頭狂ファナティックス

埜切秋姫①

エピソードの総文字数=3,610文字

 終業式まであと二日に迫ると、学園は長期休暇に入る期待よりも、実家に帰省する生徒たちの荷造りの慌ただしさの方が勝った。旅行鞄の中に一週間分ほどの衣服を詰め込まなくてはならなかったし、不足している日常品を買い集めるために学園の中を、ときには学園の外まで足を伸ばして走り回らなくてはならなかった。ところが銀太や紅月は冬休みをすでに前借りしているかのように、午前中だけで切り上げられる授業が終わると(それも勉学のための授業ではなく、中間試験の解答用紙の返却や今学期の後始末ばかりだった)、ベッドに潜り込んで寝転び時間を潰した。結局、大室姉弟は実家に帰らず、学園で年を越すことに決めた。銀太が今年は帰郷するつもりがないと話を持ち掛けたとき、綴はもっと頑固に反対するかと思っていたが、意外なことに二言三言交わしただけで了承した。その聞き分けの良さは、綴の親友である埜切秋姫が関わっていた。秋姫も今年は実家に帰るつもりはないと話しており、綴は銀太と紅月に秋姫も加えた四人で年を越すことに決めた。綴が大晦日に部屋へ招く約束をすると秋姫は絡まった糸をほぐすようにゆるゆると笑って喜んだ。
 ところでこの日も秋姫は紅月と綴の部屋を訪ねる予定であり、表向きは大晦日の食事や掃除の段取りを決めることになっていたが、その実は四人で遊ぶため、ことに銀太に会うためだった。制服から私服に着替えて、昼食を取ったあと、銀太は姉の部屋を訪ねた。そして藤椅子に座ると秋姫に会えることを考えて、落ち着かなくなり指を絡ませながら弄りまわし、足で絨毯の上に何度も矩形を描いた。目線は何度も本棚に並んでいる書物の題名を追っていたが、それらはまったく頭に入ってこず、読了した本でも内容を思い出すこともなかった。銀太の視線は部屋に入ったときから、好奇心と期待の混じった顔を向けてくる紅月と綴には合わなかった。秋姫が訪ねてくるのを待っているあいだの壁に打たれた一本の釘にぶら下がっている手持無沙汰な時間、三人は会話を交わそうとしなかったが、ようやく紅月はいやらしい微笑を浮かべながら銀太に話しかけた。
さっきからそわそわしてどうしたぁ? 秋姫先輩に会うのがそんなに楽しみかぁ? 中間試験の期間はまったく会えなかったもんなぁ?
この気持ちをなんていうんだろう? 紅月は知らないだろうな。会えない時間が長ければ長いほど、白い霧のように儚い絆でも、強く感じてしまうんだ。この気持ちを僕の代わりに語ってくれた、今は亡き詩人を知らないか?
お前は乙女か!
 熱に浮かされた銀太から思わぬ抒情的な意見が返ってきたために、紅月は心ともなく声を荒げた。からかうつもりで話しかけたが、相方が予想よりも感傷的な気分に浸っていたために紅月は惚気に塗れた話を始められるのを避けるために、放っておくことにした。
 無言の時間が再び続くと、ようやくドアがノックされた。銀太のものとは違う、明らかにこの部屋に入ってくるのに慣れていないことを感じさせる、謙虚で秘めやかなものだった。綴が返事をすると、音もなく滑らかにドアが開いた。やはり秋姫だった。
こんにちは……。お邪魔します……。
こんにちは。こちらにどうぞ。
秋姫先輩、お久しぶりっす。
秋姫ちゃ~ん! 今日も可愛いなあ!
 秋姫がおずおずと尻込みするように入ってきて、銀太の勧めた藤椅子に座る前に、綴はベッドから飛び上がって親友に抱きついた。紅月よりも背の低い秋姫は顔が綴の胸に埋まり、何か声を上げているがくぐもって聞き取れず、抱擁を拒絶するもがき、しかし本当に絡みついてくる腕を振りほどく気はない優しい拒絶で身を揺すった。秋姫は小柄で、手足は陶磁器の白さと脆さを持っており、実年齢よりも幼く見え、髪は短く切り揃えられていたが腰の力が弱く、張りもなかったために一本一本の毛が細く捩れていた。癖の強い髪はヨモギの群生のようだった。本人の肌にも負けないほど白いブラウスの胸元はフリルで飾られていたが、秋姫は軽度の漏斗胸であり、それを隠すためだった。サスペンダーのついた黒いキュロットスカートを履いており、なで肩のために五分に一度はサスペンダーの位置を直さなければならなかった。
本当に秋姫ちゃんの髪の毛はすべすべして柔らかいな~! 猫の毛みたい。
 綴が無遠慮に髪を触ったために、蓬髪はすぐに整えた型から崩れていき、秋姫は他の人に助けを求めるために、何とか左に首を捻って、目尻が下がり気味の両目を潤ませた。
