やっつめ
文字数 2,000文字
道行く大衆のほとんどは、日常に入り込んだ異物を認識しつつも、芽生えた関心を意識的に抑えることを選択した。生活のために通るいつもの道。そこに見知らぬ誰かが力なく座り込んでいても、誰もが手を差し伸べる余裕があるとは限らない。
親切心に富む、あるいは罪悪感に敏感な幾人かは声を掛ける。一定数の決断を後押ししたのは、一見して浮浪者の類でないことが明らかな点であろう。ただ居住するためだけに払うべき金額さえ決して安くない街。道に直接座る人物自体が稀だが、それが身なりの整った何者であることは2重の意味で奇異な出来事であった。非日常の象徴である彼は、掛けられる言葉に僅かな反応を示す。
「彼」と称するのは、もちろん当該人物が男性だからである。しかし同時に「おそらくは」と付けたくなる程度に中性的な要素を含んでいる。金髪碧眼にして、顔立ちは美術品のそれと形容しても差し支えない。年齢は、少年とも青年とも表現しうるだろう。青っぽさと成熟の境界に漂う、端的に言えば、完成度が高い生命体。
身に纏う純白の衣類は、上品な光沢を放っている。収納という実用的な機能性に無頓着な、しばしば創作物に登場するローブに類するものを思わせる衣服。所持品と呼べるのは唯一、首から下げたカメラだけだった。
いつもの職場。周囲に人がいないことを確認し、ファインダーを覗きこむ。
そこには、極彩色の世界が広がっている。大地は黄金色に輝き、立ち並ぶ楼閣や木々さえも七色の宝石で飾り立てられている。認識するためには目を凝らす必要があるほどに澄み切った水を湛える池の水面に、色とりどりの花が幾輪となく咲き誇る。全ての住人の穏やかな表情は、一切の迷いや苦悩からの解放された地であることを雄弁に語っていた。
何かを撮ることはできないが、望むものを観ることができるというカメラ。偶然に会った男から、「きっと同郷だから」という奇妙な理由で譲り受けたものだ(確かに、なぜか服装は似ていたが)。この道具を手に入れて以来、すっかり魅了された自分がいる。
最近では、聞こえるはずのない音さえもがレンズ越しに聞こえてくる。流れるような音の上下。人々の紡ぐ祈りの言葉。華美なオルガンの音に導かれる讃美歌とは異なる、アクセントが明確でない東洋独特の神秘的な響きが――
「おい」
ふと背後から掛けられた声に、耽溺から引き戻された。
「そろそろいい加減、務めを果たさないと……」
振り返ると、同僚が僅かな怒気と心配の混在した表情で立っていた。寄った眉根から言い淀んだ先も理解できる。主から暇を出されるぞ、と警告してくれているのだろう。
「分かっている。すぐに行く」
本心の伴わない言葉で取り繕うと、優しい同期は去っていった。確かに、指摘されることも無理はない。近頃、まるで職務に身が入っていないことは事実だった。
幸か不幸か、この職場の仕事は絶えることがない。今日もここに連れてくるべき客人が無数にいる。やるべきことを理解しつつも、誘惑に打ち勝つことができなかった。
再度、ファインダーを覗く。聞いたところでは、遥か西方にあるという世界。恍惚に溶ける己を感じつつ、ふと、とある単語が脳裏に浮かんだ。曰く、理想郷を意味するという。
「ユートピア」
言葉が無意識に口を突いて出ていたことに、発してから気が付いた。そして同時に、意識はそこで途絶えた。
大いなるものは静かに顧みる。人類の少なくない割合から頭文字を大文字で表現される彼は、改めて下した判断について反芻した。判断自体は極めて妥当であったはずだと、創生以来蓄積された経験が直感的に告げていた。
堕とさざるを得なかったことは間違いない。至上性に疑いを持ったまま、務められるものではないのだから。
創造主は思考を続けた。一般名詞に定冠詞を付けることが許される数少ない者が考えを巡らせるのは、その背景であった。罰するには、それに足る罪がある。問題は罪に必然的に伴う、動機の部分だった。
職務の放棄は副次的に生じたものに過ぎない。真に問うべきは彼の地への想いだが、嫉妬として断じるにはあまりに純粋すぎた。
父なる存在は自問する。周囲の御使いたちは仲間の一人を喪った悲しみより、むしろ主人に同情を禁じえなかった。その沈痛な表情に、寛大な御心に傷痕が残ることを憂いた。しかし彼が自らに問うているのは、規定更新の是非という統治者としての実務的発想だった。
決して犯すべからざる7つに、新たな項目を書き加えるべきか?与えられる幸福をただ享受し続けながら、自身の境遇に無自覚である罪。即ち――『鈍感』と。
意識が浮上する。ここがどこかを認識するよりも、自分が何者かを理解する方が早かった。背にあるはずのものがなくなっていたから。
