【密着】とあるVチューバーの日常24h【後編】
文字数 15,311文字
【登場人物】
夜川 愛美(よかわ まなみ)
高校一年生の女の子
新人Vチューバー『ナイトテール』の中の人
香辻桐子
愛美のクラスメイト
Vチューバー『灰姫レラ』の中の人
河本ヒロト
愛美のクラスメイト
灰姫レラ(とナイトテール)のプロデューサー
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愛美は香辻さんと河本くんと、当たり障りの無い雑談をしながらお昼ごはんを食べ終わり、少しだけ早めに教室に戻った。早めというのは、午後イチの授業が体育だったからだ。
体育は男女別なので、河本くんとはお別れ。女子更衣室でジャージに着替えて校庭へ。
保健体育の霧宇先生の前に、2クラス分の女子生徒が集まっている。昼食タイム後の気だるさで、皆ざわついていて集中力は散漫だ。
「来週のマラソン大会に向けての練習を行います」
「えー……」
半数ぐらいの生徒たちが不満そうなため息をつく。
「当日大会に参加しない人も、この機会に自分がどれぐらいの距離を走れるか試してみましょう。自分の体力を知るのも立派な勉強です」
きっぱりとした口調に生徒たちは渋々といった反応だが、愛美にとっては好都合だった。
「それでは二人一組に分かれて、10分間のストレッチを行って下さい」
霧宇先生の指示に、女子生徒たちは仲の良いグループ内でペアになっていく。小中学生の頃ほどではないけれど、女子が『群れ』を作りがちのは変わらない。
「ヒナヒナの身長、伸びろ伸びろー!」
「そっちこそ160センチ超えてみせろー」
「そこの二人! 遊ばない!」
ふざけあっていた姫乃と雛己が、さっそく霧宇先生に怒られていた。
「香辻さん、一緒にやろー」
「あ、はい! お願いします!」
愛美が声をかけると、香辻さんは弾んだ声を返し、ペコリとお辞儀をした。
「まずは背中を合わせて、背筋を伸ばして下さい」
霧宇先生は自分が顧問をしているバレー部の子と組み、見本を見せていた。
「それじゃ、香辻さんから伸ばすよー。せーの!」
「んっ、んんーーーー!」
小柄な香辻さんはつま先立ちになってグーッと身体を伸ばす。タケノコの妖精みたいで可愛い。
「んっ……んんぅっ……んっ……ふぁっ」
「最近、配信でも身体動かすのが流行ってるよねー。輪っか使ってフィットネスするゲーム」
「河本くんが秘密基地に置こうかなって言ってましたよ」
秘密基地というのは、河本くんが管理しているスタジオだ。そこには配信機材が揃っていて、3Dの灰姫レラちゃんが全身を動かしたり出来る。
「配信よりさ、運動不足の河本くんが使った方がいいよねー」
視線を男子の方に向ける。ほとんどがサッカー前のストレッチを真面目にやっている中で、河本くんはやる気がまるでない前屈をしていた。
「まったくその通りです!」
クスッと笑った香辻さんは力強く首を縦に振った。
空気も身体もほぐれた所でストレッチが終わり、他の女子と一緒にぞろぞろと正門のところへ移動する。
「学校の外周は約250mあります。できるだけ一定のペースで走るように心がけて下さい。気分が悪くなったり、体力が尽きた場合は脱落して休んで構いません」
「はーい」
「それでは……スタート!」
霧宇先生の合図で愛美たちは一斉にスタートを切った。
走り出しは全員が団子状態だ。運動自慢の生徒も飛び出したりはしない。
愛美は集団の先頭の方を走っている。香辻さんは出遅れたのか、後方に消えてしまった。
1周目はその集団のまま全員がダラダラと走っていたけれど、2周目に入ると徐々にバラけ始めていた。陸上部の三人がペースアップして先行すると、その後にソフトボール部やサッカー部の女子が続く。
3周目にはパラパラと脱落者も出始める。5周目の終わりで姫乃と雛己が「ヒナヒナ、わたしのことはおいていって……」「なにいってるんだ! おまえのことを見捨てるわけはないだろっ!」なんて遊びながらリタイア席に消えていった。
6週目になると集団は完全にバラバラ。愛美の周囲には1人しかいない。
「香辻さん、体力あるんだねー」
すぐ後ろを走っていた香辻さんに、愛美は並んで話しかけた。
「はぁはぁ……以前に歌とダンスのトレーニングを色々と教えてもらって……一応それを続けてて、ランニングもなんとかできるようになりました」
謙遜する香辻さんだったけれど、走りながら喋れるぐらいには余裕がありそうだ。
「あー、アオハルココロちゃんとのライブ対決のためだよね。アレ、本当にすごかった。あたし、最後の方でちょっと泣いちゃったもん」
香辻さんがVチューバー『灰姫レラ』として、人気になる切っ掛けのコラボ配信だ。アオハルココロちゃんのチャンネルにアーカイブが残っているので、いつでも誰でも見ることができる。
「河本くんとアオハルココロちゃんの事って」
「うん、少し聞いてるよー。河本くんがアオハルココロちゃんをプロデュースしてたこと、引退の事で揉めて別れちゃったんだよね」
香辻さんや河本くんが事情を明言したわけでは無い。だけど、アオハルココロちゃんがVチューバーを今も続けているということは、河本くんはアオハルココロちゃんを引退させるつもりだったのだろう。
「アオハルココロちゃんは私の憧れで……だから彼女がVチューバーを続けてくれてて、すっごく嬉しいんです。でも、河本くんは違うんですよね。きっと……」
車道の方から救急車のサイレンが聞こえる。
「どっちが正解だったかなんてさ、分かんないよねー」
愛美は一呼吸おいて前を見る。
「だってさ、選んだ現実が目の前に残ってるだけじゃん。選んでない過去なんて、そもそも存在してないんだからさ。自分の頭の中にだけある美化した理想だと思うんだ」
「夜川さんはすごいです。そんな風に現実とちゃんと向き合って。私は後悔してばかりです」
「あはっ、あたしだっていっぱい失敗してめっちゃ後悔するって」
当然だと愛美は笑う。遠ざかる救急車のサイレンが低く響いていた。
「友達にあんなこと言わなければよかったなーとか、配信中にこのコメント拾えばよかったなーとか、今日はサボっちゃったなーとかさ」
香辻さんが驚いた顔のまま街路樹にぶつかりそうになっていたので、愛美はその手をグイッと引く。
「よそ見してると危ないよー」
「あっ、ありがとうございます」
恐縮する香辻さんだったけれど、まだ何か聞きたそうだ。
「そんなに意外な話だったー?」
「えっと……はい。夜川さんはしっかりしていて、いつも楽しそうだから。私みたいにウジウジ悩んだりしないのかなって」
香辻さんは答えを求めるように、愛美のことを見つめていた。
「あたしはさ、後悔するような事が起きても、止まってられないだけなんだよねー。そのへんが他の人から見ると、積極的だとかポジティブだって思われる理由かも」
「怖くないんですか? また失敗をしてしまうかもって」
「失敗しない人間なんていないじゃん。だから、できるだけ怖がらないようにしてる」
不安そうな香辻さんに、愛美はニッと強がって笑ってみせた。
「……私も夜川さんみたいに」
言いかけた香辻さんは、躊躇って言葉を飲み込む。
「香辻さんはさ、あたしになりたい?」
「い、いえ! なりたいわけでは無いです。あっ、夜川さんは魅力的ですから、嫌というわけではないですから!」
慌ててフォローする香辻さん。自分で足を引っ掛けて転びそうになっていた。
「あははっ、いいって~。あたしも香辻さんになりたいって思わないもん。好きとか嫌いとか関係なくて、あたしはあたしだからさ。出来ることも出来ないことも含めてね」
「私は割り切れなくて……。自分のダメなとこばかり見てしまいます」
二人の走るペースが少しだけ落ちる。
「それでも前までは、失敗しても次があるって思えてたんですけど、最近は……失敗することがとても怖いんです」
言葉を探す香辻さんは、まるで切符の買い方が分からない子供みたいに見える。
「それってさー……、自信がついたからじゃないかな?」
「自信? 私が? えっ、そんな?!」
なにかの間違いではとオロオロする香辻さんに、愛美は念を押すように頷く。
「だって、あのアオハルココロちゃんと戦ったんだよー。自信にならないわけないって」
「それは……」
「チャンネル登録者数も、リアルタイムで配信を見てくれるリスナーさんも増えてるでしょ?」
香辻さんは控えめに頷く。
「今までやってきたことの成果が出てるんだからさ、自信を持って当然じゃん」
「でも、自信があったとしたら不安になんてならないような」
「そこは逆じゃないかな。自信が全然ない時って、失敗してもともとって思えるからあんまり怖くないよね。でも少しでも自信ができると、途端に失敗が怖くなっちゃう」
