傷痍軍人手帳

文字数 2,059文字

 車で尾形のアパートに辿(たど)り着いた時は驚きました。本当に(ひど)いアパートで、幽霊でも住んでいるのではないかと心配したくらい、廃屋寸前の(さび)れた住まいだったのです。

 尾形が住んでいると思われる部屋の前まで行き、ドアをノックしたのですが、予想通り誰も出てくる気配がありません。近隣にも人が住んでいる様子はありませんでした。
 とにかく不便な場所にアパートはありました。主要な駅から車で一時間三十分ほど掛かり、しかも近所に買い物ができるような施設も存在しません。ガスや電気が通っているのかも怪しいため、人間と関わりたくない世捨て人が選ぶような住居でした。
 数時間、アパートの周囲を歩き回りましたが、何の収穫もありません。期待した手掛りもなく、また振り出しに戻ってしまったと私は肩を落としました。
 このまま帰るのも(しゃく)(さわ)り、私はアパートのドアを何度も激しくノックしたり蹴飛ばしたりしました。もうどうにでもなれという心境ですよ。

 ――すると、ドアが自然にスーっと開いたのです。

 私は鍵が掛かっていない事に気が付き、ドアの隙間(すきま)から玄関を覗いてみました。ここまで来たのだから泥棒と思われても構うものかと、その時は腹を(くく)って部屋の中に足を踏み入れたのです。

 アパートの外観も酷いものでしたが、部屋の中は更に悲惨な光景が広がっていました。台所の流しには食器や腐った生ゴミなどが散乱し、(うじ)やゴキブリが我が物顔でそれらに寄生していました。床には乾燥した吐瀉物(としゃぶつ)がこびり付き、足元には様々な(むし)が這いずり回る有様です。部屋の奥には腐乱(ふらん)した鼠の死体までありました。もう目茶苦茶です。鼻が曲がるほどの悪臭というのは、ああいう状況の事を言うのだと思います。

 また、畳の敷かれている奥の部屋から強烈な臭いがしました。悪臭は押入れの中から漂ってくる事に気が付き、止せばいいのに閉じていた押入れの戸を恐る恐る開けてみたのです。
 戸を開ける前に「人間の死体があるのではないか?」と嫌な想像もしましたよ……もし腐乱した死体が出てきたら、即座にアパートから出て逃げるつもりだったのです。

 ――しかしながら、押入れの中に仕舞ってあったのは大量の小瓶。それも得体の知れない液体で満たされたものが山積(さんせき)していました。

 小瓶を外側から観察すると、薄緑(うすみどり)に少しだけ茶色掛かった(にご)りの激しい液体が見えたのです。私はホルマリンのような強い殺菌作用のある液体を思い浮かべたのですが、そんな事を確認する余裕などないくらい、強烈な悪臭は小瓶から(だだよ)っていました。

 手前に積まれている瓶を手に取って調べましたが、中央にブヨブヨとした表面の溶けた固形物が浮いていました。その時は何が(ひた)されているのか全く分かりません。私は吐きそうになるのを(こら)えながら、他の瓶も手に取って何が浮いているのかを調べてみました。

 小瓶を何本か調べている内に、はっきりと分かるものが浮いていました。思わず「あっ」と叫びましたよ、何せ人間の鼻だけが中央に浮いていましたから。目を凝らして良く見ると、鼻の表面には無数の小さな蟲まで付着している。私は奥に積んである瓶も確認しましたが、今度は目玉、それに何本かの指まで浮いているものが見つかったのです。

 ――何を目的にこんなものを集めているのかと、私は想像するだけで背中に寒いものが走りました。ここにいたら危険であると直感的に悟り、私は瓶を元の場所に戻して帰ろうとしました。

 慌てていたのですね……そっと押入れの戸を閉めれば良いのに、力を込めて乱暴に閉めてしまいました。案の定、幾つかの小瓶が割れる音を聞いたのです。
 私はもういい、このまま逃げてしまえと小走りに玄関へ向かいました。液体が服にでも付着したら大変なので、その時は面倒な事を避けたいと願うばかりでしたね。

 玄関から外に出る直前、立派なコートが壁のフックに掛けられている事に気が付きました。この家で唯一、生活の匂いがする品に見えたので、私はコートのポケットに手を入れてみました。すると一冊の手帳が出てきたのです。

 それは、古い『傷痍軍人手帳(しょういぐんじんてちょう)』でした。

 ――太平洋戦争時代の代物です。何故こんなものがあるのか首を(かし)げましたが、このまま手ぶらで帰るのも嫌だったので、思い切って盗んでしまいました。どんな小さな手掛かりでも、喉から手が出るくらい欲しかったのです。

 私は泊まっていたホテルに帰ると、手に入れた手帳を隅々(すみずみ)まで読んでみました。確認したかったのは手帳に書いてある内容ではなく、持ち主が誰であるかという事です。そして、手帳の持ち主は「尾形尚行」で間違いありませんでした。

 傷痍軍人手帳を携帯する意味で、戦争時に従軍経験がある人物だと推測できます。尾形という男は、軽く見積もっても90歳を超える年齢だと思われました。

 また名前だけではなく、実家の住所まで記載されていたので、私は早速メモを取りました。実家は兵庫県内にある農村らしく、私は次の日、その場所へ行く事を決意しました。

 農村へ向かったのが大きな過ちだったとは知らずに……。
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