書評:厭な小説 京極夏彦・著(祥伝社NON NOVEL)

文字数 2,849文字

NONEL DAYS 書評コンテスト【京極夏彦作品 参加作品】

……買わなければよかった……

 いやな話があるんだけど。聞いてくれませんか?
 私だけっていうのもフェアじゃないから、あなたの身の回りでおきた、いやな話も聞かせてください。一緒に考察してみましょう。
 一緒に、こんないやなことがあったんだ。という話で盛り上がりたいのです。
 いろんな人の意見が聞きたいから5~6人集まればいいかなと。
 このさい、知った人でも初対面でもいいんです。どうして、そのことがいやだと思ってしまうのか。根本的原因はなんなのか。どうすれば解決できるのか。
 話を持ち寄って、考えて、解決法を見出す集まりがしたいんです。
 え、場所ですか? 新宿でいいですか。西口……東がいいですか。え、南? わかりましたなんとかします。和・洋・中どれにしましょう?

 はい、こんなこと言っている時点でこの人たちの話はいやな話かもしれませんが、「厭だ」という話ではないことが証明されました。
 今日も平和です。いやなことをわかってもらうために集まり、話してスッキリして、共有してもらう。
 わかるわ~・それ自分にもあった・それはあなたは悪くないよ・いるいるそういうやつ。
 じゃあ、どうしようか。
 同意の言葉とアドバイスは当人が納得するまで続き、気持ちは軽くなり、魂は救われる。
 それが、本来のいやな出来事の辿る道。
 でも、本書の「厭だ」はちがう。

……後悔するなら途中で読むのやめればよかったのに……

 いや、嫌よ、イヤッ、いや~ん。
 なにかを拒絶する際に使うIYAも、どれを選択するかで意味合いがだいぶ変わってくる。
 架空の世界でヒロインが「イヤーーーッ!」というの、使われること多いですよね。ヒロインは死んでしまうのか、主人公が駆けつけるかの2択で次回に続きます。
「イヤーーーッ!」に至るまでには、そこに至るまでの道筋があり、どこかに解決の光が残されています。読んでいるほうも安心してハラハラできるというもの。
 しかし、京極氏は「厭だ」を選択してしまった。
 数あるIYAのなかで「厭だ」をキングオブIYAとして君臨させた。
 作中に「厭だ」を王様のパレードのごとく乱用してくる「厭」っぷり。
 繰り返して「厭だ厭だ厭だ厭だ」と書くのも視界に入る。
 連打すればイコール強調と思っていないか? 
 物書きとして表現のなんたるかを問われそうですが、それ以前に話の内容が出だしから最後の行まで胸糞が悪くなるほど「厭」なので、そんなチンケなこと考える隙間など生まれやしない。
 京極氏の「厭だ」にはいらぬ生命が宿っているから連打も問題がないわけです。胸をさすりたくなるほどの「厭」なエピソードが続きますからみなさん安心してください。京極夏彦の「厭だ」連打は決してチンケではありません。

……何故に読むのを止めることができない……

 説明できない、理由わからない、解決できない「厭だ」の羅列のなかで、最も刺激されるのが嗅覚です。
 本気で本書を読もうと思うなら、そばにエチケット袋を置いておいたほうがいい。
 お香や消臭剤のほうが良いのでは? どうだろう、ないよりはいいと思うが、この厭な臭いは視覚(表現力半端ない文章)から入り込んで脳髄突き上げて鼻腔に落ちてくる仕組みなので、同じ金出すならエチケット袋のほうが経済的だと思う。

……これ、書いているほうも厭にならないのか……

 読んでいるほうが「おえっぷ、うえっぷ」しながらも、バッドトリップの虜に成り下がり、ページをめくってしまうほどの「厭」な話。
 京極氏本人はどうだったのか?
 本作を書いている最中、自分のお見事すぎる文才にエチケット袋をそばに置いていたとか、トイレのそばで執筆していたとか。そういう逸話があるんじゃないのか。
 京極氏にたいしてそんな疑惑をSNSで言おうものなら「京極先生ともあろうお方が自分の書いたものに酔うわけなかろう」と非難されるだろうか。
 それなら、京極氏は本作執筆中、自宅で生のマグロをほうばり、豆ご飯をかっこんで「今夜も飯がうまい! 妻はなんでもできる! 子供は可愛い! ご先祖様ありがとう! 自宅サイコー!」と上機嫌でいられたのだろうか。それも問うてはいけないのか。
「創作と現実のスイッチを切り替えられないで、なにがプロ作家だ。京極先生はなんでもおいしく召し上がるわ!」とSNSが炎上するか。
 わかった。悪かった。京極氏は「厭な小説」を執筆中、上機嫌であったに違いない。小指をなにかの角にぶつけても笑いながら「イタタタ」とぴょんぴょん跳ねるほどに。

……術中にはまる……

 とはいえ、京極氏も人間だから、「厭な小説」を書いていて、精神の休憩が欲しくなったりしたのではなかろうか。
「厭だ」の花火大会である本作中。2度ほど声に出して「ブッ!」と吹いてしまった箇所がある。高級玉露を口に含んでいなくてよかったと思うほどに。
 あの箇所は当初から予定されていたのだろうか。京極氏はちょっと巫山戯て(漢字で書けば許される気にもなる)みたくなったのではなかろうか。でないと精神がもたないから。
 意味がわからない、説明できない、わかってもらえない、本人もわからない、読んでいるほうもわからない。そんな「厭だ」のオンパレードに神経を蝕まれていく。なのに、途中でやめることができず、最後までページをめくらずにはいられない。
 この小説には恐怖と緊張感と異臭しかない。このままそういう展開で終わっていくのだ。と思わせておいて不意討ちのギャグが挿入されている。
「そこなのかよ!」とツッコミをいれてしまったところもある。
 いや、ひょっとすると京極氏はいたって真面目に書いており、笑ってはいけない場面なのかもしれない。が、実際声に出してまで「ブッ!」と言ってしまった。それだけはまぎれもない真実なのである。
 その箇所がどこなのかは、感じ方に個人差もあるだろうからあえて伏せさせていただく。

……「厭だ」が計算しつくされている……

 ところでこの本。話の内容もさることながら。装幀から、目次から、章タイトルの位置から、改行位置から、各章導入から、最後のページに至る終わり方まで。 
 読み手の五感に「厭だ」を植え付けてやろうという職人技が黴臭さを放つ勢いでそれはもううんざりするような完璧さなので、ほんとうにいちいち目につくところが厭になる小説だ。
 本屋でこの本を見つけてしまい、手にしてしまったときから、永遠に続く「厭だ」が始まっていたことを知らされるラストは絶望しかない。
 地べたを這って「うわーん、こんな厭な話読まなきゃよかった。なんで買っちゃったんだよう」と後悔している凡人の脇を素知らぬ顔で通り抜けて、京極氏はほくそ笑んでいるのである。

 あぁ、なんて。
 なんて、なんて。
「厭な小説」だ。
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