第9話:米国映画業界を調査しろ

文字数 3,246文字

 あんた成宮時達・おじいさんに見込まれてるから明日にでも電話しておじいさんに200万円借りて、送金するように連絡しなさいと言った。はい了解しましたと、おどけて言うと図々しい弟の面倒見るのは大変だわと大笑いした。この年、姉の成宮照子のアメリカ全土を何日もかけての出張に同行した。

 南はマイアミ、ヒューストン、西はロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、サンディエゴ、ラスベガス、ダラス、ワシントン、シカゴ、ボストン、デトロイト、トロントと出張の毎日だった。そして営業報告を書かされて忙しい毎日で1981年となった。その後、姉の成宮照子が1981年3月にアップル株を1万ドル分で、1株0.4ドルで2万5千株買ったと連絡があり、すぐ1万ドル分として2百万円をおじいさんから入金があったと知らせてくれた。

 笑いながら成宮照子は、実は、私たち夫婦も、あなたと同じ分だけのアップル株を買ったのよと笑いながら言った。その後1981年7月に成宮賢は日本に戻りソニー製のデジタル・グループに入り主にハードエンジニアとして活躍。そして1982年にソニー初の8ビットパソコン・SMC-70を新発売。そのパソコンの特長はフロッピーディスクを装着しテンキーを外付けにしコンパクトにした点だ。

翌年1984年、キーボード一体型のビギナー向けパソコン。ソニー独自のBASICで作動する8種類のソフトを標準で同梱したSMC-77続いてMSX規格のパソコンがブレイクする先駆けとなったモデル。家庭用のテレビと接続でき価格も5万円台。愛称は「HITBIT」のHB-55も発売した。

 そして1985年10月30日、成宮賢は日本に戻り、コンピューター・アニメーションの時代が近い将来、きっと来ると報告書に書いた。すると父が、この話を芸術畑出身の当時の社長・大賀典雄の部屋に成宮賢を連れて行き話すと大賀社長がソニーもアメリカの映画業界に興味を持っていると話し社長の直属のプロジェクトチームに入れと言われ了解した。

 そして成宮賢は正式にソニー・アメリカに所属となり姉の成宮照子と同じフロアーで仕事を開始。まず米国の映画会社の状況分析のレポートを書いて送る仕事が主な任務になった。1つ目は、パラマウント、この会社は1912年に伝説的敏腕経営者アドルフ・ズーカーにより
「フェーマス・プレーヤーズ」として発足し、1927年に「パラマウント」と改称した。

 早期にスタジオシステムを確立し1920年代に始まった映画黄金時代には最大手として君臨。現在に至るまでメジャー映画会社として歴史を歩む名門中の名門。2つ目はワーナー。ブラザースここは1923年、ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟によって
設立された。「名犬リンチンチン」シリーズの大ヒットにより成長し、ヴァイタグラフの買収、ファースト・ナショナルとの合併などで映画黄金時代のビッグ5に名を連ねる存在となった。

 以来、大手映画会社として歴史を歩む。3つ目は20世紀フォックス、ここは1934年、フォックス・フィルムと20世紀映画が合併し20世紀フォックス映画として設立された。映画黄金時代だった設立当初よりビッグ5の一角を担い、大手映画会社としての歴史を歩む。1962年の超大作「クレオパトラ」で巨額の赤字を出し倒産の危機に陥るも、その後「サウンド・オブ・ミュージック」の歴史的大ヒットにより経営を建て直したというエピソードを残している。

 4つ目はユニバーサル、1912年、実業家カール・レムリが、自ら起業した映画会社IMP社と他の8つの中小映画会社を合併させ、
「ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー」として設立。1931年の「魔人ドラキュラ」などホラー映画で大成功を収め、ドラキュラ、フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間、狼男といった主要なモンスターキャラクターの著作権を所持している。

 5つ目はコロンビア、1920年、ユニヴァーサル社の社員だったジョー・ブラントとハリー・コーンの兄弟が「CBCフィルム・セールス・コーポレーション」の名で設立し、1924年に社名を「コロンビア」と変更した。発足当初は低予算映画を請け負う小さな映画制作社であったが、後にアカデミー監督賞を三度受賞した映画監督フランク・キャプラの才能を見い出し専属契約したことにより成功し、制作規模を拡大させた。

6つ目はウォルト・ディズニー、1923年、アニメーターであったウォルト・ディズニーと、その兄のロイ・O・ディズニーにより「ディズニー・ブラザーズ社」として設立された。創業以来多くの傑作アニメ映画を生み出しアニメ界の巨人として君臨する一方でディズニーランドの運営など多角経営化でも成功を収め、現在ではテレビネットワークABCなど様々なメディアを傘下に収める巨大企業へと成長を遂げた。アメリカで映画業界のビッグ6として君臨している。

 この中でウォルト・ディズニーを抜いた5社の企業レポートを詳しく報告する様に指示され、最初、その会社の本社へ行き広報に今後の方向性などを聞いて報告した。更にロサンゼルスへ行き映画関係者に、その映画会社の評価と今、伸びてるのか、落ちているのか、ゴシップはないか、大きな赤字を出していか、映画関係者の評判はどうかなどを克明に書いてソニー本社に送り続けてた。

そんな時、以前、ジョブズから聞いたピクサー・アニメーション・スタジオのオーナーのジョージ・ルーカスが離婚し離婚慰謝料の支払で苦慮しているというゴシップを聞きつけた。そして、以前聞いたジョブスが映画、アニメに興味を持っていると言う話を思い出した。そんな時、ジョブズが、アップルの設立時からの仲間と意見が対立して退職するという話が出た。

 成宮賢が、ジョブズが、あんなに愛していたアップルを追い出されると聞いて可哀想だと思った。そして1985年が去り1986年を迎えた。その後、今度は成宮賢にコンピューターアニメーションの勉強してくる様に会社から言われ1985年に再びアメリカに渡りジョブズに再会した。久しぶりと挨拶し今回、面白いものを見せると言われた。

 それはルーカス・フィルムから独立したコンピュータ・アニメーション部門が1984年に作った、短編作品『アンドレとウォーリーB.の冒険』。どうだ、すごいだろうとコンピュターは、ここまで進歩したんだぞと、誇らしげに語った。そして、これは、内緒だが、
「僕は、何とかして、この会社・ピクサーを買収したいんだ」と耳打ちした。しかし、
「これは絶対に秘密にしろ」と言われ、了解した。

 一方のソニーは成宮賢のアメリカ映画大手6社の調査資料を検討して数回の会議を重ね1989年9月27日に米国のコロンビア映画を買収した。当時はバブル経済真っ盛り。ジャパンマネーによる名門企業の買収に、米国内で反発もあった。コロンビア映画は1920年設立。草創期から米国の映画文化を支えてきた。

 『アラビアのロレンス』『未知との遭遇』『スタンド・バイ・ミー』など映画史に残る大ヒット作は数えきれない。そんなコロンビア映画を買収したのがソニーで当時は日本経済が世界的に類を見なかったほどの好景気に沸き、絶好調の日本企業が金にモノを言わせて文化まで買い漁ったとして米国で強い反発があった。

 1989年10月に日本に戻った成宮賢は34歳で課長に昇進し今後はソニーピクチャーズで働いてほしいと言われたが自分はデジタル機器の将来に興味を持っているのでソニー本体で仕事を続けたいという事でソニーの営業課長となった。買収後はヒット作に恵まれず赤字に転落した時期もあったがソニーは地道に映画作りを支援し1990年代には復活を遂げた。コロンビア映画は現在もソニーグループの一員として、米国の映画大手の地位を占めている。
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