カメラは変わらず手元にある。だが最早、ファインダーを覗く気にはなれなかった。何か、ひどく嫌な予感だけがあった。
親切心に富む、あるいは罪悪感に敏感な幾人かは声を掛ける。一定数の決断を後押ししたのは、一見して浮浪者の類でないことが明らかな点であろう。ただ居住するためだけに払うべき金額さえ決して安くない街。道に直接座る人物自体が稀だが、それが身なりの整った何者であることは2重の意味で奇異な出来事であった。非日常の象徴である彼は、掛けられる言葉に僅かな反応を示す。
「彼」と称するのは、もちろん当該人物が男性だからである。しかし同時に「おそらくは」と付けたくなる程度に中性的な要素を含んでいる。金髪碧眼にして、顔立ちは美術品のそれと形容しても差し支えない。年齢は、少年とも青年とも表現しうるだろう。青っぽさと成熟の境界に漂う、端的に言えば、完成度が高い生命体。
身に纏う純白の衣類は、上品な光沢を放っている。収納という実用的な機能性に無頓着な、しばしば創作物に登場するローブに類するものを思わせる衣服。所持品と呼べるのは唯一、首から下げたカメラだけだった。
いつもの職場。周囲に人がいないことを確認し、ファインダーを覗きこむ。
そこには、極彩色の世界が広がっている。大地は黄金色に輝き、立ち並ぶ楼閣や木々さえも七色の宝石で飾り立てられている。認識するためには目を凝らす必要があるほどに澄み切った水を湛える池の水面に、色とりどりの花が幾輪となく咲き誇る。全ての住人の穏やかな表情は、一切の迷いや苦悩からの解放された地であることを雄弁に語っていた。
何かを撮ることはできないが、望むものを観ることができるというカメラ。偶然に会った男から、「きっと同郷だから」という奇妙な理由で譲り受けたものだ(確かに、なぜか服装は似ていたが)。この道具を手に入れて以来、すっかり魅了された自分がいる。
最近では、聞こえるはずのない音さえもがレンズ越しに聞こえてくる。流れるような音の上下。人々の紡ぐ祈りの言葉。華美なオルガンの音に導かれる讃美歌とは異なる、アクセントが明確でない東洋独特の神秘的な響きが――
「おい」
ふと背後から掛けられた声に、耽溺から引き戻された。
「そろそろいい加減、務めを果たさないと……」
振り返ると、同僚が僅かな怒気と心配の混在した表情で立っていた。寄った眉根から言い淀んだ先も理解できる。主から暇を出されるぞ、と警告してくれているのだろう。
「分かっている。すぐに行く」
本心の伴わない言葉で取り繕うと、優しい同期は去っていった。確かに、指摘されることも無理はない。近頃、まるで職務に身が入っていないことは事実だった。
幸か不幸か、この職場の仕事は絶えることがない。今日もここに連れてくるべき客人が無数にいる。やるべきことを理解しつつも、誘惑に打ち勝つことができなかった。
再度、ファインダーを覗く。聞いたところでは、遥か西方にあるという世界。恍惚に溶ける己を感じつつ、ふと、とある単語が脳裏に浮かんだ。曰く、理想郷を意味するという。
「ユートピア」
言葉が無意識に口を突いて出ていたことに、発してから気が付いた。そして同時に、意識はそこで途絶えた。
大いなるものは静かに顧みる。人類の少なくない割合から頭文字を大文字で表現される彼は、改めて下した判断について反芻した。判断自体は極めて妥当であったはずだと、創生以来蓄積された経験が直感的に告げていた。
堕とさざるを得なかったことは間違いない。至上性に疑いを持ったまま、務められるものではないのだから。
創造主は思考を続けた。一般名詞に定冠詞を付けることが許される数少ない者が考えを巡らせるのは、その背景であった。罰するには、それに足る罪がある。問題は罪に必然的に伴う、動機の部分だった。
職務の放棄は副次的に生じたものに過ぎない。真に問うべきは彼の地への想いだが、嫉妬として断じるにはあまりに純粋すぎた。
父なる存在は自問する。周囲の御使いたちは仲間の一人を喪った悲しみより、むしろ主人に同情を禁じえなかった。その沈痛な表情に、寛大な御心に傷痕が残ることを憂いた。しかし彼が自らに問うているのは、規定更新の是非という統治者としての実務的発想だった。
決して犯すべからざる7つに、新たな項目を書き加えるべきか?与えられる幸福をただ享受し続けながら、自身の境遇に無自覚である罪。即ち――『鈍感』と。
意識が浮上する。ここがどこかを認識するよりも、自分が何者かを理解する方が早かった。背にあるはずのものがなくなっていたから。
カメラは変わらず手元にある。だが最早、ファインダーを覗く気にはなれなかった。何か、ひどく嫌な予感だけがあった。