グリーフケア

文字数 5,678文字

 グリーフケアという言葉がある。

 グリーフとは深い悲しみ、悲嘆、と訳される。看護の世界では、死期の近い人、その家族や近親者もしくは遺族の心のケアをすること。終末期看護を担う看護師にも、必要だとも言われている。

 今まで何人看取ってきただろう。一般的にみるとやはり特殊な環境なのかもしれない。
 時節柄、辛い日々が続く。病と向き合う人ほど家族と気軽に会うことを控えている、そんな禍のなかで、訪問看護をしながらグリーフケアを通して感じたことをよく思い出す。

 ※

 大腸がんの治療後、ご自宅へ戻られたNさん。出会ったとき、すでに末期だった。
 近くに住んでいた次女さんが生まれ育った家へ戻られて同居していたが、日中おひとりになる時間が長いため訪問看護が入ることになった。
 体調確認をしつつも、私は、Nさんの人となりが感じられる思い出話を聞くのが好きだった。

 1階リビング隣の部屋に、ベッドが置かれた8畳ほどの部屋があり、そこに通される。ご先祖様の大きな写真が天井近くの壁にずらりと飾られていて、祖父母やご両親との思い出、ご主人との馴れ初めやこの家を建てたときのこと、子育てにあわせて増築したことなどを、ポツリポツリと写真を見ながらお話ししてくれた。穏やかな空気を纏いながら。

 しばらくしてNさんは体調を崩し、再入院する。
 その後緩和ケア病院へ転院の話があり、もう会うことはないのかも、と思っていた頃に連絡が入った。娘三姉妹が自宅で看取ることを決意したと。「訪問看護、再開できますか?」
 余命は1ヶ月あるかないか。
 終末期は訪問回数も多くなり、Nさん宅はやや遠いほうの地域で、季節は雪が降り始めた頃だった。訪問時間はやりくりできそうだったが、緊急時の対応を考えなければならない。雪の多くなる冬に、すぐ駆け付けるには遠い。近くの訪問看護ステーションへの打診もしたが、知っている人がいいとのNさんの意思を娘さんは尊重した。

 何かあったときにすぐに駆け付けられないかもしれないことを想定して、私たちは娘さんとたくさんの話をした。残るNさんとの時間を、どのように過ごしたいか。
 以前の訪問はNさんおひとりだったが、今回は介護休暇をとり、娘さんたちが交代で在宅していた。なので、このあと起こりうることを伝え、痛みをとりながら穏やかに過ごせるようにどんなケアをしていくのか、どこまでの処置を希望するのか。毎回確認しながら決めていった。その中で私が聞いていた、大切にしていたこの家での思い出を娘さんへ伝え、娘さんからもお話を聞き共有した。そうしながら最期のNさんの想いを掬っていった。

 その日は除雪が追い付かないほどの大雪が降り、道はひどい渋滞だった。なんとかその日の訪問を無事に終えて、さあ帰ろうとタイムカードを押し、同僚と着替えをしているときのこと。更衣室内にオンコール用携帯電話の呼び出し音が響きわたった。

 Nさんの次女さんからだった。
 前日に「あと数日」という話をしたばかり。

「言われていたような呼吸をしている。もう少しなのかもしれない。どうしよう」

 来たるべき時に備えていても、うろたえて当たり前な場面。
 大切な人の最期なのだから。

 前日の様子を思い浮かべ、返事をする。
「長女さんと三女さんを呼んでくださいね。これから伺います」

 どこの道が混んでいないか同僚と相談しつつ、すぐに白衣に着替えなおして車に乗り込む。が、全然動かない。ここまでの大渋滞は珍しい。どうしてこんな日に。先々まで連なる車列と、容赦なく降りしきる雪を見て、ため息が漏れる。
 17:40に連絡を受け、夏なら20分程度。冬道なら倍は想定内。しかし18時を大きくまわっても3割ほどしか進んでいなかった。信号待ちで一度連絡を入れる。こういうこともあり得ると、何度も話してきた。しかし実際に医療従事者がいない中での看取りは不安だろう、と思い、間に合わないかも、と焦りが脳裏を行き来する。

 着いたときは19時をまわっていたが、Nさん頑張っていた。
 長女さんは着いていたけれど、三女さんがまだ着いていない。担当医も渋滞にはまっていると連絡が入っていたから、三女さんもそうかもしれない。

 「Nさん、三女さんがもうすぐ来ますよ。いっつも最後に美味しいところ持っていくんでしたね、お部屋も一番日当たりのいいところでしたね」と声をかける。
 それに合わせるように、長女さんと次女さんも「そうだあのこはね、」と話を始めてくれた。

 Nさんとの話の中で、「最期はこの家で娘の声を聞きながら」と話されていたことを私は事前に娘さんに伝えていた。泣きながらではなくて、普段の話の輪の中で眠るように逝きたいと。

