第1話 わたしとチェリーの出会い

文字数 2,599文字

 あの子と出会ったのは、わたしが小学生の頃だった。四年生くらいだっただろうか。たまたま連れて行ってもらった百貨店のおもちゃ売り場の一角に、ちょこんと座っていたのが、あの子……チェリーだったのだ。

「わぁ。可愛い!」
 当時のわたしは可愛いものに目がなくて、すぐにチェリーを友達にしたいと思った。でも、その場ではこちらから話しかけたりしなかった。わたしが人前でぬいぐるみに話しかけると、母が恥ずかしい思いをすることを、理解していたためだ。

「カイちゃん。行くよ」
 母は困った顔をしていた。おもちゃ売り場で足を止めて動かなくなったわたしが、あの子が欲しいとねだったからだ。だけど、百貨店で売っている高価なぬいぐるみを買えるほど、特別に裕福な家庭ではなかったので、あのときの母の心情を想像すると何ともいえない切ない気分になる。
 忘れもしない、翌週のことだった。仕事に行く準備をしていた父と朝食を作り終えたばかりの母に、「冷蔵庫を開けてごらん」と言われて、まだちょっと寝ぼけていたわたしは、言われた通りに冷蔵庫の扉を開いた。
 見慣れた食べ物や飲み物の他に、見慣れない小さな袋が入っていた。その袋はオーロラみたいにキラキラしていて、赤いリボンの先端はくるんとカールしていた。きれいに包装されたチョコレートの袋のように見えた。

「これ、なぁに? チョコレート?」
 てっきりチョコレートだと思って、それを手に取ったわたしが両親を見つめると、母は優しく笑ってから首を横に振る。

「カイちゃんに、プレゼント」
 プレゼントと聞いただけでわたしは嬉しくなって、まだ小さかった手でリボンを解いた。中から出てきたのは、真っ白でところどころ薄茶色のぶちのある可愛いネズミのぬいぐるみ。ひと目で、百貨店のおもちゃ売り場で見つけたあの子なのだと気がついた。この子は冷蔵庫に入っていたからか、ちょっとだけ冷たくなっていた。
 母が、わたしの誕生日が近かったのもあって、この子を買おうと父に相談してくれたそうだ。父は比較的、財布の紐が緩い人だったから、すぐにオーケーサインが出たようだった。せっかくプレゼントをするなら、あまり焦らさずに、且つサプライズをするために、前の晩から冷蔵庫に隠していたという。
 すごく、すごく嬉しかった。その日のサプライズのせいで誕生日当日にプレゼントが貰えなくたって、まったく構わなかった。実際、誕生日当日は何も貰わなかったけれど、夕飯には大好きなクリームシチューが出たし、傍らにはその子がいたので何も不満はなかった。
 サプライズでプレゼントを貰った日から、その子にはチェリーという名前をつけて、彼女はわたしの、わたしは彼女の友達になった。まず、ほんのり冷えた体を当時の家にあった電気ストーブで慎重に温めてあげることから始めた。母の真似をして、「お腹が冷えたら大変だよ」なんて言ったりした。彼女の手は可愛いポーズに縫いつけられていて、それがまた大好きになるポイントのひとつだった。

「今日はあの映画にしよう。ね?」
 目が悪くなるからだめだと言われても、こっそりとカーテンを閉めた父の部屋で、何度も何度も繰り返し再生していた大好きな洋画のVHSを観ながら、母に作ってもらったバターがたっぷりかかったポップコーンを片手にオレンジジュースを飲む。映画館さながらだ。もちろん、傍にはチェリーがいた。わたしはチェリーの瞳に、自分が見ているものが映っているのが嬉しくて、よくその瞳を覗き込んでいた。
 チェリーとは他にも、色んなことをして遊んだ。やたらと設定が複雑なおままごと遊びもした。例えば……そう、チェリーは川で拾われてきた子で、でものちに王子さまの弟と結婚するも、次は王子さまに求婚されるとか。当時はメルヘンな設定のつもりだったのかもしれないが、ある程度の大人になってから考えると、ドロドロすぎて怖い。もっとも、どこからかそういう設定を引っ張ってきて適当に遊んでいたに過ぎないのだろうけど。
 そのうち、たくさん持っていたぬいぐるみたちの中で、彼女は一番の親友になっていった。
小学五年生の夏休み、父方の田舎にも連れて行った記憶がある。

「カイちゃんは何の漫画が好き?」
 チェリーと、またしても複雑な設定のひとりおままごとをしているときに、従姉妹のお姉ちゃんたちに質問されて、わたしはちょっとだけ困った。漫画なんて、読んだこともなかったからだ。もっともっと、お姉さんになったら読むものだと、そう思っていた。複雑な設定のままごとで、当時のわたしの頭はキャパオーバーだった。

「カイはチェリーと遊ぶよ」
 正直に答えると、お姉ちゃんたちはクスクス笑っていた。絵本を読んでいると言ったわけじゃないのに、笑われる理由がわからなかったけれど、チェリーとのおままごとの続きがしたかったから、何も言わなかったし何とも思わなかった。
 そのときだったか。近くを通った祖母と目が合った。祖母は、わたしを何とも言えない目で見ていた気がする。そりゃあ、ひとつしか離れていない同じくらいの年齢の従姉妹のお姉ちゃんたちはもうぬいぐるみ遊びなんかしていなかったし、ちゃんとした普通の――そう、人間の友達がいたのだから。ちなみに祖父の方は、当時から少し忘れっぽくて、わたしの年齢すら覚えていないようだったから、そういう目で見られたことはない。記憶違いでなければ、そうだった気がする。
 こんなことを自分で言うと笑われてしまうかもしれないし、我ながら恥ずかしいことだが、わたしは多分、年齢のわりに恐ろしいほど純粋で幼かったのだ。それはもう馬鹿みたいに。クラスメートの男の子にサンタの正体をばらされたときは、「なに言ってるんだろう。サンタクロースはちゃんといるのに」としか思わない程度に、純粋だった。
 学校では、ずっと一人ぼっちだったわけじゃない。一緒に学校へ行くような子はいたし、教室でお喋りをする相手もいた。だけど、なぜかいつも、何かのグループを作らなければならないときには、決まって独りになっていた。寂しいというより、悲しいという気持ちが強かったのを覚えている。どうして、みんなには一番仲のいい子がいるのに、わたしにはいないんだろう、と。だからこそ、わたしはチェリーを一番の親友の立ち位置に置いたのかもしれない。わたしを決して裏切ることのない、ぬいぐるみのチェリーを。
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