はいはい、お姉ちゃん。秋姫さんが困っているから、離してあげなさい。
 先ほどから立ち上がっている銀太が秋姫の左手を掴んで優しく引っ張ると、綴は抵抗もせずに親友の身体を離して、秋姫は引っ張られるままに、羽毛の軽さで二三歩、足踏みをした。身体が自由になってからも秋姫は握った手を離そうとせず、銀太も手を胸の高さに上げたまま動きを止めていたために、二人は無言で見つめ合う形になった。秋姫は自分の高鳴っていく心臓の鼓動が繋がっている手を経由して相手に伝わるかと思い、面映ゆさに顔が赤くなったり青くなったりして、ますます目を潤ませたが、銀太の方も自分の鼓動を聞き取るばかりに気を取られていて、もう一つの動悸や呼吸の混ざった複雑な生の鼓動を感じ取る余裕はなかった。この場にいる人間が本当に二人だけだったら、手の繋がれたこの数秒を永遠の時間に取り違えただろうが、紅月が横槍を入れたために愛の無限性は崩れた。
おいおい、お二人さん、俺と綴ねえもいるんすよ? 二人っきりになりたいときは、ちゃんとそう言ってくれれば、お望みに答えますからね。
あ……ごめんなさい……。慎みがないところを見せてしまいました……。
 秋姫は銀太の手が突然氷になったかのように驚きながら手を離すと、紅月に向かって頭を下げた。
もう、紅月ちゃんったら邪魔しちゃ駄目よ。
そうは言っても、目の前でこうもいちゃいちゃされるとな。綴ねえも弟を取られたみたいで面白くないだろ。
そんなことないけどな。お姉ちゃんは銀太くんと秋姫ちゃんが仲良くしていると嬉しいよ?
 秋姫は恥ずかしさから顔を俯けたまま勧められた藤椅子に座り、銀太はその隣の椅子に座った。紅月と綴はそれぞれのベッドの縁に腰かけた。
 銀太と秋姫はもちろん、あいだに綴を挟んで、その弟、その親友という立場以上の関係であったが、友人とも恋仲とも言い難い、説明の難しい関係だった。二人が出会ってから経った時間は銀太が高等部に上がってからの期間に等しく、つまり八ヶ月だったが、それは愛が育まれるには十分だった。今から振り返ればの話だが、記憶はロマンチシズムの方向に改竄される傾向がある事実を無視するわけにはいかないとは言え、高等部の入学式の日に、綴から親友だと紹介されたときから、銀太はすでに秋姫に好意を抱いていたように思う。時間の堆積を省略した恋を一般的に一目惚れと呼ぶが、そのときの銀太は秋姫に対して、「年上だが、妹のように可愛い女の子」という好意的な印象を抱いただけで、まだ恋だとは自覚しなかった反面、目を深く伏せてこちらに視線を送ろうとせず、指を絡み合わせて居心地が悪そうに弄りまわしていた仕種から、秋姫が人見知りであり、人付き合い全般が苦手であり、ことにそれが男性相手だと顕著になることは見抜いていた。
 秋姫がいつから銀太に恋愛感情を持つようになったかはわからないが(人から人への好意に明確な区切りが存在しないのも事実である)、二人はすでに互いが互いを悪く思っていないことを承知しており、しかしその感情を口に出すことは銀太も秋姫も決してしなかった。その代わり、学園の廊下や中庭でたまたますれ違ったときには、目と目を合わせて、二人にしか理解できない謎めいた微笑を交わし(その微笑も二人にしかそれと認められない、夏の朝霧のような本当に希薄なものだった)、それだけで満足してその場を去った。綴の部屋以外で会うときには、互いに気安いところを見せず、そもそも会話も交わそうとしなかったために、周りの人間は二人を知人だとも思わなかった。その奥手とも慎重とも言える黙認は一つの遊びのようなものであり、二人とも感情を隠しながら親愛を深めることで、むしろその感情の余韻を長く楽しむ目的だった。
 銀太と秋姫が恋人同士のような振る舞いをしなかったとはいえ、いつも近くにいる紅月と綴には二人の好意は明白であり、紅月は銀太の親友、綴は銀太の姉であり秋姫の親友という、それぞれに親密な立場を持っていたが、概ねのところ二人の関係を祝福していた。概ね、とわざわざ断ったのは、紅月と綴が銀太とどのような関係であろうと異性である以上、多かれ少なかれ好意に由来する嫉妬からは逃れられないからだ。恋愛に凡庸と呼べるものはなく、すべての恋愛が特殊な形式を帯びるものだが、銀太と秋姫の関係は「語らず」がその性質だった。

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