波が口を開いた。
「完食できたら、グラムにつき、千円を出すわ。試作品第一号は二百gあるから、二十万円になるわね」
グラム単位で料理を量り売りする商売は、普通だ。だが、料理を食べたグラム数だけ報酬が支払われる仕事は、初めてだった。とりあえず、即断は悪と思い留まり、座り直した。考える時間があるなら、考えたほうがよい。
契約期間は二週間あった。二週間×三食だと四十二食。一回の食事が二百gで二十万円なら全て食べきれば、八百四十万円。
天笠の年収は四百万円に行かなかった。たった二週間で年収二年分になる仕事を放り出していいのだろうか。
もう一口、料理を口にしてみる。だが、やはり喰えた味ではなかった。
「大波さん、確認させてください。料理は、完食すれば報酬が支払われる。味に関する評価やアドバイスは、なくてもいいですか」
大波が防毒マスクの奥で瞳を光らせ、クールなビジネス口調で発言した。
「料理に関しては、味の評価は、どうでもいいわ。改良のアドバイスも必要ない。ただ、本当に人間が食べられる料理なのかが判明すれば、いいの」
「美味しくなくちゃ、料理じゃない」と笑顔でテレビに出演していた大波の言葉とは思えないセリフだった。
勝負中の博徒 のような険しい顔で、大波が釘を刺した。
「あとで言った、言わない、と揉める行為はいやだから、言っておくわ。今日から続く料理に関していえば、栄養学上の問題はない。ただ、問題ないは、あくまでも栄養学上の問題。もし、なんらかの健康被害ないしは、肉体的変化が起きても保障はしないし、報酬も求めない。そのつもりでいて」
なんか怪しい薬の治験みたいだ。建物の裏庭を掘ったら人骨でも出現するのでは、と勘ぐりたくなる。
「保証はしない」は、わかる。だが「報酬を求めない」は変な気もする。
しかし、リスクは明らかになった。食べさせられる料理は、普通の料理ではない。体の中でおかしな反応する料理だ。
体を壊せば、八百四十万円では高く付く。けれども、何も起きなければ、割の良い仕事だ。常人にとって、目の前の不味い料理を食べ続ける行為は不可能。だが、天笠には、自信があった。
天笠には生まれながらの特技があった。特技は、感覚の遮断 。天笠は体にとって不快な感覚を遮断できた。時折、漫画の敵役が持っている『痛みを感じない能力』の上位互換版だ。
使用すれば、痛みだけではなく、悪臭、騒音、強烈な光、恐怖心も消せる。味覚を遮断すれば、どんなに不味い料理でも食える。
天笠の身体能力は、見かけによらず高かった。なので、生まれて来た時代が暴力の支配する末法の世なら、悪人として名を残せただろう。
されど、撃たれたら終わりが常の平和な世の中では、あまり役に立たない能力だと、天笠も自覚していた。なので、天笠は今日までは善人街道を歩んでいた。
「わかりました。大波さんの提示条件でいいので、仕事を続けさせてください。見事にやり遂げて見せましょう」
大見得を切って仕事を引き受けたが、天笠は十日後に、食事の最中に急死した。
天笠の年齢は二十歳。細い眉に面長の顔をしていた。体格はいたって普通の中肉中背。着ている服は白衣だが、サマになっていないので、研究者には見えなかった。
有名な料理研究家の大波のスペシャル料理を食べられると聞いたので、天笠は喜んできた。だが、大波専用キッチンに入って、強烈な違和感を持った。
保険会社がスポンサーの、七分間の料理番組でよく見る大波は、小柄な女性だった。髪の色は茶色。短めの髪を二つに分けて結んでいた。顔は丸顔。目は大きく、化粧は、ほとんどしていない。
実際に会った大波は少し違った。顔や体型は問題ではない。問題は格好だ。大波は対毒ガステロ用の防毒マスクを着け、服装は緑色の手術着を着ていた。
感染が拡大する病院でウィルスと戦う医者には見えても、とても料理をする人間の格好ではなかった。もし、医食同源の言葉もあると口にする人間がいたら、素直に詐欺師の称号をあげたい気分だ。