早い呼吸とともに正門を通り過ぎ、マラソンは7周目に入っていく。
「はぁ……はぁ……私が自信なんて持っていいのでしょうか全部、河本くんのおかげなのに」
「そこは香辻さん『も』だよ! ステージに立ったのは香辻さんで、灰姫レラちゃんじゃん! ファンの人が見てるのも、香辻さんの灰姫レラちゃんだよ! もちろんあたし『も』ね!」
「ファ、ファン??」
「あれ? 言ってなかったっけ、あたしは灰姫レラちゃんのファンだよー」
愛美の告白に、香辻さんはまるでツチノコでも見つけたような驚きの顔から、徐々に真っ赤になっていく。
「あ、ありがとうございます」
立ち止まってお辞儀する香辻さんに、愛美も急停止する。
「で、でも……」
「信じられない?」
「疑っているというわけでは! 受け止めきれないというか、現実感がないというか……」
香辻さんの視線はあっちへ行ったりこっちへ行ったりと、落ち着かない。本人の中でまだまだ色々な葛藤があるのだろう。
自分の言葉が香辻さんの抱えてるモノ全てに届くわけがない。それでも、少しのきっかけになればと思う。だから――。
「あんまし、自信の無いこと言ってるとさ。あたしが河本くんをとっちゃうよ」
「えっ?! ひあぁっ!!」
段差に蹴躓いだ香辻さん。愛美は素早く手を伸ばし、彼女の小さな身体を支えた。
「アハハハ、冗談冗談~。少女漫画ならこんなこと言うタイミングかなって思っただけ」
「ビ、ビックリしました……って、別に河本くんは私のものではありませんので悪しからず!」
しどろもどろになって否定する香辻さんに、愛美はクスッと笑う。
「知ってるよー。なんていうか、二人の雰囲気ってさ……戦友って感じだよねー」
「戦友とはちょっと物騒ですね。何かと戦ってるわけじゃ……あっ、アオハルココロちゃんと対決しましたけど、相手を倒そうとかそういうわけでは」
「香辻さんは真面目だなー」
「夜川さんが、ちょっと、ほんのちょっとだけ変わってるんです!」
「あはははっ、そうかもねー」
愛美が笑っていると、香辻さんも釣られるようにして笑い出す。
「やっと笑ってくれたねー」
マラソン中のはずが、いつの間にか二人とも並んで歩いていた。
「夜川さんに、心配かけちゃったみたいで……すみませんでした。ちょっと胸のつっかえがよくなりました」
「こっちが勝手に心配しただけだってー。あたしは香辻さんも灰姫レラちゃんも好きだからさ。出来ることならなんでもするし、いつでも力になるよー!」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです。でも――」
そう言って深々と下げた頭を、香辻さんはしっかりと上げる。くりっとした可愛い目には、力強さが少し戻ったような気がした。
「好意に甘えたり頼ってばかりじゃなくて、自分で答えを探さなきゃいけないのかもって……。すみません、うまく言葉に出来なくて」
しっかりと前を向いた香辻さんは、また走り出しペースを上げる。
「そっかー。うん、それでこそ」
頑固で諦めないところが、香辻さんと灰姫レラちゃんの良いところで、愛美が強く惹かれているところだ。
悩んだり、立ち止まったり、落ち込んだり。愛美が心配になることも、香辻さんにとっては必要な時間なのだろう。
「少女漫画じゃなくて少年漫画だよねー」
ならばと愛美も負けじと走り出す。
「香辻さん、ラストこの一周さ。競争しよっ!」
愛美は一方的に宣言して、香辻さんを後ろから追い抜かしていく
「えっ、あ、はいっ!」
応えてくれた香辻さんもペースを上げる。
6周分の疲れなんて秋風と一緒に吹き飛ばすように、二人は落ち葉を舞い上げ、全力で走った。
どちらが先にゴールしたか。
知っているのはたまたま見ていた姫乃と雛己だけだった。
15時30分、本日の授業は全て終了!
放課後は学級委員として月イチの全体会議に出席した。内容はマラソン大会についての確認だけであっさり終わり――のはずが、会議後に生徒会副会長の先輩に呼び止められた。片付けの手伝いを頼まれたけれど、ソワソワと落ち着かない様子は別件だとすぐに分かる。もちろん愛美は努めて態度には出さない。
放課後の空き教室に二人っきり。
タイミングを見計らった副会長が「付き合ってくれないか」的なことを遠回しに言った。
返す愛美は「ごめんなさーい」的なことを率直に伝える。
別に副会長が嫌いとかではない。単純に恋愛ごとに回す時間が無いだけだけれど、そこはオブラートに三重ぐらいに包んでおく。
副会長は納得してくれた。受験前の心残りを無くしたかったらしい。強がりか本音か分からないけれど、表情だけはスッキリしていた。
諸々が終わった愛美は、鞄とボストンバッグを回収し、学校から駆け足で駅へ。16時5分の電車に乗り込んだ。
面会の受付時間まではまだ余裕があるということで、繁華街の駅で途中下車。帰宅する学生や早上がり社会人の波に乗って、駅から離れていく。
夜の営業に向けて開店準備をする飲食店や、埃っぽそうな古本屋、微妙なセンスの古着屋を横目に進んでいく。5分ほどで古びた外観のビルが見えてきた。
3階建てで、1階はレンガ造り風のカフェバーになっていて、店先に掲げた小さな黒板にコーヒーやサンドイッチの値段が書いてある。
愛美はそのカフェバーの横にある階段を降りていく。壁にはポスターの剥がした跡があり、昔はここがライブハウスだったことを忍ばせていた。
地下に降りて、ちょっと重いをドアを開けると――。
「はぁはぁっ……あぁあああっ!」
荒い吐息と怪しげな声がスタジオに響いていた。
男の人を尋ねるにはタイミングが悪かったかもと思いつつも、興味が抑えきれない愛美は奥を覗く。
マットの上では河本くんが屈み込み、肩で息をしている。汗で髪の毛が張り付いた横顔は紅く、全身が火照っているようだ。
見てはいけないものを見てしまったかもと、愛美が躊躇っていると、気配に気づいた河本くんがこちらを向く。
「……はぁはぁ、うくっ」
「河本くん、なにしてんの?」
「ああ、これが届いたから試してたんだ」
そう言って河本くんは、手に持っていた輪っか状の器具を降る。
「フィットネスのゲームのやつ?」
つい数時間前のマラソンの時に香辻さんが言っていた事を思い出す。
RPGとフィットネスを組み合わせたゲームだ。同梱の輪っか状の器具がコントローラー兼トレーニング器具で、現実の身体を動かしてモンスターにダメージを与えることができる。
間接的に『身体を見せる』ことができたり、おもしろリアクションが期待できたりと、Vチューバー界隈でもかなり流行っている。
「動画で見てた10倍ぐらいキツイよ。運動は門外漢だけど、このトレーニングをしっかりやれば身体が鍛えられて、健康になれそうだね」
「健康を気にするならさー、体育の授業もちゃんと受けなよ」
「体育はお遊びでしょ? このゲームとは真剣度が違う」
言いながらスクワットを再開する河本くん。まだ序盤のステージのはずだけれど、太ももがぷるぷる震えていた。
「河本くんと運動って死ぬほど似合ってないよね」
「はぁはぁ……僕もそう思うけど、配信で使うかもしれないなら一度は自分でプレイしてみないと、ねっ。ぬぐぐぐっ!」
苦しそうにスクワットを続けているけれど、姿勢を崩してゲーム内で警告を受けてしまっていた。
「それも香辻さんのため?」
「そうだね。夜川さんも配信でやってみる?」
「今はパスかなー。誰かさんと違って、体育の授業を真面目に受けて疲れてるからね~」
「なる、ほど……ぬぐぁぁっ、はぁはぁ……あと一撃……ぐぬぁあっ、あっ!」
息も絶え絶えの河本くんがなんとか30回のスクワットを終えると、マッチョなドラゴンのHPがゼロになる。ファンファーレが響き、見事にステージクリアだ。
「はぁーー……死ぬ……」
リアルHPがゼロになった河本くんはマットに座り込む。
「香辻さんやあたしよりさー、河本くんの方がこのゲームプレイ続けたほうが良いんじゃない?」
「いやだ……もう二度と、はぁはぁ、勘弁して……」
河本くんが心底嫌そう振った頭から玉の汗が散っていった。
「身体冷えるからちゃんと汗ふこうか。あと水分補給も」
動けない河本くんに代わって愛美が、テーブルに置いてあったタオルとペットボトルを渡す。
「ゴクゴク……ありがとう……。はぁ……今日はなんで? あれ? スタジオ使う予定だっけ?」
河本くんがスケジュールを思い出すように目線を上げる。酸素不足で頭が回っていないのかも。
「河本くんってさ、かに座?」
「えっ? ……違うけど?」
困惑の声から数秒の間があってから、河本くんはわずかに身構える。
「へー……、かに座じゃないんだ」
