ポチが鳴く

文字数 2,673文字

飼い犬のポチが死んだ日の夜。僕も死のうと思った。
死にたいという積極的な気持ちがあるわけじゃない。けれど生きたいとも思えない。
宙ぶらりんな感情を持て余したままに。僕は大学生になっていた。
恥の少ない人生を歩んできた。のらりくらりと気楽な日々を。
何事にも挑戦せず。出来ることだけ選んできた。
誰からも嫌われない。と言って誰に好かれるでもない。
何もない自分に気づいてしまったのだ。ポチが死んだ夜に。
と言うわけで僕はこの遺書をしたためている。明日死ぬことにしたのだ。
思い立ったが吉日と言う。明日の死はきっとうまくいくだろう。
それではまた。さようなら。

失敗した。明日こそは死ななければ。
そういうわけで僕はまた遺書を書いている。決めたとおりにいかないものだ。
今日の失敗について書いておく。僕がただ臆病のために失敗したのではないと示すため。
死ぬなら玉川上水が良い。そう常々思っていた。
かの文豪太宰治が入水自殺したところだ。僕は太宰を読んでいない。
しかし自転車でたどり着いてみて気づいた。どう見ても死ねる深さではない。
彼が死んだ日には大雨で増水していたとか。今は舗装されているとか。
しょうがないので海を目指した。自転車で。
海についた頃には日が暮れかけていた。お尻が痛い。
こんな苦しみも死んでしまえばお終いさ。などと思ってさっそく海に入った。
僕はまっすぐ海の果てを目指して歩いた。足がつかなくなってきたら平泳ぎ。
自転車で疲れ切っていたこともあったろう。徐々に眠気さえ訪れて来た。
ああ、これで死ねる。そう思った直後、首根っこを何かに掴まれた。
そして驚くべきこと。僕はあっという間に浜へと引き戻されてしまった。
不思議なこともあるものだ。波にでも引っ張られたのか。
自転車を捨てた。電車で帰って来た。
明日は別のやり方を考えよう。風邪をひきそうだ。

また失敗した。明日こそは死ななければ。
どうしてこうもうまくいかない。死ぬことはこんなに難しいのか。
入水自殺に失敗したので服毒自殺を考えた。これなら確実に死ねるだろう。
また太宰治にならって睡眠薬自殺を検討した。だがこれはあきらめた。
どうも近頃の睡眠薬では死ねないらしい。他の薬も併せて飲むのだとか。
だから睡眠薬はあきらめた。代わりにドクニンジンを入手した。
どうやってそんなものを手に入れたか? それは秘密だ。
ソクラテスが飲んで死んだことで有名らしい。僕はプラトンを読んでいない。
そのまま食べても死ねるらしい。けれどソクラテスは毒杯をあおったという。
ならば僕もそうしよう。野菜ジュースにして飲むことにした。
僕は台所でそのジュースを飲みほした。りんごと蜂蜜を入れたのは正解だった。
直後に部屋の扉を叩く音がした。何事かと扉を開けると、酔っ払いがそこに立っていた。
気づくと僕は床に転がっていた。お腹が痛んだ。
うすぼけた視界にはゲロまみれの床。フルーティな香りが漂う。
すぐに思い出した。お腹を殴られて僕が全部吐き出したのだ。
服毒自殺は掃除が面倒だ。別の方法を検討しよう。

またまた失敗した。明日こそは死ななければ。
僕は自殺の基本に立ち返ることにした。入水や服毒は僕には向いていない。
日本の死刑制度は何を採用していたか。そう、絞首刑だ。
首つり自殺はもっとも自殺らしい自殺だろう。傍目にも自殺と分かる。
詩人マリーナ・ツヴェターエワは首を吊って死んだ。僕はツヴェターエワを読んでいない。
いったいどれほどの人が深淵に落ちたのか。それゆえに僕は死ぬ。
とは言え首吊りも簡単ではない。ここは一般的なワンルームマンション。
天井に梁が無い。どうやって縄を吊るそうか。
背の高い二つの本棚に注目した。それを二つに並べる。
そしてベランダの物干しざおを引っ掛けた。ここに縄を吊るすのだ。
脚の踏み台が無い。埃をかぶった六法全書数冊で対処した。
学業の歴史とならぬ墓石を踏みしめて。僕は縄を首にかけた。
その墓石を蹴り飛ばすに悔いは無い。首に縄が食い込む。
僕はこうして死ぬのだ。などと思う間も無く物干しざおが転がり始めた。
なすすべもなく。僕は部屋の壁に正面衝突。
頭がくらくらする。なんか鼻血も出て来た。
それでもやはり僕は生きている。またもうまくいかなかった。

もう何度失敗しただろう。明日こそはと何度誓っただろう。
僕は僕の死に繰り返し失敗した。何をどうしてもうまくいかない。
『自殺悲願』でもあるまいし。僕は筒井康隆なんか読みたくない。
『シーシュポスの神話』でもあるまいし。僕はカミュなんか大嫌いだ。
僕は今までずっと、何かをしようとしてこなかった。そこに自分の意思なんかなかった。
それでうまくやってこれた。つつがない人生を送ってこれた。
なのにどうしてだ。ただ死にたいという、それだけのこと。
たったそれだけのことなのに。どうしてこんなにうまくいかないんだ。
どうせ人は死ぬなんて、達観した風な人は言う。そんな言い回しはずるい。
ままならない。ああ、ままならない。
自分で何かを選び、何かを為すことが。こんなにも難しいだなんて。
僕は何もできない。何もできやしない。
結局僕は、いつも通り。ただ流されるままに生きるしかない。
この遺書は誰に宛てたものでもない。ただ僕が僕のために書いた遺書。
そしてその遺書を僕が読む。とてもいたたまれない気持ちだ。
僕は僕に。さようならが言えない。

ふと、左手がぬれたような感触があった。ざらついた感触が懐かしい。
左手を近づけてみる。当たり前だけど、ぬれてはいない。
気のせいだと分かっている。でもその瞬間、分かってしまった。
僕がずっと失敗してきたのはポチのせい。ポチが僕の死を阻んだのだ。
ポチがずっと僕を助けようとしてくれたのだ。僕の意思などおかまいなしに。
海から僕を引き上げた。酔っ払いをけしかけて毒を吐かせた。
縄を吊るした物干しざおを転がして。僕に鼻血を出させた。
思い返せば全て。ポチが僕を死から遠ざけようとした結果なのだ。
何も挑戦しない人生だった。そんな僕が死ぬことに挑戦し、失敗に終わった。
そうだ、僕は失敗したのだ。何度も何度も。
僕は知ってしまった。失敗することの喜びを。
ポチは死んだ。僕はポチに勝てなかった。
どうせ何をやってもうまくいかない。なら、何をやっても構わない。
もし何かうまくいったとしたら。それは死ぬよりも幸運なことなのだから。
さて、どこに行こう。ポチが鳴く。
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