Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=3,013文字

 首都ロンドンを流れるテムズ川。
 その上をまたがるウェストミンスター橋のすぐ傍に、悠然とたたずむ赤煉瓦作りの建物があった。
 この威圧漂う建物こそが、かの有名なスコットランドヤード。
 そして、この建物の二階の隅に、これまた厳めしい名前の一室があった。
 そのドアの上に掲げられた札には、『第二検死課』の文字。
 だが、この厳めしい名前と相反して、部屋の中にはいつものほほんとした空気が流れていた。なぜならこの部屋、検死課とは名ばかりで、遺体が運び込まれたことなどただの一度もなかったから。あるのは壁に備えつけられた簡素な暖炉と整頓された机、後は二脚の椅子ぐらい。
 そして、いまもその椅子には二人の男が腰かけ、穏やかに談笑を交わしていた。
 一人は若い制服警官。もう一人は、この部屋の主・検死医ニコルだった。
「ここは医務室じゃないんですからね」
 愚痴をこぼしながらも、ニコルは慣れた手つきで警官の腕にくるくると包帯を巻いていた。
 こざっぱりとした背広の上に、小奇麗な白衣を身にまとい、眼鏡の奥には優しそうな青い眼。さらりとした短めの金髪がよく似合っている。しかも、それでいて嫌味がない。それゆえニコルを慕う若手警官も多かった。
 そして、いま目の前にいる警官もまた、
「そう固いこと言わないでくださいよ。ニコル先生の治療の方が、医務室より丁寧なんすから」
 このノリのいい軽口が示すとおり、やはりニコル信奉者の一人だった。
 むろんそのことはニコルも重々承知。だからこそそれ以上は愚痴をこぼすにこぼせず、後はせいぜい眼鏡の奥で青い眼を細めるぐらいしかできなくなってしまったのだ。
 ただ、それでも治療の腕は言わずもがなの手馴れたものである。苦笑をしながらではあったが、テキパキと作業を進め、
「はいっ。これで終わりましたよ」
 ものの一分とかからず包帯を結び終えるや、ポンッと警官の肩を叩いていた。
「サンキュー。やっぱ先生の腕前は大したもんっすねぇ。噂どおりっすわ」
 その手際のよさに、若い警官は最大限の賛辞を並べ、さらにはヒューッと感嘆の口笛までも吹き鳴らした。
 なのに直後ニコルの口から漏れ出したのは、
「は、はぁ……」
 なんとも歯切れの悪い曖昧な返事。
 と、これには若い警官も怪訝なものを感じたようで、
「うん? なんかあんま嬉しそうじゃないっすね。どうかしたんすか?」
 小首を傾げながらも、思わず訊ねないではいられなかった。
「いえ、大したことじゃないんですけどね……」
「なんすか。歯にものが挟まったような言い方して。大したことじゃないなら、さくっと言ってみてくださいよ」
「はぁ、でしたらお言葉に甘えさせていただきますが、その噂っていうのがちょっと……」
「ちょっと? なにが気に食わないんすか。署内では、みんな先生のことを褒めてますぜ。ニコル・クロムウェル先生は検死医にしておくにゃ、惜しい先生だ、ってね」
「いえ、褒めていただけるのはけっこうなんですが、あまり噂が広まると、本職の方に支障が出ちゃいますからね」
 だが、その言葉とは裏腹に、当の本人も警官の方も互いに眉を上げ、気づけばいつの間にやら含み笑いすらこぼし合っていた。
 いや、そりゃそうだろう。なんせさっきも言ったとおり、検死の仕事はもっぱら『第一検死課』の方ばかりで、この部屋には遺体の一つも運び込まれたことがないのだ。
 だからこの春、グレーター・ロンドン庁からここスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されて以来、ニコルの仕事らしい仕事と言えば、もっぱら第一検死課の手助けに借り出されるか、もしくは最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後はいまみたいに若手警官が医務室代わりに来るぐらいのもの。おかげでいまやどっちが本業なのか、あやふやになっている具合なのだ。
 もっともこれを笑いのネタにするぐらいだから、ニコル本人もあまり気にしていないようではあるが……。
 ただ、それでもあまり長居しすぎてニコルの仕事を邪魔するのも問題かなと、若手警官はふっと考えたのだろう。よっこらせっと席を立つや、
「ま、みんなにはよく言っておきますよ。ほんじゃま……」
 言って、仕事に戻ろうとドアのノブに手をかけた。
 だが、その時だった。
 バンッ!
 激しい音とともに、廊下側から勢いよくドアが開け放たれたのは。
 これには当然というかなんというか、見事なタイミングで鼻っ面をドアに打ちつけることになった若い警官。あまりの衝撃にただただ呻くばかりだった。
「痛たたた……」
 しかし、腐っても一応は警官である。たしかにひとしきり呻きはしたが、痛みが若干引くやいなやカッと眼を見開き、最悪なタイミングでドアを開いてくれた張本人に勢いよく食ってかかってみせた。
「ったく、いったい誰が──!」
 だが、そこまで言ったところで、続く抗議の言葉は見事なまでの尻切れトンボと化していた。それどころか今度は口調を百八十度入れ替え、
「こ、これは、デイヴィッド警部殿!」
 半ば反射的に直立の姿勢まで取って、ぴしっと敬礼すらしていた。
 ま、それもやむないことだろう。
 なんせドアの前には腕組をした胸板の厚いがたいのいい男、デイヴィッド警部と呼ばれた男が仁王立ちしていたのだから。
 デイヴィッド警部はこの界隈でも名うての荒くれ者で通っており、その異名・火の玉男の恐ろしさはチンピラ連中のみならず、若手警官の間でも有名な話である。ゆえにその当人がいきなり厳めしい顔つきで目の前に立っていたら、そりゃ誰だって度肝を抜かれようというもの。その上、ツンツン髪を隠すかのようにかぶったハット、そのつばの奥からギロリと射るような視線を飛ばされた挙句、
「こんなところで油を売ってんじゃねえっ!」
 これまた雷鳴のような怒鳴り声を撒き散らされれば、彼のような駆け出しの若手警官が、
「失礼しましたぁ!」
 それだけを言い残して、後は一目散に部屋から飛び出すのを、いったい誰が責められようか。いや、誰も責めることなどできやしないだろう。
 そう、だからこそその入れ替わりにデイヴィッド警部がずかずかと部屋に入ってきても、そのぶっきらぼうな足取りがいつも以上にイラだっているように感じられても、
「なにかありましたか?」
 ニコルは少しも咎めだてせず、あえていつもどおりの穏やかな口調で問いかけたのだ。
 すると、この柔らかな物言いに毒気を抜かれてか、はぁ~っと大きく溜め息をついたデイヴィッド警部。力なくうな垂れるや、さっきまでの威勢は何処へやら、
「……聞いてくれるか?」
 今度は一転呟くような弱々しい口調で、ポツリ訊ねてきたではないか。
 むろんこれには話を促したニコルも、こっくりうなずいて応じることしかできなかった。もっとも本音を言えば、長くなりそうですね、などと呟き返したかったのだが、いまは残念ながらそんなことを言える雰囲気じゃなかった。
 だからこそ小ぢんまりした暖炉にやかんをかけつつ、
「はぁ、私でよければ」
 おとなしく承諾の意を伝えるに留めておいたのだ。
 一方、そんな心のうちなど露とも知らないデイヴィッド警部は、はぁ~っと再び憂鬱そうな溜め息をついてから、今朝あったことをゆるゆると語り始めていた。

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