第9話 できるかな
文字数 1,636文字
「人間に変わる前に言っておくことがある」覚悟を求めるような万年様の目に、僕はごくりとつばを飲み込み頷いた。
「その姿は半日とは持たぬ。無理をすればお前の心の臓は痙攣 を起こし、肺は破れるじゃろう。たとえ人間に変わったとて、それを動かすのは人間よりはるかに小さいお前なのだからな」
ツツジの植え込みの下で日差しを斑 に浴びた万年様の顔は、話の内容と相まってより恐ろしく見える。
「し、死ぬのですか⁉」僕の尻尾は勝手に丸まり、ひげは後ろに寝てしまった。
「無理をすればじゃ。わしの元へ戻らずほっつき歩いていれば、やがてそうなる。できれば日が暮れる前に帰ってこい。人間は夜目も利かんからの。そうじゃな、駅に近いから小学校の門の上で待っておる。ばばがわしをうんち呼ばわりしたあそこな」
「僕はどこへ行けばよいのですか? どこに行けば鈴音さんに会えますか? 何をすればいいのですか?」
「やいのやいの言うな、心配は無用じゃ。わしの術で人間に変われば、すべてはわかる。それともうひとつ、お前にとって驚くべきことが起こる」
「驚くべきことですか?」
「そうじゃ。人間の目から見る世界は極彩色だからじゃ」
「ごくさいしき、とは何でしょうか」
「それはそれは鮮やかな色とりどりの世界じゃ。人間の目というのは素晴らしい。あとはまあ、自分の目で確かめろ。財布の中にお金も入れておく。Suicaもな」
万年様は鷹揚 に頷いた。
「お金? 使い方が分かりません。単位も分かりません。すいかって何ですか?」
「心配性じゃな」万年様がほとほと呆れた顔をした。「心配はいらんというておろうが」
僕は頷かざるを得なかった。
「さて、ゆくぞ」
「あ、はい!」
「名付けて」
「名付けて!」
「できるかな」
「できるかな!」
「なんで繰り返す。余計なことはせんでいい」
「あ、はい、ついつい気合が入ってしまって」
「さ、わしの目を見よ。よいか、行くぞ」
「はい」
万年様が不思議な歌を歌い始めた。
でっきるかな♪ でっきるかな♪
自分の術に疑問を持っているようにしか聞こえないのは気のせいだろうか。ほんとに大丈夫だろうか。
と、その時だった。
吸い込まれてゆく。グルグルと渦を巻いて、万年様の目に吸い込まれてゆく。
僕の顔よりも大きい万年様の目が目前に迫る。その瞳の中に僕が映る。
そしてふいに、万年様が遠ざかる。どんどん遠ざかる。小さく見える。下に見える。
両耳をものすごい音が通り過ぎ、何かが顔を激しく叩いていく。思わず覆 った手をゆっくりと外した。日差しが眩しい。
僕はツツジの植え込みを突き抜けていたのだ。手のひらを見た。人間になった! ほんとうに、人間になった!
なんて明るいんだ。なんて眩しいんだ。そして、この世界は、なんて美しいんだ。人間の目というのは、こんなにも遠くまではっきりと見えるのか。
植込みを抜けて道路に立った。美しい。何もかもが鮮明すぎる。僕たち猫の目がいかにぼやけていたのかに気づかされる。
万年様と千年おばば様が追いかけてきた。
にゃご。
彼らの言葉は、人間になった僕には、もう通じなくなっていた。
そしてもうひとつ気づいていた。彼氏の名前も、今はどこに行けば涼音さんに会えるのかも、何を語るべきかもわかっていることに。
涼音さんのお目当ても分かる。ニューバランスのスニーカー CM997H。彼女にしては思い切った買い物だ。値段もそうだけど、趣向が。
ふわふわワンピース乙女は、自ら生まれ変わろうとしていた。行けイケ涼音!
目指すはABCマート!
いざ、出陣!
「その姿は半日とは持たぬ。無理をすればお前の心の臓は
ツツジの植え込みの下で日差しを
「し、死ぬのですか⁉」僕の尻尾は勝手に丸まり、ひげは後ろに寝てしまった。
「無理をすればじゃ。わしの元へ戻らずほっつき歩いていれば、やがてそうなる。できれば日が暮れる前に帰ってこい。人間は夜目も利かんからの。そうじゃな、駅に近いから小学校の門の上で待っておる。ばばがわしをうんち呼ばわりしたあそこな」
「僕はどこへ行けばよいのですか? どこに行けば鈴音さんに会えますか? 何をすればいいのですか?」
「やいのやいの言うな、心配は無用じゃ。わしの術で人間に変われば、すべてはわかる。それともうひとつ、お前にとって驚くべきことが起こる」
「驚くべきことですか?」
「そうじゃ。人間の目から見る世界は極彩色だからじゃ」
「ごくさいしき、とは何でしょうか」
「それはそれは鮮やかな色とりどりの世界じゃ。人間の目というのは素晴らしい。あとはまあ、自分の目で確かめろ。財布の中にお金も入れておく。Suicaもな」
万年様は
「お金? 使い方が分かりません。単位も分かりません。すいかって何ですか?」
「心配性じゃな」万年様がほとほと呆れた顔をした。「心配はいらんというておろうが」
僕は頷かざるを得なかった。
「さて、ゆくぞ」
「あ、はい!」
「名付けて」
「名付けて!」
「できるかな」
「できるかな!」
「なんで繰り返す。余計なことはせんでいい」
「あ、はい、ついつい気合が入ってしまって」
「さ、わしの目を見よ。よいか、行くぞ」
「はい」
万年様が不思議な歌を歌い始めた。
でっきるかな♪ でっきるかな♪
自分の術に疑問を持っているようにしか聞こえないのは気のせいだろうか。ほんとに大丈夫だろうか。
と、その時だった。
吸い込まれてゆく。グルグルと渦を巻いて、万年様の目に吸い込まれてゆく。
僕の顔よりも大きい万年様の目が目前に迫る。その瞳の中に僕が映る。
そしてふいに、万年様が遠ざかる。どんどん遠ざかる。小さく見える。下に見える。
両耳をものすごい音が通り過ぎ、何かが顔を激しく叩いていく。思わず
僕はツツジの植え込みを突き抜けていたのだ。手のひらを見た。人間になった! ほんとうに、人間になった!
なんて明るいんだ。なんて眩しいんだ。そして、この世界は、なんて美しいんだ。人間の目というのは、こんなにも遠くまではっきりと見えるのか。
植込みを抜けて道路に立った。美しい。何もかもが鮮明すぎる。僕たち猫の目がいかにぼやけていたのかに気づかされる。
万年様と千年おばば様が追いかけてきた。
にゃご。
彼らの言葉は、人間になった僕には、もう通じなくなっていた。
そしてもうひとつ気づいていた。彼氏の名前も、今はどこに行けば涼音さんに会えるのかも、何を語るべきかもわかっていることに。
涼音さんのお目当ても分かる。ニューバランスのスニーカー CM997H。彼女にしては思い切った買い物だ。値段もそうだけど、趣向が。
ふわふわワンピース乙女は、自ら生まれ変わろうとしていた。行けイケ涼音!
目指すはABCマート!
いざ、出陣!