チーズタルト

文字数 1,453文字

 いきなりの会釈だった。

 私は丸の内の地下にあるグランスタでBAKEの行列に並んでいた。
 職場でのじゃんけんに負けて、部署の女性の数だけチーズタルトを買いに行くことになったのだ。
 代金は上司が出してくれたものの、夜のアポイントの準備もしておきたかったし、午後にこなしたプレゼン資料の修正もしておきたかった。
 そんな感じで、少しふてくされている時に受けた、いきなりの会釈だった。

 彼女とどこかで会ったような気がするけれど、はっきりとは思い出せない。
 タイプだったから、いつもなら忘れるはずがなかった。
 それでも、はっきりと思い出せないということは、忘れたい人だったのだろう。

 私は行列とは逆方向に向かっていた彼女に会釈を返した。
 そのまま歩き去ってくれると思ったら、彼女がヒールの踵を軽快に鳴らしながら近づいてきた。

「行列、嫌いじゃなかったでしたっけ?」
「そうですけど…」
「もしかして、覚えてないです? 私のこと」

 顔に出てしまっていたらしい。
 私は慌てて首を振り、その姿を見た彼女が笑うのを見て、諦めた。

「ごめんなさい。実は思い出せなくて」
「それはそれは」

 彼女はニヤニヤしながら私の顔を見ていた。
 列が少しだけ前に進むと、彼女は私から後ろに並んでいる人たちに「割り込みではないんです。すぐ離れますので」と頭を下げてから、私の隣に並んだ。

「これでも思い出せない?」

 そう言いながら、いきなり腕を組んで来る。
 私は自分の腕がビクッとなったことに驚きながら彼女を見た。

「やっぱり思い出せない? それとも思い出したくない?」

 可愛かった。
 ヒールを履いても、少し見下ろす高さにある彼女の顔。
 ほんのりと焼けた肌。
 勢いよく上げたまつげ。
 どれもこれも可愛かった。

「少しずつ思い出したいんだけど、ダメですか?」
「仕方ないですね」

 彼女が私の後ろに並んでいた人たちに会釈しながら立ち去ろうとした。

「あ、待って」
「ん?」
「ヒント、欲しいかも」

 彼女は、またニヤニヤしながら私の顔を見て、私の背中を何度かさすった。

 思い出した。

 池袋のバーで飲み過ぎた帰り、駅に向かうまでの間に持たなくて、途中のカラオケ屋のトイレに駆け込んで吐いた。
 会計も店員への対処もすべて引き受けてくれた人がいた。
 タクシーが運悪く行列で、私を支えながら一緒に待ってくれた彼女に「行列は嫌いだ」と繰り返し言った。
 そして、私をタクシーに乗せた後、窓越しに会釈してくれた彼女のニヤニヤした顔を、はっきりと思い出した。

「あっ! あの!」

 私から離れる彼女に手を伸ばそうとすると、私の順番が回って来てしまった。
 彼女は、あたふたする私を見ながら列を離れていく。
 連絡先だけでも交換したい。
 謝りたいし、抱きしめたいし、キスしたい。
 私はどうしたらいいか分からなくなっていた。

「何個、必要なんですか?」

 後ろで待っていた人に、いきなり声を掛けられた。

「え?」
「私、代わりに買うから、五分以内に戻って来てください」
「あ、じゃあ、十二個お願いします。すみません」
「いや、すごくいい子だったからね、彼女。頑張って」
「ありがとうございます!」

 私は、後ろに並んでいた人たちの生暖かい視線を受けながら列を離れた。
 すでに小さくなりつつある彼女の背中に向けて、大きく一歩を踏み出していった。





<完>

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