愛美はジーッと河本くんの目を見つめる。二重まぶたで意外と可愛い系の目元をしているけれど、瞳には鋭利な光が宿っている。
「……ふー、それで?」
汗を拭いて呼吸を整えた河本くんは、立ち上がってペットボトルとタオルをテーブルに置く。
「ハイプロの社長に『プレセペ』がどうたらって言われてさ、河本くんすごく動揺してたよねー」
何か反応があるかと勿体つけて愛美は話すけれど、河本くんの表情に揺れはない。
「気になって検索したら、かに座を作る星の一つだったから、安直に河本くんはかに座なのかなって思っただけ」
「僕の誕生日は12月25日で、山羊座だよ」
「へ~、クリスマスなんだ。もしかして、誕生日とクリスマスのプレゼントが一緒にされちゃうパティーン?」
「そうだね」
河本くんは一言だけで答える。柔和な笑みを口元に浮かべているけれど、声には感情が乗っていないように愛美には聞こえた。
(このまま踏み込んでも躱されちゃうかな)
例えそうだとしても、止まったままでいるなんて我慢が出来ない。
「河本くんはさ、このビルの三階に一人で住んでるんだよねー?」
「うん。面倒くさくて、スタジオのソファーで寝ちゃうことも多いよ」
「寂しくない?」
「気楽でいいよ」
河本くんは強がってるようには見えない。実際、高校に入学してから香辻さんのプロデュースを始める最近まで、河本くんがクラスメイトの誰かと積極的に話している所は見たことがなかった。
「あたしだったら最初は一人暮らしを楽しんでても、すぐに寂しくなって実家に帰っちゃうかもな~。弟は戻ってくるなって言うかもしれないけど」
「弟さんがいるんだ。大きいの?」
「中1だよー。身体ばっかり大きくなってるけど、中身はゲームばっかりやってるおこちゃま。河本くんは兄弟いるの?」
「うん、一応ね」
引っかかる言い方に愛美は踏み込んでいく。
「ご両親と一緒に?」
「いや……どこでなにをしているのか知らないんだ」
愛美の感覚では心配して当然の事も、河本くんは淡々としていた。
「なかなか複雑だねー。もしかしてご両親の居場所もわからないとか?」
「生物学的な父親なら割と近くにいるよ」
「そうなんだー。たまには会ってご飯とか食べてたり?」
「食事を一緒に出来ない事情があるんだ」
河本くんは少しだけ笑う。理由は分からないけれど、まるでそれが幸運なことだと言っているように見えた。
「親愛は食卓からってねー」
「それは逆だと思う。料理が味覚を刺激し食欲が満たされて、それを相手への信頼や安心感と錯覚するんだ」
「すーぐ、そういう空気読まないこと言う~。だから、香辻さんも不安になっちゃうんだよ」
「え? なんでここで香辻さんが出てくるの?」
本気で分からないのか河本くんは怪訝そうに聞き返す。
「今日のお昼に、Vチューバーさんの引退の話したよね」
「もちろん覚えてるよ。三ツ星サギリさんのことだね」
「あの時、河本くんは辞めていく人を引き止めないみたいなこと言ってたけどさ。アレ、香辻さん的にはショックだったんじゃない?」
「そうなの?」
鈍い河本くんに少しばかりイライラして、愛美の口調もヒートアップしていく。
「もし香辻さんが灰姫レラを辞めるって言ったら、河本くんは止めないってことでしょ? プロデューサーにそんなこと言われたらショックに決まってるじゃん」
「香辻さんがそう言ってたの?」
「あたしが勝手に思ってるだけ! あたしが勝手に確認したいだけ! 『推し』のために出来ることして悪い?」
「いや……悪くないよ」
河本くんは嬉しそうに口元を綻ばせる。彼の背後に見え隠れする薄暗い気配が薄まった気がした。
「それで河本くんは? 止めないの?」
「…………今はまだ分からない。これが正直なとこだよ」
すまなそうに首を振る河本くんに、愛美は仕方ないと頷く。
「そっか、うん、今はそれで納得しとく。でも、香辻さんを心配させるような事は許さないからねー」
「うん……夜川さんがナイトテールになってくれてよかった。ありがとう」
そう言って河本くんはスッと頭を下げる。愛美は一息つくと腰に手を当てて、人差し指で河本くんを指差した。
「河本くんはプロデューサーなんだから、どしっと構えてないとさー。自分が悩んでてもそれを態度に出して、香辻さんまで不安にさせないように!」
「はい、肝に銘じます」
珍しくしおらしい河本くんに甘えて、愛美ももう少しだけ調子に乗ることにした。
「香辻さんは自分の悩みは自分で解決しなくっちゃって言ってたけど、抱え込んでるのもよくないと思うんだ。だから、河本くんも手助けしてあげてねー。あたしの言葉じゃ届かなかったからさ」
無力さを言葉に変えた愛美の訴えに、河本くんは真摯な視線を返してくれた。
「分かった。僕に出来ることは全部する」
「頼んだからねー、プロデューサー!」
この人なら、自分には出来ない凄いことを絶対にしてくれる。河本くんにはそういう安心感がある。
不安の塔に囚われている香辻さんを、きっと魔法使いのように連れ出してくれるはずだ。
安心した愛美は置きっぱなしにしてあったリング状の器具を手に取る。
「やっぱりちょっとだけゲームやらしてよ」
フィットネスゲームを少しだけ触らせてもらった。意外に面白かったので、今度スタジオでプレイさせてもらうことにした。ミニゲームもあるので、香辻さん(灰姫レラちゃん)とコラボなんて出来たらさらに盛り上がるかも知れない。
スタジオを出ると空の裾が紅い。夕闇が街を覆い始めていた。ゆっくりし過ぎてしまったと、早足で駅に向かう。帰宅ラッシュで激混みしている改札を抜けて、ちょうど止まっていた電車にするっと乗り込む。
17時を少し過ぎて、目的の駅に到着。ボストンバッグを抱え広大な地下街を駆け抜ける。もう何度も通っているので、最短ルートは分かっていた。
地下街の出口から割と近くに、そのビルはある。建物自体は学校の校舎のような雰囲気があるけれど、入っていく人たちはおじいちゃんおばあちゃんが多くて、年齢層は高めだ。
自動ドアをくぐると、待合ロビーになっている。総合受付と売店、それに外来の診察室の表示が出ていた。
ここは総合病院だ。診療時間は過ぎているので待合ロビーは閑散としていた。受付で手続きをして、首から下げるタイプの面会証を受け取る。
足音が気持ちよく響く廊下を進み、エレベーターで5階へ。看護師さんたちが作業しているナースステーションにご苦労さまですと会釈を残し、病室へ。
ベッドは4つとも埋まっていて、その一つのネームプレートには『夜川希美』と書かれている。
「ママ、来たよー」
愛美がベッドに近づきながら声をかけると、ママは読んでいた本から顔をあげた。
「あらー、今日はマナミちゃんが来てくれたのねー。嬉しいわー」
ママのおっとりとした声に、愛美も自然と笑みが溢れる。もし小学生だったなら、堪らずに抱きついていたかもしれない。
「はい、着替えとか色々だよ~」
運んできたボストンバッグを開いて、愛美は中身を見せる。
「ありがとうねー。わぁ、このカーディガンも持ってきてくれたのね!」
お気に入りのカーディガンに、ママの声が二段階ぐらい大きくなる。
「よく病院の中を歩いてるって、ママ言ってたじゃん。寒い日もあるからと思ってさ」
愛美はベッドサイドの収納からこれまで使っていたママの衣類を取り出し、家から持ってきたモノと交換する。ついでにママが充電を忘れていたタブレット端末もドッグに戻しておく。
「他に何か持って帰るのあるー?」
「大丈夫よー、マナミちゃんが色々と家のことやってくれるから助かるわー」
「パパとユウと協力してやってるから心配しなくていいよー」
「二人は元気かしらー? 涼しくなってきたから風邪引いたりしてない?」
「パパは残業とかでお仕事大変そうだけど元気だよー。ユウは相変わらずゲームばっかしてる」
「そうなのー。マナミちゃんもVチューバーさんを楽しんでるみたいで良かったわー」
もちろんママもV活動の事は知っている。パソコン関係に詳しくないママには説明が大変だったけれど、今は病室でも愛美の様子が見れると嬉しがってくれている。
「うん、学校も配信も毎日いろんな事があって楽しいよ~!」
「いいないいなー。ママもユーチューブに出てみたいわー。他のVチューバーさんみたいにマナミちゃんと一緒にどうかしらねー?」
「えーー、ママは配信中にポロッと『マナミちゃん』って本名言っちゃいそうだからなー」
ママは事業参観の日を間違えて前日に前乗りしてしまったり、自転車で買い物に行って徒歩で帰ってきてしまうぐらいの高レベルうっかりさんだ。
愛美が露骨に渋っても、ママは自信たっぷりだ。
「大丈夫よー。ママはそういうところはしっかりしてるんだからー。ちゃーんとナイトテールちゃんって呼ぶわ! ねー、お願い~~」