 三女さんが着いて、Nさんに駆け寄る。
「まだ聞こえてますよ」と声をかけると三女さんは「母さん ありがとう」と言った。続いて、長女さんも、そして次女さんも。
 それを確認したように数分後、Nさんは息をひきとった。
 ちゃんと待ってたんだな、と感じた。
 その後も娘さんたちは「ありがとう」と何度も何度も繰り返す。泣きながら。Nさん、もういいよね。泣いてもいいよね。私は心の中でNさんと話していた。

 しばらくして挨拶にいらしてくれた時に「最期、家で一緒にすごせて、良かった」と話された。私や医師が退出してからのあの日の様子や、三姉妹の再開した仕事の様子も話していただけて、晴れやかな表情にホッとする。もちろん私が見ているのはほんの一部分であって、時に悲しみにおそわれることもあるだろうけれど。
 拙い看護でしたが関わらせていただきありがとうございました、と私も頭をさげる。

 正解はない。
 良かったのかも分からないまま先へ進む。
 終末期の看護は、いつも迷いが付きまとう。

 ―最新でも最高でもなく、その人にとって最善の医療を探し続ける―

 同じパターンはない。

 ※

 一方で、Hさん。最後、私がぐだぐだになったとき。
 Hさんは、私が担当となり初回訪問からお邪魔させていただいた。私以外には主任看護師も訪問していた。
 いつも訪問にいくと両手を合わせて私を出迎えてくれる90代のかわいいおばあちゃん。それを見て娘さんが、お坊さんじゃないんだから、と突っ込みを入れるのが毎度お馴染みのパターンだった。

 手を合わせて「ありがとう」と、Hさんは毎回何度も言った。
 彼女は認知症だったので、私の顔を覚えているのは難しい。それでも毎回手を合わせて私と向き合うその姿は、彼女が今までの人生を人に感謝して生きてきた、ということを物語っている気がした。いつもいつも私が癒されていた。

 Hさんは足が悪く、室内で転倒し骨折、入院となった。しかし、環境の変化でせん妄を引き起こし、まったく処置を受け入れず、食事も食べなくなり困っていると相談が入った。
「まだ歩くことはできない。リハビリも進まない。でもこれ以上入院させていたら、おばあちゃんがどんどん違う人になっていく」

 熱心な娘さんだった。一人娘で、自らの娘さんを生後間もない時から長年介護し亡くしている。おばあちゃんはそれを一緒に支えてくれた人なのだ。

 娘さんを自宅で介護していたので、バリアフリーで使い勝手のよい家だったが「娘の時は私も若かったけど、おばあちゃん担ぐにはもう60代の私には厳しい。でも退院させたい」と悩んでいた。
 私は入院先のHさんを看に行き話し合いが行われた。私たちのステーションがある高齢者住宅への入居を提案し、それならばと娘さんは受け入れた。

 入居初日、Hさんは私や主任の顔を見て嬉しそうに両手を合わせた。覚えてくれていた。私も嬉しくなって思わず手を合わせる。そして、ご飯を少しだったが召し上がった。それを見て、娘さんは喜び「表情が全然違う、おばあちゃんが笑ってる!」と安心して帰られた。

 娘さんは毎日昼過ぎにやってきて、午後の数時間を西日の差し込むHさんの部屋で、ゆっくり過ごしていた。
 ばらつきはあったが食べられる日もあり、車いすでデイルームへ出て過ごす時間も増えていく。介護職とも仲良くなり、よくハイタッチをしている姿を見て私も笑顔になったものだ。
 馴染んでくれたことに私は安心していた。でもそれは長くは続かなかった。3週間が過ぎたころHさんは急変し亡くなった。
 まだまだ一緒に過ごせると思っていたのに。

 16時半頃の出来事で、私は外部訪問が終わって時間があったので、帰る前に顔をみようとなんとなくHさんの部屋に行くと何故か主任もいて、調子が悪そうだと言った。娘さんもまだ残っていた。
 そんな中での出来事だった。

 突然のことで私は心臓マッサージもしたし、亡くなったあと取り乱して泣いてしまう。
 終末期では、処置をどこまでするか事前に事細かに決めるのだが、心臓マッサージをするかどうかを含め、何も決めていなかった。とはいえ、病院では痛いことも苦しいことも嫌で拒否していたHさん。蘇生をしている間、痛いことはもうやめて、と言っていたのではないだろうか。ああすれば良かった、こうしておけば良かったと自責の念ばかりが、今も思い浮かぶ。
 あの日、娘さんは涙をみせなかった。

 Hさんは心疾患を含めた他の問題もかかえていて、何度も医師と話し合いをしてはいたものの、私のアセスメント力が足らず明後日の方向を向いていたのではないだろうか。Hさんの想いもくみ取っていず、連れてきておいて、完全に力不足だと愕然とした。

