禅語

文字数 677文字

 私が禅語に出逢ったのは、27歳頃だ。当時、茶道を習っていた。茶室の一畳くらい空いたスペースに、一輪挿しと掛け軸がある。その掛け軸に禅語が書いてあるというわけだ。
 茶道の先生に
「この掛け軸はなんと読むのですか?」と聞くと先生は答えてくれる。思い出に残っているのは、花の匂いに触れると、その花の移り香を自分も纏うというものであった。意味は覚えているが、その禅語は忘れた。善い人の(そば)にいると、その善さが自分が移るという意味である。

 私が一番表現したい禅語は「鏡清雨滴声(きょうせいうてきせい)」というものだ。これが非常に難解な訳で、人に見せても分からないと言う。 ここではサラりと略分だけ載せてこう。正直に言うと難解過ぎて合っているのか分からない。僧と住職の掛け合いの話だ。

 鏡声雨滴声
「住職曰く、あれは何の音じゃ。
僧曰く、雨音でございます。
住職曰く、
ふむ、これは雨音というものだ。我が聞くゆえに雨音あり。様々な事柄も同じく。煙草が体に悪いと知りながらも辞めれない。酒が悪いと知っても手を出す。金より人生が大事なのに、金を追い求める。金が大事か、自分の人生が大事か本末転倒しているよ。
 僧曰く、それではご住職はそれらから直ぐに離れられるのですか?
 住職曰く、わしか、わしは直ぐに離れられるぞ。しかし、ここに居る限りこの雨滴の音とは離れられない。この雨滴声は我と一つ。不二である」

 まるで、我が身は天地と一つと住職が悟ったような話だ。まぐわいの話ではない。説法なのかすら分からない。ただ不二として、たたずんでいる。

 我々衆生はオスとメスなので、この住職はセクシャルマイノリティなのか。
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