子供みたいに愛美の腕を引っ張るママに、愛美は肩を落として息を吐く。
「は~……しょうがないなー。ママが退院したら、そのご褒美に一回だけだよ」
「やったわー、マナミちゃんとユーチューブに出るの楽しみねー。早く退院しないとー」
ママはちょっとだけ痩せた手でベッドをポンポンと叩く。
「次の検査で大丈夫なら、年明けには退院出来るってお医者さんも言ってるんだからさ。あとちょっとの我慢だよー」
「そうよねー……あっ! 検査といえば! マナミちゃんに言おうと思ってたことがあったんだわ」
嬉しそうにぱちんと両手を合わせるママ。
「なにー? 悪い話じゃないよね」
「あのねー、ナイトテールちゃんのこと知ってる女の子と会ったのよー」
「ええっ?! すごい偶然じゃん!」
「そうなのよー。一緒にCT検査を待ってる時に話したの。その娘、とってもVチューバーさんに詳しかったわー」
人懐っこいママは知らない人に話しかけて、すぐに仲良くなってしまう。
「ママ、まさかあたしがナイトテールだって言っちゃったんじゃ……」
お喋りのママならポロッと漏らしていても不思議ではない。
「もうー、ママのこと信用して。ちゃんと我慢したわ。とっても言いたかったけど……」
「配信で出すのはもちろん、知らない人に教えちゃダメだよー」
「でも、とってもいい子だったのよ」
「いい子でもダメなものはダメ! もし次に会っても、シーーだよ!」
「はーーい」
ママは唇を突き出すと不満そうに頬をぷくーっと膨らませる。かなり天然なところもあるママだけれど、約束はちゃんと守ってくれる――はず。
子供っぽくても、ママは経験豊富な大人なのだ。
「そうだ。ママにもさ、他の人には言えないことってあるの?」
「もちろんあるわー。へそくりの場所とかー、パパのラブレター事件とか、いろいろねー」
へそくりは鏡の後ろにはりつけてあるし、パパがラブレターを間違ってママのお父さんに渡してしまった事は姉弟揃って知っている。
「マナミちゃんにもあるでしょ?」
「あるといえばあるけどさ、別に喋っちゃってもいいかなーって思うんだよね」
「そうねー、マナミちゃんは秘密にするのが苦手よね」
ママには言われたくないと思ったけれど、つっこまないでおく。
「でも、そうじゃない友達もいて、悩みや秘密を自分だけで抱え込んだり解決しようとしてる。頼ってくれてもいいのになーって思うんだよね」
「そうねー。ママも頼って欲しかったなって思うこと、いっぱいあったわ……」
ママは一瞬だけ窓の方に視線を外す。照明の加減でほうれい線がいつもより深く見えた。
「もし困ってることがあるならさ、相談して欲しいなって思うなー。そうすれば一緒に考えたりできるのに」
「その人が守ってきたモノ、これまで頑張ってきたモノ……手放してしまったら自分が自分でなくなってしまう。だから簡単には頼れないのよ」
「こだわる気持ちがあってもさ、それで潰れちゃったら……あたしは嫌だな」
ママの言うことも分かるけれど、愛美はどうしても納得できなかった。
「でもね、そういう悩みや葛藤を越えた人はすっごく強くなるのよー。これまでも自分の力で越えてきた人たちだから、強くなれる事を知っていると思うわ」
「さらに強くか~」
「でもね、本当に大変そうで、もうダメになっちゃいそうって時は、マナミちゃんがお友達のこと助けてあげてね」
「うん、もちろんそのつもりだよ。でも、毎日楽しいだけのあたしに、そんな少年漫画みたいな事できるかなー」
香辻さんとも同じような事を話した気がする。
「もちろん出来るわ。マナミちゃんも毎日、強くなっていってるもの」
「えー、そうかな?」
「そうよ。ちょっとずつ成長してるの、ママはちゃーんと見てるわ。ナイトテールちゃんを通してねー」
そう言ってママは、愛美の手を優しく包み込む。
「ありがとー、ママにそう言ってもらえてすっごく嬉しい」
興味だけから始めたVチューバー活動だけれど、離れているママともこうして繋がっていられる。
「Vチューバーやってみてホントによかったー!」
愛美はママの手をしっかりと握り、ユビキリゲンマンするみたいに何度も振って喜んだ。
ママともう少し話していたかったけれど、家事や今晩の配信がある。天然のママからも「あんまり配信に遅刻しないようにねー」と釘を差されてしまったのだから仕方ない。
愛美は軽くなったボストンバッグを手に、病院を後にした。
帰宅ラッシュのピークで電車の中は詰め込みすぎたお弁当箱みたいになっていた。
ボストンバッグと学校の鞄をできるだけ身体に押し付けた愛美は、顔の前のわずかなスペースを使ってスマホをいじる。友達からのメッセージを返したり、ユーチューブに配信の待機所(サムネ未定)を作って告知したりと移動時間を有効活用した。
帰宅はなんとか19時に間に合った。
「ただいまー」
バタバタとキッチンに行くと、ユウが冷蔵庫から出したコーヒー牛乳をパックのまま飲んでいた。
「姉ちゃんおかえりー。ママの様子どうだった?」
「元気だったよ~。今すぐにでも退院したいって駄々こねてた」
荷物を床に放り出して、冷蔵庫を開ける。食材のストックは把握してあるので、夕食の献立はすでに決まっていた。
「すぐに夕飯作るから、ちょい待ちねー」
冷凍庫から取り出した豚肉を電子レンジで急速解凍。ふと下を見ると炊飯器が湯気を立てていた。
「ご飯炊いといたよ」
「あんがとー!」
ユウの炊いてくれたお米を無駄にはしないと、さっそく料理に取り掛かる。
玉ねぎとキャベツ、人参、ニンニクひと欠片をさくっと切る。電子レンジから取り出した豚肉は半解凍ぐらいだけど気にせず切って、軽く塩コショウ、油を敷いたフライパンでニンニクのみじん切りと一緒に炒めていく。そこに硬い野菜から順番に加えていって、火が通ったところで鶏ガラスープの素とオイスターソースで適度に味付け。
一口味見。ちょっと味が薄かったので、醤油を追加。もう一度味見。今度はバッチリだ。
自分とユウとパパ、三人分をお皿に分ける。
「ユウ、ご飯できたよー」
呼ぶとすぐにお腹を空かせていた弟が飛んできた。愛美が言う前にお茶碗を用意してご飯をよそり始める。
「姉ちゃんは?」
「時間無いから、配信終わってから食べるー!」
シンクの洗い物に手を付けようとしていると――。
「おれが片付けしとくから、早く準備したら?」
「助かる!」
ユウの言葉に甘えて自室へ。
パソコンが立ち上がるまでの時間で、マイクやカメラをセットする。
「急げ急げー!」
自分を急かし、超特急でサムネイル画像を作っていく。
事前告知に使った画像があるので、それを元に少し改造を加えていく。ナイトテールの立ち絵とタイトルを変えるだけだ。画像加工アプリに登録してある立ち絵一覧から真剣な顔を選んで背景に合成。タイトルの文字を入れて位置を調整。フリーフォントで恋愛ゲームっぽいものを選んで、さらにガウスをかけて印象を変える。
「あああ! ゲームの準備わすれてるっ! これ、間に合わないやつじゃん!」
リマインダーに設定した開始時刻の20時になり、ユーチューブ上ではカウントダウンが終わった。デフォルト設定の待機画面に『ナイトテールを待っています』と表示されてしまう。
コメント欄では〈待機〉の文字が踊っている。すでに100人以上が配信を待っていた。
〈10分遅れるよー!〉
〈了〉
〈了!〉
〈ゆっくりでいいよー〉
リスナーさんたちに甘えた10分間でゲーム配信の設定を済ませる。事前にテストはしてあるけれど、リスナーさんの前では初めてプレイする。もしかしたら、途中でパソコンやゲーム自体が止まってしまったりするかも知れないけれど――。
「その時はその時だよね~」
マイクをスイッチオン、
OBSのインジケータが左右に揺れるのをチェック、
最後に放送開始ボタンをクリック。
「ちぃっすー! こんしっぽ~」
〈こんしっぽ~〉
〈こんしっぽ~〉
〈こんしっぽーーーー〉
いつもの挨拶から配信が始まる。
「待たせちゃってごめんねー」
〈OK〉
〈いいよー〉
「昨日言った通り、恋愛ゲームをやっていくよー。タイトルはマシュマロでもリクエストが、たーーっくさん来ていたこれっ!」
可愛い女子高生のイラストが描かれたゲームのパッケージ画像を表示する。
「『アマキス』だよーー!」
〈おおおお!〉
〈アマキスは人生〉
〈待ってました!〉
〈名作キターー!〉
〈誰を攻略するのか楽しみ!〉
「恋愛相談マスターとして、必ずメインヒロインといい感じにハッピーエンド迎えちゃうからねー!」
宣言するナイトテールにコメント欄も大盛り上がり。
「それじゃ、いっくよー! ゲームスタート!」
今日も楽しい配信になりそうだ!