 Hさんがなくなったあと、とても娘さんの事が気になっていた。心の準備をする間もなく喪失感を抱えてしまっただろうと。
 その時のステーションは、点数のつかない遺族へのグリーフケア訪問は行っていなかった。(厚生労働省には是非検討してほしい)

 娘さんが何度か挨拶に来ていたようだが、私が外部訪問に出ている時間と重なり、お会いできないまま何日も過ぎていった。感謝していたよと伝言をもらってもしっくりこず、挨拶だし、まあそう言うよね、と素直に受け止められずにいた。

 私と主任はずっと娘さんのことが頭から離れず、数か月後に仕事の合間にHさんの家を訪ねている。
 お参りをして娘さんの近況を聞くだけの短い時間だったけれど、少しホッとした。娘さんは、大学の講座に通いはじめていた。きちんと前を向いていた。私よりもずっときちんと。ただ「ひとりでやることないからさ」と言っていたのが気にかかった。
 私たちの訪問を喜んでくれ「最期をあそこで過ごせて良かったよ」と話してくれたけれど、その姿を見てもなんとなく私はやるせない思いが消えなかった。

 Hさんの一周忌の頃、私と主任は職場を変えていた。だからもう仕事ではない。
 とても迷ったが、二人で出した結論は、顔を出そう。ということだった。

 一周忌を覚えていてくれてありがとう、と娘さんは笑った。それだけで どんなに嬉しいか、と。
 私は申し訳ない気持ちで覚えていただけなのに。でも申し訳ないと思うことは、大切に生きたHさんと娘さんに失礼なのかもしれない、とそのとき感じた。

 時間を作って行ったので、ゆっくり話をすることができた。娘さんの言葉ひとつひとつが、私の胸に沁みて広がっていく。昨日のことのように、手を合わせて笑うHさんの顔が思い浮かんだ。
 「あの3週間はおばあちゃんすごく穏やかでいい顔をしていたでしょ。初日の様子を見て、これで良かった、もう私 悔いがないと思ったの。いつでも大丈夫って」

 そうだったんですね。

 「入院中、おばあちゃんがおばあちゃんじゃなくなって、本当に困っていたところを、住宅に連れて行きたいと言ってくれたこと、今でもすごく感謝している。あんなにニコニコしながらの最期を過ごせて、おばあちゃん幸せだったよ」

 そう話してくれた。
 その言葉に心の重荷が少し軽くなった。

 「2人とも忙しいなか用もないのにいつも顔を出してくれて。おばあちゃんと、ここはいいねーって毎日話してたの。
 あの日も珍しく私も残っていて、2人偶然同じ時間に見にきてくれて、みんな揃ったって笑ったよね。
 おばあちゃん今だって思ったのかもよ。2人に見守られて逝きたかったんだと思う。2人には酷だったかもしれないけど」

 そう言って笑った顔が、Hさんに重なる。
 また泣きそうだった。
 ああ、私。私自身にグリーフケアが必要だったんだ、とその時痛感した。
 数えきれない人数を看取っていても、私たちも傷つくことがある。無念なこともある。
 それは家族とは比にならないけれども。

 私にとって 予期悲嘆のグリーフケアが対極にあるケースだと思っていたけれど、違った。
 娘さんは、ちゃんと「最期の時間」と受け入れて、毎日午後の数時間を、ゆっくり大切にHさんと刻んでいたのだ。
 私は娘さんと同じ方向を向いていなかったのかもしれない。
 何の役にも立たなくて、逆に励まされ救われてしまった。私は何をしていたのだろう。

 ―最新でもなく最高でもなく、その人にとっての最善の医療とは―

 終末期医療は、何年やっても途方に暮れることがある。そうして闇に心が沈みそうになる。支えたいと願いながら支えられている。もしかしたら、それでもいいのかもしれない。いけないのかもしれない。
 
 ただ、故人が残していった心と縁を想う。
  重ねた日々の意味を想う。

 決して同じパターンはない。それでも。
 生前どのように時間を重ねたかの記憶によって、悲嘆の回復にも妨げにもなるのだということを感じた出来事だった。
 
 ※

 この1年、入院されている方には外出面会禁止での闘病生活を強いている。私自身も、がんを患う父とは電話でのやりとりのみ。会えないご家族の気持ちも泣きたくなるほど理解できる。そんな中で消えていく命が確かにある。
 グリーフケアが難しいと感じる現状の中で、命あるものとして何が出来るだろう。そんな葛藤を繰り返している。どんな禍のなかに放り出されたとしても、命を重ねる日々は続く。ただ大切に、大切に向き合っていくだけ。ひたすら摸索をしながら。




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