第1話

文字数 1,053文字

「ただいま~、クロちゃん。大人しくしてた?」

 玄関から部屋の奥に声をかけると、にゃ~んと遠慮がちな声が聞こえ、小さな黒い頭がドアにはめ込まれたガラス越しに見えた。
 靴を脱ぎ、ドアを開けて部屋の中を見回すが、特に荒らされた様子はない。猫用トイレに用を足した後はあるが、倒れたものやひっかき傷はない。室内はいたって綺麗なものだ。

「いい子にしてたねぇ~。よしよし。今ご飯あげるね」

「にゅぅ~ん」と足元にまとわりついてくるクロに声をかけ、足もとに温かく柔らかい感触を感じながら、キャットフードを皿にあける。クロと一緒に博人から預かったものだ。
 皿を床に置くと、私の足から皿へと興味を移したクロは、セミドライのキャットフードをカリカリと小気味よい音を立てて食べる。綺麗に食べ終わった後は、部屋の隅に置いてある猫用座布団の上に丸くなった。

「おーい、遊ばなくていいのかい?」

 声をかけてみるも、眠くなってしまったようで、もう反応を示さない。まぁ、昔からこういうツンデレな子だったな。私はクロのまるっとした背中に向かって呟いた。

「どうなっちゃうのかねぇ……」

 クロは、黒い長毛種の雌猫だ。元カレの博人から二日間だけ預かっている。

 博人とは、別れた後も友達としていい関係を続けてきた。ちょっと流されやすくて頼りないけれど、基本的にはおおらかで気のいい奴で、恋人としてはアレだったが友人としては普通に仲良く付き合っていける。そう思っていたから「クロを預かってほしい」と言われた時も、二つ返事で引き受けたのだ。
 付き合っていた時、何度か彼の家にも行ったことがあり、クロと気があう感じがすると言っていたのを彼は覚えていたのだろう――そう考えて、頼まれたことをむしろ嬉しくさえ思った。実際、私も大人しい性質で美しい毛並みを持つクロのことが好きだから。
 だからこそ、数日とはいえ、ペット禁止のアパートで猫を飼うというリスクを負ったのだ。

 が、博人から預ける理由を聞いたときは、さすがに呆れた。
「猫アレルギーの彼女を家に呼ぶため」ってどういうこと? 彼女とこのまま付き合ったら、この子をどうするつもりなの?

「ねぇ、クロちゃん。あなたの飼い主、ちょっと無責任でヤバいよね」

 声をかけてみたが、クロは何も言わず丸くなったままだ。
 私は、自分のご飯として買ってきたコンビニ弁当をテーブルの上に広げながら「別れてよかったわ……」と小さく呟いた。
 そのときクロの耳がぴくりと動いたように見えたが、私は気のせいだと思った。その時は。

(次話へ続く)
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み