『とあるVチューバーの日常24h+10分』
~おしまい~
――そして物語は#10へ続く。
####################################
一日が終わり、
また次の一日が始まる。
次回からは香辻さんが、
自身の悩みと向きあっていきます。
そして河本くんも――。
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夜川 愛美(よかわ まなみ)
高校一年生の女の子
新人Vチューバー『ナイトテール』の中の人
香辻桐子
愛美のクラスメイト
Vチューバー『灰姫レラ』の中の人
河本ヒロト
愛美のクラスメイト
灰姫レラ(とナイトテール)のプロデューサー
####################################
愛美は香辻さんと河本くんと、当たり障りの無い雑談をしながらお昼ごはんを食べ終わり、少しだけ早めに教室に戻った。早めというのは、午後イチの授業が体育だったからだ。
体育は男女別なので、河本くんとはお別れ。女子更衣室でジャージに着替えて校庭へ。
保健体育の霧宇先生の前に、2クラス分の女子生徒が集まっている。昼食タイム後の気だるさで、皆ざわついていて集中力は散漫だ。
「来週のマラソン大会に向けての練習を行います」
「えー……」
半数ぐらいの生徒たちが不満そうなため息をつく。
「当日大会に参加しない人も、この機会に自分がどれぐらいの距離を走れるか試してみましょう。自分の体力を知るのも立派な勉強です」
きっぱりとした口調に生徒たちは渋々といった反応だが、愛美にとっては好都合だった。
「それでは二人一組に分かれて、10分間のストレッチを行って下さい」
霧宇先生の指示に、女子生徒たちは仲の良いグループ内でペアになっていく。小中学生の頃ほどではないけれど、女子が『群れ』を作りがちのは変わらない。
「ヒナヒナの身長、伸びろ伸びろー!」
「そっちこそ160センチ超えてみせろー」
「そこの二人! 遊ばない!」
ふざけあっていた姫乃と雛己が、さっそく霧宇先生に怒られていた。
「香辻さん、一緒にやろー」
「あ、はい! お願いします!」
愛美が声をかけると、香辻さんは弾んだ声を返し、ペコリとお辞儀をした。
「まずは背中を合わせて、背筋を伸ばして下さい」
霧宇先生は自分が顧問をしているバレー部の子と組み、見本を見せていた。
「それじゃ、香辻さんから伸ばすよー。せーの!」
「んっ、んんーーーー!」
小柄な香辻さんはつま先立ちになってグーッと身体を伸ばす。タケノコの妖精みたいで可愛い。
「んっ……んんぅっ……んっ……ふぁっ」
「最近、配信でも身体動かすのが流行ってるよねー。輪っか使ってフィットネスするゲーム」
「河本くんが秘密基地に置こうかなって言ってましたよ」
秘密基地というのは、河本くんが管理しているスタジオだ。そこには配信機材が揃っていて、3Dの灰姫レラちゃんが全身を動かしたり出来る。
「配信よりさ、運動不足の河本くんが使った方がいいよねー」
視線を男子の方に向ける。ほとんどがサッカー前のストレッチを真面目にやっている中で、河本くんはやる気がまるでない前屈をしていた。
「まったくその通りです!」
クスッと笑った香辻さんは力強く首を縦に振った。
空気も身体もほぐれた所でストレッチが終わり、他の女子と一緒にぞろぞろと正門のところへ移動する。
「学校の外周は約250mあります。できるだけ一定のペースで走るように心がけて下さい。気分が悪くなったり、体力が尽きた場合は脱落して休んで構いません」
「はーい」
「それでは……スタート!」
霧宇先生の合図で愛美たちは一斉にスタートを切った。
走り出しは全員が団子状態だ。運動自慢の生徒も飛び出したりはしない。
愛美は集団の先頭の方を走っている。香辻さんは出遅れたのか、後方に消えてしまった。
1周目はその集団のまま全員がダラダラと走っていたけれど、2周目に入ると徐々にバラけ始めていた。陸上部の三人がペースアップして先行すると、その後にソフトボール部やサッカー部の女子が続く。
3周目にはパラパラと脱落者も出始める。5周目の終わりで姫乃と雛己が「ヒナヒナ、わたしのことはおいていって……」「なにいってるんだ! おまえのことを見捨てるわけはないだろっ!」なんて遊びながらリタイア席に消えていった。
6週目になると集団は完全にバラバラ。愛美の周囲には1人しかいない。
「香辻さん、体力あるんだねー」
すぐ後ろを走っていた香辻さんに、愛美は並んで話しかけた。
「はぁはぁ……以前に歌とダンスのトレーニングを色々と教えてもらって……一応それを続けてて、ランニングもなんとかできるようになりました」
謙遜する香辻さんだったけれど、走りながら喋れるぐらいには余裕がありそうだ。
「あー、アオハルココロちゃんとのライブ対決のためだよね。アレ、本当にすごかった。あたし、最後の方でちょっと泣いちゃったもん」
香辻さんがVチューバー『灰姫レラ』として、人気になる切っ掛けのコラボ配信だ。アオハルココロちゃんのチャンネルにアーカイブが残っているので、いつでも誰でも見ることができる。
「河本くんとアオハルココロちゃんの事って」
「うん、少し聞いてるよー。河本くんがアオハルココロちゃんをプロデュースしてたこと、引退の事で揉めて別れちゃったんだよね」
香辻さんや河本くんが事情を明言したわけでは無い。だけど、アオハルココロちゃんがVチューバーを今も続けているということは、河本くんはアオハルココロちゃんを引退させるつもりだったのだろう。
「アオハルココロちゃんは私の憧れで……だから彼女がVチューバーを続けてくれてて、すっごく嬉しいんです。でも、河本くんは違うんですよね。きっと……」
車道の方から救急車のサイレンが聞こえる。
「どっちが正解だったかなんてさ、分かんないよねー」
愛美は一呼吸おいて前を見る。
「だってさ、選んだ現実が目の前に残ってるだけじゃん。選んでない過去なんて、そもそも存在してないんだからさ。自分の頭の中にだけある美化した理想だと思うんだ」
「夜川さんはすごいです。そんな風に現実とちゃんと向き合って。私は後悔してばかりです」
「あはっ、あたしだっていっぱい失敗してめっちゃ後悔するって」
当然だと愛美は笑う。遠ざかる救急車のサイレンが低く響いていた。
「友達にあんなこと言わなければよかったなーとか、配信中にこのコメント拾えばよかったなーとか、今日はサボっちゃったなーとかさ」
香辻さんが驚いた顔のまま街路樹にぶつかりそうになっていたので、愛美はその手をグイッと引く。
「よそ見してると危ないよー」
「あっ、ありがとうございます」
恐縮する香辻さんだったけれど、まだ何か聞きたそうだ。
「そんなに意外な話だったー?」
「えっと……はい。夜川さんはしっかりしていて、いつも楽しそうだから。私みたいにウジウジ悩んだりしないのかなって」
香辻さんは答えを求めるように、愛美のことを見つめていた。
「あたしはさ、後悔するような事が起きても、止まってられないだけなんだよねー。そのへんが他の人から見ると、積極的だとかポジティブだって思われる理由かも」
「怖くないんですか? また失敗をしてしまうかもって」
「失敗しない人間なんていないじゃん。だから、できるだけ怖がらないようにしてる」
不安そうな香辻さんに、愛美はニッと強がって笑ってみせた。
「……私も夜川さんみたいに」
言いかけた香辻さんは、躊躇って言葉を飲み込む。
「香辻さんはさ、あたしになりたい?」
「い、いえ! なりたいわけでは無いです。あっ、夜川さんは魅力的ですから、嫌というわけではないですから!」
慌ててフォローする香辻さん。自分で足を引っ掛けて転びそうになっていた。
「あははっ、いいって~。あたしも香辻さんになりたいって思わないもん。好きとか嫌いとか関係なくて、あたしはあたしだからさ。出来ることも出来ないことも含めてね」
「私は割り切れなくて……。自分のダメなとこばかり見てしまいます」
二人の走るペースが少しだけ落ちる。
「それでも前までは、失敗しても次があるって思えてたんですけど、最近は……失敗することがとても怖いんです」
言葉を探す香辻さんは、まるで切符の買い方が分からない子供みたいに見える。
「それってさー……、自信がついたからじゃないかな?」
「自信? 私が? えっ、そんな?!」
なにかの間違いではとオロオロする香辻さんに、愛美は念を押すように頷く。
「だって、あのアオハルココロちゃんと戦ったんだよー。自信にならないわけないって」
「それは……」
「チャンネル登録者数も、リアルタイムで配信を見てくれるリスナーさんも増えてるでしょ?」
香辻さんは控えめに頷く。
「今までやってきたことの成果が出てるんだからさ、自信を持って当然じゃん」
「でも、自信があったとしたら不安になんてならないような」
