第1話 鶯宿梅

文字数 1,336文字

法吉(ほうき)、法吉や」
 ようやく夜が明けたばかりの肌寒い朝の庭で、下女が男児(おのこ)を呼ぶ声がする。

 法吉と呼ばれた男児は、美しく整えられた庭の白梅の木の前で、膨らんだ花芽を満足げに眺めていた。ようやく十になったばかりの男児は日頃から熱心にこの梅の木の手入れをしながら、花が咲くのを心待ちにしているのだった。

 そのために(くりや)の仕事を放り出すこともしばしばで、下働きの大人たちに見咎められるのも毎日のことだったが、法吉が熱心に梅の開花を待ちわびる様を知る大人たちも呆れ顔で見逃してやるのだった。

 そうして毎日、今か今かと梅の木の前で枝を眺めている法吉の話はこの屋敷の主人である紀内侍(きのないし)の耳にも入ることとなった。
 内侍は亡き父親との思い出の残るこの梅の木を大切に思い、また心の優しい主人であったので、法吉の話を聞いて好きにさせてやるように計らった。

 いよいよ梅の蕾も膨らみ、花開くのもあと幾日かと思われたその同じ頃、内裏では帝がたいそう大事にしておられた梅の古木の枝が朽ちてしまい、どうにか帝をお慰めしようと多くの殿上人が方々へと梅の銘木を探し歩いていた。そんな中、内侍の屋敷の白梅の木が評判であることを聞きつけた大臣の遣いが内侍の元へ訪ねてきた。
 
 折り悪しく床に臥せていた内侍は、庭が騒がしいのを聞きつけて側仕えの女房(にょうぼう)に問うた。すると女房は震えながら大臣の遣いという武士(もののふ)が庭の梅の木を掘り起こしていることを伝えた。
 
 驚いた内侍が庭に面した東の(たい)御簾(みす)をあげて見ると、恐ろしい武士たちが梅の木の根元を掘り返し、今にも梅の木は倒れてしまいそうな有り様だった。

 内侍は気丈にも武士に問うた。

「この有り様は一体どうしたことか」

 すると武士は答えて言った。

(ちょく)である」

 そうしてみるみる梅の木が掘り返されるところへ法吉が武士の間を割って入ってきた。

「この梅の木に触れるな」

 法吉は梅の木を庇って武士の前に立ちはだかった。すると武士は腰に佩いた太刀を抜くと法吉に斬りかかった。
 
 声もなく法吉はくずれ落ち、その細い首からは赤い血潮が吹き出して辺りを濡らした。

 下女や女房らの悲鳴が響き渡るなか、武士たちは掘り返した梅の木を担いで屋敷を後にした。
 
 内侍は(かたわら)文机(ふづくえ)の上の料紙(りょうし)を握りしめて倒れ、女房が慌てて抱き起こすとその料紙には紅い染みが点々と散っていた。

 やがて寒さも和らぐ春の頃、内裏では美しい梅の木を帝が愛でておられた。庭に降り立ち、間近に見るその梅の花は世にも見事な紅梅であった。たいそう満足された帝は大臣に褒美を賜ると伝え、大臣はそれを喜んだ。
 
 そうして美しい紅梅の木を愛でているところへ、さる屋敷の主人からと、帝への文が届けられた。それはたいへん上等な料紙に描かれた紅梅と、美しい筆跡()による歌であった。


勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はばいかが答へん

《帝の命とあらば謹んで梅の木は差し上げますが、もしも鶯がやってきて宿はと問うたならなんと答えればよいのでしょう》


 それをご覧になって帝は驚かれ、大臣に問い、この梅の木が紀内侍の屋敷から掘り返された物であると知ると、それを残念に思い悔やまれた。

 その後も梅の木は毎年見事な赤い花を咲かせ続け、法吉鳥は愛した梅の枝を求めて春の庭に囀る。

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