爆弾処理班がするようなミトンを付けた大波が一皿目を持ってきた。なんとも形容しがたい料理だった。見た目からすると、溶け掛かった亀の半身に蜂を詰め込んだような料理だった。
見た目は最悪だが、相手は料理業界では知る人ぞ知る人物の大波。味は最高だった、となるかもしれない。勇気を持って、一口にした。
きつい苦さの中に仄かな甘みがあり、辛味と強い塩加減で食材の味を見事に殺した料理だった。
試食人たるもの、ただ
だが、さすがの天笠も目の前の料理にはアドバイスがなかった。強いて言うなら次の通りになるだろう。
「料理を厚手のビニール袋に入れて、しっかりと口を閉じる。黒のマジックで大きく袋に×印を付け、生ゴミの日に出すべし」
正直で生きていける人生は、学生くらいまでだ。社会に出れば、正直な感想は、必ずしもプラスにならない。天笠は控えめな口調で意見した。
「すいません。大波さん。この料理、何か、根本的に違う気がするんですが。参考にした本が間違ってないでしょうか」
「悪の根源は、あくまで資料。大波ではない」との意を込めた、社会人的な発言だ。
大波がタブレットPCに何か記載しながら短く「問題ないわ」と口にした。
「問題ないわ」ではない。喰えたものではなかった。こんな仕事は、したくない。天笠が席を立ち上がろうとすると、大波が口を開いた。
「完食できたら、グラムにつき、千円を出すわ。試作品第一号は二百gあるから、二十万円になるわね」
グラム単位で料理を量り売りする商売は、普通だ。だが、料理を食べたグラム数だけ報酬が支払われる仕事は、初めてだった。とりあえず、即断は悪と思い留まり、座り直した。考える時間があるなら、考えたほうがよい。
契約期間は二週間あった。二週間×三食だと四十二食。一回の食事が二百gで二十万円なら全て食べきれば、八百四十万円。
天笠の年収は四百万円に行かなかった。たった二週間で年収二年分になる仕事を放り出していいのだろうか。
もう一口、料理を口にしてみる。だが、やはり喰えた味ではなかった。
「大波さん、確認させてください。料理は、完食すれば報酬が支払われる。味に関する評価やアドバイスは、なくてもいいですか」
大波が防毒マスクの奥で瞳を光らせ、クールなビジネス口調で発言した。
「料理に関しては、味の評価は、どうでもいいわ。改良のアドバイスも必要ない。ただ、本当に人間が食べられる料理なのかが判明すれば、いいの」
「美味しくなくちゃ、料理じゃない」と笑顔でテレビに出演していた大波の言葉とは思えないセリフだった。
勝負中の
「あとで言った、言わない、と揉める行為はいやだから、言っておくわ。今日から続く料理に関していえば、栄養学上の問題はない。ただ、問題ないは、あくまでも栄養学上の問題。もし、なんらかの健康被害ないしは、肉体的変化が起きても保障はしないし、報酬も求めない。そのつもりでいて」
なんか怪しい薬の治験みたいだ。建物の裏庭を掘ったら人骨でも出現するのでは、と勘ぐりたくなる。
「保証はしない」は、わかる。だが「報酬を求めない」は変な気もする。
しかし、リスクは明らかになった。食べさせられる料理は、普通の料理ではない。体の中でおかしな反応する料理だ。
体を壊せば、八百四十万円では高く付く。けれども、何も起きなければ、割の良い仕事だ。常人にとって、目の前の不味い料理を食べ続ける行為は不可能。だが、天笠には、自信があった。
天笠には生まれながらの特技があった。特技は、感覚の
使用すれば、痛みだけではなく、悪臭、騒音、強烈な光、恐怖心も消せる。味覚を遮断すれば、どんなに不味い料理でも食える。
天笠の身体能力は、見かけによらず高かった。なので、生まれて来た時代が暴力の支配する末法の世なら、悪人として名を残せただろう。
されど、撃たれたら終わりが常の平和な世の中では、あまり役に立たない能力だと、天笠も自覚していた。なので、天笠は今日までは善人街道を歩んでいた。
「わかりました。大波さんの提示条件でいいので、仕事を続けさせてください。見事にやり遂げて見せましょう」
大見得を切って仕事を引き受けたが、天笠は十日後に、食事の最中に急死した。