「そこは逆じゃないかな。自信が全然ない時って、失敗してもともとって思えるからあんまり怖くないよね。でも少しでも自信ができると、途端に失敗が怖くなっちゃう」
早い呼吸とともに正門を通り過ぎ、マラソンは7周目に入っていく。
「はぁ……はぁ……私が自信なんて持っていいのでしょうか全部、河本くんのおかげなのに」
「そこは香辻さん『も』だよ! ステージに立ったのは香辻さんで、灰姫レラちゃんじゃん! ファンの人が見てるのも、香辻さんの灰姫レラちゃんだよ! もちろんあたし『も』ね!」
「ファ、ファン??」
「あれ? 言ってなかったっけ、あたしは灰姫レラちゃんのファンだよー」
愛美の告白に、香辻さんはまるでツチノコでも見つけたような驚きの顔から、徐々に真っ赤になっていく。
「あ、ありがとうございます」
立ち止まってお辞儀する香辻さんに、愛美も急停止する。
「で、でも……」
「信じられない?」
「疑っているというわけでは! 受け止めきれないというか、現実感がないというか……」
香辻さんの視線はあっちへ行ったりこっちへ行ったりと、落ち着かない。本人の中でまだまだ色々な葛藤があるのだろう。
自分の言葉が香辻さんの抱えてるモノ全てに届くわけがない。それでも、少しのきっかけになればと思う。だから――。
「あんまし、自信の無いこと言ってるとさ。あたしが河本くんをとっちゃうよ」
「えっ?! ひあぁっ!!」
段差に蹴躓いだ香辻さん。愛美は素早く手を伸ばし、彼女の小さな身体を支えた。
「アハハハ、冗談冗談~。少女漫画ならこんなこと言うタイミングかなって思っただけ」
「ビ、ビックリしました……って、別に河本くんは私のものではありませんので悪しからず!」
しどろもどろになって否定する香辻さんに、愛美はクスッと笑う。
「知ってるよー。なんていうか、二人の雰囲気ってさ……戦友って感じだよねー」
「戦友とはちょっと物騒ですね。何かと戦ってるわけじゃ……あっ、アオハルココロちゃんと対決しましたけど、相手を倒そうとかそういうわけでは」
「香辻さんは真面目だなー」
「夜川さんが、ちょっと、ほんのちょっとだけ変わってるんです!」
「あはははっ、そうかもねー」
愛美が笑っていると、香辻さんも釣られるようにして笑い出す。
「やっと笑ってくれたねー」
マラソン中のはずが、いつの間にか二人とも並んで歩いていた。
「夜川さんに、心配かけちゃったみたいで……すみませんでした。ちょっと胸のつっかえがよくなりました」
「こっちが勝手に心配しただけだってー。あたしは香辻さんも灰姫レラちゃんも好きだからさ。出来ることならなんでもするし、いつでも力になるよー!」
「ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです。でも――」
そう言って深々と下げた頭を、香辻さんはしっかりと上げる。くりっとした可愛い目には、力強さが少し戻ったような気がした。
「好意に甘えたり頼ってばかりじゃなくて、自分で答えを探さなきゃいけないのかもって……。すみません、うまく言葉に出来なくて」
しっかりと前を向いた香辻さんは、また走り出しペースを上げる。
「そっかー。うん、それでこそ」
頑固で諦めないところが、香辻さんと灰姫レラちゃんの良いところで、愛美が強く惹かれているところだ。
悩んだり、立ち止まったり、落ち込んだり。愛美が心配になることも、香辻さんにとっては必要な時間なのだろう。
「少女漫画じゃなくて少年漫画だよねー」
ならばと愛美も負けじと走り出す。
「香辻さん、ラストこの一周さ。競争しよっ!」
愛美は一方的に宣言して、香辻さんを後ろから追い抜かしていく
「えっ、あ、はいっ!」
応えてくれた香辻さんもペースを上げる。
6周分の疲れなんて秋風と一緒に吹き飛ばすように、二人は落ち葉を舞い上げ、全力で走った。
どちらが先にゴールしたか。
知っているのはたまたま見ていた姫乃と雛己だけだった。
15時30分、本日の授業は全て終了!
放課後は学級委員として月イチの全体会議に出席した。内容はマラソン大会についての確認だけであっさり終わり――のはずが、会議後に生徒会副会長の先輩に呼び止められた。片付けの手伝いを頼まれたけれど、ソワソワと落ち着かない様子は別件だとすぐに分かる。もちろん愛美は努めて態度には出さない。
放課後の空き教室に二人っきり。
タイミングを見計らった副会長が「付き合ってくれないか」的なことを遠回しに言った。
返す愛美は「ごめんなさーい」的なことを率直に伝える。
別に副会長が嫌いとかではない。単純に恋愛ごとに回す時間が無いだけだけれど、そこはオブラートに三重ぐらいに包んでおく。
副会長は納得してくれた。受験前の心残りを無くしたかったらしい。強がりか本音か分からないけれど、表情だけはスッキリしていた。
諸々が終わった愛美は、鞄とボストンバッグを回収し、学校から駆け足で駅へ。16時5分の電車に乗り込んだ。
面会の受付時間まではまだ余裕があるということで、繁華街の駅で途中下車。帰宅する学生や早上がり社会人の波に乗って、駅から離れていく。
夜の営業に向けて開店準備をする飲食店や、埃っぽそうな古本屋、微妙なセンスの古着屋を横目に進んでいく。5分ほどで古びた外観のビルが見えてきた。
3階建てで、1階はレンガ造り風のカフェバーになっていて、店先に掲げた小さな黒板にコーヒーやサンドイッチの値段が書いてある。
愛美はそのカフェバーの横にある階段を降りていく。壁にはポスターの剥がした跡があり、昔はここがライブハウスだったことを忍ばせていた。
地下に降りて、ちょっと重いをドアを開けると――。
「はぁはぁっ……あぁあああっ!」
荒い吐息と怪しげな声がスタジオに響いていた。
男の人を尋ねるにはタイミングが悪かったかもと思いつつも、興味が抑えきれない愛美は奥を覗く。
マットの上では河本くんが屈み込み、肩で息をしている。汗で髪の毛が張り付いた横顔は紅く、全身が火照っているようだ。
見てはいけないものを見てしまったかもと、愛美が躊躇っていると、気配に気づいた河本くんがこちらを向く。
「……はぁはぁ、うくっ」
「河本くん、なにしてんの?」
「ああ、これが届いたから試してたんだ」
そう言って河本くんは、手に持っていた輪っか状の器具を降る。
「フィットネスのゲームのやつ?」
つい数時間前のマラソンの時に香辻さんが言っていた事を思い出す。
RPGとフィットネスを組み合わせたゲームだ。同梱の輪っか状の器具がコントローラー兼トレーニング器具で、現実の身体を動かしてモンスターにダメージを与えることができる。
間接的に『身体を見せる』ことができたり、おもしろリアクションが期待できたりと、Vチューバー界隈でもかなり流行っている。
「動画で見てた10倍ぐらいキツイよ。運動は門外漢だけど、このトレーニングをしっかりやれば身体が鍛えられて、健康になれそうだね」
「健康を気にするならさー、体育の授業もちゃんと受けなよ」
「体育はお遊びでしょ? このゲームとは真剣度が違う」
言いながらスクワットを再開する河本くん。まだ序盤のステージのはずだけれど、太ももがぷるぷる震えていた。
「河本くんと運動って死ぬほど似合ってないよね」
「はぁはぁ……僕もそう思うけど、配信で使うかもしれないなら一度は自分でプレイしてみないと、ねっ。ぬぐぐぐっ!」
苦しそうにスクワットを続けているけれど、姿勢を崩してゲーム内で警告を受けてしまっていた。
「それも香辻さんのため?」
「そうだね。夜川さんも配信でやってみる?」
「今はパスかなー。誰かさんと違って、体育の授業を真面目に受けて疲れてるからね~」
「なる、ほど……ぬぐぁぁっ、はぁはぁ……あと一撃……ぐぬぁあっ、あっ!」
息も絶え絶えの河本くんがなんとか30回のスクワットを終えると、マッチョなドラゴンのHPがゼロになる。ファンファーレが響き、見事にステージクリアだ。
「はぁーー……死ぬ……」
リアルHPがゼロになった河本くんはマットに座り込む。
「香辻さんやあたしよりさー、河本くんの方がこのゲームプレイ続けたほうが良いんじゃない?」
「いやだ……もう二度と、はぁはぁ、勘弁して……」
河本くんが心底嫌そう振った頭から玉の汗が散っていった。
「身体冷えるからちゃんと汗ふこうか。あと水分補給も」
動けない河本くんに代わって愛美が、テーブルに置いてあったタオルとペットボトルを渡す。
「ゴクゴク……ありがとう……。はぁ……今日はなんで? あれ? スタジオ使う予定だっけ?」
河本くんがスケジュールを思い出すように目線を上げる。酸素不足で頭が回っていないのかも。
「河本くんってさ、かに座?」
「えっ? ……違うけど?」
困惑の声から数秒の間があってから、河本くんはわずかに身構える。
「へー……、かに座じゃないんだ」
愛美はジーッと河本くんの目を見つめる。二重まぶたで意外と可愛い系の目元をしているけれど、瞳には鋭利な光が宿っている。
「……ふー、それで?」
汗を拭いて呼吸を整えた河本くんは、立ち上がってペットボトルとタオルをテーブルに置く。
「ハイプロの社長に『プレセペ』がどうたらって言われてさ、河本くんすごく動揺してたよねー」
何か反応があるかと勿体つけて愛美は話すけれど、河本くんの表情に揺れはない。
「気になって検索したら、かに座を作る星の一つだったから、安直に河本くんはかに座なのかなって思っただけ」
「僕の誕生日は12月25日で、山羊座だよ」
「へ~、クリスマスなんだ。もしかして、誕生日とクリスマスのプレゼントが一緒にされちゃうパティーン?」
「そうだね」
河本くんは一言だけで答える。柔和な笑みを口元に浮かべているけれど、声には感情が乗っていないように愛美には聞こえた。
(このまま踏み込んでも躱されちゃうかな)
例えそうだとしても、止まったままでいるなんて我慢が出来ない。
「河本くんはさ、このビルの三階に一人で住んでるんだよねー?」
「うん。面倒くさくて、スタジオのソファーで寝ちゃうことも多いよ」
「寂しくない?」
「気楽でいいよ」
河本くんは強がってるようには見えない。実際、高校に入学してから香辻さんのプロデュースを始める最近まで、河本くんがクラスメイトの誰かと積極的に話している所は見たことがなかった。
「あたしだったら最初は一人暮らしを楽しんでても、すぐに寂しくなって実家に帰っちゃうかもな~。弟は戻ってくるなって言うかもしれないけど」
「弟さんがいるんだ。大きいの?」
「中1だよー。身体ばっかり大きくなってるけど、中身はゲームばっかりやってるおこちゃま。河本くんは兄弟いるの?」
「うん、一応ね」
引っかかる言い方に愛美は踏み込んでいく。
「ご両親と一緒に?」
「いや……どこでなにをしているのか知らないんだ」
愛美の感覚では心配して当然の事も、河本くんは淡々としていた。
「なかなか複雑だねー。もしかしてご両親の居場所もわからないとか?」
「生物学的な父親なら割と近くにいるよ」
「そうなんだー。たまには会ってご飯とか食べてたり?」
「食事を一緒に出来ない事情があるんだ」
河本くんは少しだけ笑う。理由は分からないけれど、まるでそれが幸運なことだと言っているように見えた。
「親愛は食卓からってねー」
「それは逆だと思う。料理が味覚を刺激し食欲が満たされて、それを相手への信頼や安心感と錯覚するんだ」
「すーぐ、そういう空気読まないこと言う~。だから、香辻さんも不安になっちゃうんだよ」
「え? なんでここで香辻さんが出てくるの?」
本気で分からないのか河本くんは怪訝そうに聞き返す。
「今日のお昼に、Vチューバーさんの引退の話したよね」
「もちろん覚えてるよ。三ツ星サギリさんのことだね」
「あの時、河本くんは辞めていく人を引き止めないみたいなこと言ってたけどさ。アレ、香辻さん的にはショックだったんじゃない?」
「そうなの?」
鈍い河本くんに少しばかりイライラして、愛美の口調もヒートアップしていく。
「もし香辻さんが灰姫レラを辞めるって言ったら、河本くんは止めないってことでしょ? プロデューサーにそんなこと言われたらショックに決まってるじゃん」
「香辻さんがそう言ってたの?」
「あたしが勝手に思ってるだけ! あたしが勝手に確認したいだけ! 『推し』のために出来ることして悪い?」
「いや……悪くないよ」
河本くんは嬉しそうに口元を綻ばせる。彼の背後に見え隠れする薄暗い気配が薄まった気がした。
「それで河本くんは? 止めないの?」
「…………今はまだ分からない。これが正直なとこだよ」
すまなそうに首を振る河本くんに、愛美は仕方ないと頷く。
「そっか、うん、今はそれで納得しとく。でも、香辻さんを心配させるような事は許さないからねー」
「うん……夜川さんがナイトテールになってくれてよかった。ありがとう」
そう言って河本くんはスッと頭を下げる。愛美は一息つくと腰に手を当てて、人差し指で河本くんを指差した。
「河本くんはプロデューサーなんだから、どしっと構えてないとさー。自分が悩んでてもそれを態度に出して、香辻さんまで不安にさせないように!」
「はい、肝に銘じます」
珍しくしおらしい河本くんに甘えて、愛美ももう少しだけ調子に乗ることにした。
「香辻さんは自分の悩みは自分で解決しなくっちゃって言ってたけど、抱え込んでるのもよくないと思うんだ。だから、河本くんも手助けしてあげてねー。あたしの言葉じゃ届かなかったからさ」
無力さを言葉に変えた愛美の訴えに、河本くんは真摯な視線を返してくれた。
「分かった。僕に出来ることは全部する」
「頼んだからねー、プロデューサー!」
この人なら、自分には出来ない凄いことを絶対にしてくれる。河本くんにはそういう安心感がある。
不安の塔に囚われている香辻さんを、きっと魔法使いのように連れ出してくれるはずだ。
安心した愛美は置きっぱなしにしてあったリング状の器具を手に取る。
「やっぱりちょっとだけゲームやらしてよ」
フィットネスゲームを少しだけ触らせてもらった。意外に面白かったので、今度スタジオでプレイさせてもらうことにした。ミニゲームもあるので、香辻さん(灰姫レラちゃん)とコラボなんて出来たらさらに盛り上がるかも知れない。
スタジオを出ると空の裾が紅い。夕闇が街を覆い始めていた。ゆっくりし過ぎてしまったと、早足で駅に向かう。帰宅ラッシュで激混みしている改札を抜けて、ちょうど止まっていた電車にするっと乗り込む。
17時を少し過ぎて、目的の駅に到着。ボストンバッグを抱え広大な地下街を駆け抜ける。もう何度も通っているので、最短ルートは分かっていた。
地下街の出口から割と近くに、そのビルはある。建物自体は学校の校舎のような雰囲気があるけれど、入っていく人たちはおじいちゃんおばあちゃんが多くて、年齢層は高めだ。
自動ドアをくぐると、待合ロビーになっている。総合受付と売店、それに外来の診察室の表示が出ていた。
ここは総合病院だ。診療時間は過ぎているので待合ロビーは閑散としていた。受付で手続きをして、首から下げるタイプの面会証を受け取る。
足音が気持ちよく響く廊下を進み、エレベーターで5階へ。看護師さんたちが作業しているナースステーションにご苦労さまですと会釈を残し、病室へ。
ベッドは4つとも埋まっていて、その一つのネームプレートには『夜川希美』と書かれている。
「ママ、来たよー」
愛美がベッドに近づきながら声をかけると、ママは読んでいた本から顔をあげた。
「あらー、今日はマナミちゃんが来てくれたのねー。嬉しいわー」
ママのおっとりとした声に、愛美も自然と笑みが溢れる。もし小学生だったなら、堪らずに抱きついていたかもしれない。
「はい、着替えとか色々だよ~」
運んできたボストンバッグを開いて、愛美は中身を見せる。
「ありがとうねー。わぁ、このカーディガンも持ってきてくれたのね!」
お気に入りのカーディガンに、ママの声が二段階ぐらい大きくなる。
「よく病院の中を歩いてるって、ママ言ってたじゃん。寒い日もあるからと思ってさ」
愛美はベッドサイドの収納からこれまで使っていたママの衣類を取り出し、家から持ってきたモノと交換する。ついでにママが充電を忘れていたタブレット端末もドッグに戻しておく。
「他に何か持って帰るのあるー?」
「大丈夫よー、マナミちゃんが色々と家のことやってくれるから助かるわー」
「パパとユウと協力してやってるから心配しなくていいよー」
「二人は元気かしらー? 涼しくなってきたから風邪引いたりしてない?」
「パパは残業とかでお仕事大変そうだけど元気だよー。ユウは相変わらずゲームばっかしてる」
「そうなのー。マナミちゃんもVチューバーさんを楽しんでるみたいで良かったわー」
もちろんママもV活動の事は知っている。パソコン関係に詳しくないママには説明が大変だったけれど、今は病室でも愛美の様子が見れると嬉しがってくれている。
「うん、学校も配信も毎日いろんな事があって楽しいよ~!」
「いいないいなー。ママもユーチューブに出てみたいわー。他のVチューバーさんみたいにマナミちゃんと一緒にどうかしらねー?」
「えーー、ママは配信中にポロッと『マナミちゃん』って本名言っちゃいそうだからなー」
ママは事業参観の日を間違えて前日に前乗りしてしまったり、自転車で買い物に行って徒歩で帰ってきてしまうぐらいの高レベルうっかりさんだ。
愛美が露骨に渋っても、ママは自信たっぷりだ。
「大丈夫よー。ママはそういうところはしっかりしてるんだからー。ちゃーんとナイトテールちゃんって呼ぶわ! ねー、お願い~~」
子供みたいに愛美の腕を引っ張るママに、愛美は肩を落として息を吐く。
「は~……しょうがないなー。ママが退院したら、そのご褒美に一回だけだよ」
「やったわー、マナミちゃんとユーチューブに出るの楽しみねー。早く退院しないとー」
ママはちょっとだけ痩せた手でベッドをポンポンと叩く。
「次の検査で大丈夫なら、年明けには退院出来るってお医者さんも言ってるんだからさ。あとちょっとの我慢だよー」
「そうよねー……あっ! 検査といえば! マナミちゃんに言おうと思ってたことがあったんだわ」
嬉しそうにぱちんと両手を合わせるママ。
「なにー? 悪い話じゃないよね」
「あのねー、ナイトテールちゃんのこと知ってる女の子と会ったのよー」
「ええっ?! すごい偶然じゃん!」
「そうなのよー。一緒にCT検査を待ってる時に話したの。その娘、とってもVチューバーさんに詳しかったわー」
人懐っこいママは知らない人に話しかけて、すぐに仲良くなってしまう。
「ママ、まさかあたしがナイトテールだって言っちゃったんじゃ……」
お喋りのママならポロッと漏らしていても不思議ではない。
「もうー、ママのこと信用して。ちゃんと我慢したわ。とっても言いたかったけど……」
「配信で出すのはもちろん、知らない人に教えちゃダメだよー」
「でも、とってもいい子だったのよ」
「いい子でもダメなものはダメ! もし次に会っても、シーーだよ!」
「はーーい」
ママは唇を突き出すと不満そうに頬をぷくーっと膨らませる。かなり天然なところもあるママだけれど、約束はちゃんと守ってくれる――はず。
子供っぽくても、ママは経験豊富な大人なのだ。
「そうだ。ママにもさ、他の人には言えないことってあるの?」
「もちろんあるわー。へそくりの場所とかー、パパのラブレター事件とか、いろいろねー」
へそくりは鏡の後ろにはりつけてあるし、パパがラブレターを間違ってママのお父さんに渡してしまった事は姉弟揃って知っている。
「マナミちゃんにもあるでしょ?」
「あるといえばあるけどさ、別に喋っちゃってもいいかなーって思うんだよね」
「そうねー、マナミちゃんは秘密にするのが苦手よね」
ママには言われたくないと思ったけれど、つっこまないでおく。
「でも、そうじゃない友達もいて、悩みや秘密を自分だけで抱え込んだり解決しようとしてる。頼ってくれてもいいのになーって思うんだよね」
「そうねー。ママも頼って欲しかったなって思うこと、いっぱいあったわ……」
ママは一瞬だけ窓の方に視線を外す。照明の加減でほうれい線がいつもより深く見えた。
「もし困ってることがあるならさ、相談して欲しいなって思うなー。そうすれば一緒に考えたりできるのに」
「その人が守ってきたモノ、これまで頑張ってきたモノ……手放してしまったら自分が自分でなくなってしまう。だから簡単には頼れないのよ」
「こだわる気持ちがあってもさ、それで潰れちゃったら……あたしは嫌だな」
ママの言うことも分かるけれど、愛美はどうしても納得できなかった。
「でもね、そういう悩みや葛藤を越えた人はすっごく強くなるのよー。これまでも自分の力で越えてきた人たちだから、強くなれる事を知っていると思うわ」
「さらに強くか~」
「でもね、本当に大変そうで、もうダメになっちゃいそうって時は、マナミちゃんがお友達のこと助けてあげてね」
「うん、もちろんそのつもりだよ。でも、毎日楽しいだけのあたしに、そんな少年漫画みたいな事できるかなー」
香辻さんとも同じような事を話した気がする。
「もちろん出来るわ。マナミちゃんも毎日、強くなっていってるもの」
「えー、そうかな?」
「そうよ。ちょっとずつ成長してるの、ママはちゃーんと見てるわ。ナイトテールちゃんを通してねー」
そう言ってママは、愛美の手を優しく包み込む。
「ありがとー、ママにそう言ってもらえてすっごく嬉しい」
興味だけから始めたVチューバー活動だけれど、離れているママともこうして繋がっていられる。
「Vチューバーやってみてホントによかったー!」
愛美はママの手をしっかりと握り、ユビキリゲンマンするみたいに何度も振って喜んだ。
ママともう少し話していたかったけれど、家事や今晩の配信がある。天然のママからも「あんまり配信に遅刻しないようにねー」と釘を差されてしまったのだから仕方ない。
愛美は軽くなったボストンバッグを手に、病院を後にした。
帰宅ラッシュのピークで電車の中は詰め込みすぎたお弁当箱みたいになっていた。
ボストンバッグと学校の鞄をできるだけ身体に押し付けた愛美は、顔の前のわずかなスペースを使ってスマホをいじる。友達からのメッセージを返したり、ユーチューブに配信の待機所(サムネ未定)を作って告知したりと移動時間を有効活用した。
帰宅はなんとか19時に間に合った。
「ただいまー」
バタバタとキッチンに行くと、ユウが冷蔵庫から出したコーヒー牛乳をパックのまま飲んでいた。
「姉ちゃんおかえりー。ママの様子どうだった?」
「元気だったよ~。今すぐにでも退院したいって駄々こねてた」
荷物を床に放り出して、冷蔵庫を開ける。食材のストックは把握してあるので、夕食の献立はすでに決まっていた。
「すぐに夕飯作るから、ちょい待ちねー」
冷凍庫から取り出した豚肉を電子レンジで急速解凍。ふと下を見ると炊飯器が湯気を立てていた。
「ご飯炊いといたよ」
「あんがとー!」
ユウの炊いてくれたお米を無駄にはしないと、さっそく料理に取り掛かる。
玉ねぎとキャベツ、人参、ニンニクひと欠片をさくっと切る。電子レンジから取り出した豚肉は半解凍ぐらいだけど気にせず切って、軽く塩コショウ、油を敷いたフライパンでニンニクのみじん切りと一緒に炒めていく。そこに硬い野菜から順番に加えていって、火が通ったところで鶏ガラスープの素とオイスターソースで適度に味付け。
一口味見。ちょっと味が薄かったので、醤油を追加。もう一度味見。今度はバッチリだ。
自分とユウとパパ、三人分をお皿に分ける。
「ユウ、ご飯できたよー」
呼ぶとすぐにお腹を空かせていた弟が飛んできた。愛美が言う前にお茶碗を用意してご飯をよそり始める。
「姉ちゃんは?」
「時間無いから、配信終わってから食べるー!」
シンクの洗い物に手を付けようとしていると――。
「おれが片付けしとくから、早く準備したら?」
「助かる!」
ユウの言葉に甘えて自室へ。
パソコンが立ち上がるまでの時間で、マイクやカメラをセットする。
「急げ急げー!」
自分を急かし、超特急でサムネイル画像を作っていく。
事前告知に使った画像があるので、それを元に少し改造を加えていく。ナイトテールの立ち絵とタイトルを変えるだけだ。画像加工アプリに登録してある立ち絵一覧から真剣な顔を選んで背景に合成。タイトルの文字を入れて位置を調整。フリーフォントで恋愛ゲームっぽいものを選んで、さらにガウスをかけて印象を変える。
「あああ! ゲームの準備わすれてるっ! これ、間に合わないやつじゃん!」
リマインダーに設定した開始時刻の20時になり、ユーチューブ上ではカウントダウンが終わった。デフォルト設定の待機画面に『ナイトテールを待っています』と表示されてしまう。
コメント欄では〈待機〉の文字が踊っている。すでに100人以上が配信を待っていた。
〈10分遅れるよー!〉
〈了〉
〈了!〉
〈ゆっくりでいいよー〉
リスナーさんたちに甘えた10分間でゲーム配信の設定を済ませる。事前にテストはしてあるけれど、リスナーさんの前では初めてプレイする。もしかしたら、途中でパソコンやゲーム自体が止まってしまったりするかも知れないけれど――。
「その時はその時だよね~」
マイクをスイッチオン、
OBSのインジケータが左右に揺れるのをチェック、
最後に放送開始ボタンをクリック。
「ちぃっすー! こんしっぽ~」
〈こんしっぽ~〉
〈こんしっぽ~〉
〈こんしっぽーーーー〉
いつもの挨拶から配信が始まる。
「待たせちゃってごめんねー」
〈OK〉
〈いいよー〉
「昨日言った通り、恋愛ゲームをやっていくよー。タイトルはマシュマロでもリクエストが、たーーっくさん来ていたこれっ!」
可愛い女子高生のイラストが描かれたゲームのパッケージ画像を表示する。
「『アマキス』だよーー!」
〈おおおお!〉
〈アマキスは人生〉
〈待ってました!〉
〈名作キターー!〉
〈誰を攻略するのか楽しみ!〉
「恋愛相談マスターとして、必ずメインヒロインといい感じにハッピーエンド迎えちゃうからねー!」
宣言するナイトテールにコメント欄も大盛り上がり。
「それじゃ、いっくよー! ゲームスタート!」
今日も楽しい配信になりそうだ!
『とあるVチューバーの日常24h+10分』
~おしまい~
――そして物語は#10へ続く。
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一日が終わり、
また次の一日が始まる。
次回からは香辻さんが、
自身の悩みと向きあっていきます。
そして河本くんも――。
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