第15話 避難指示 Evacuation Order

文字数 2,541文字

 10月12日に台風がやってきた。私の学生寮は多摩川下流域に立地する。川からは数キロメートル離れたところなので、特に困る事はないと思っていたのだが、意外と安心できない地域だということが後になって分かった。
 隣駅は多摩川に近く、最近人気のエリアである。しかし、その駅と周辺に林立するマンションが冠水してしまった。下水道がパンクするなど、かなりの被害を受けたらしい。
私の住んでいる学生寮はそこから1-2kmのところにあるが、特に被害はなかった。どこがセーフでどこがアウトかは、その場所が高いか低いかにかかっている。

 後になって父に聞いた話では、父の生家は大きな湖を抱える地方都市にあり、大雨が降ると湖の周辺では広いエリアで冠水してしまうらしい。そこは山に囲まれた盆地で、湖に流入する河川は数多いのに対して、湖水の出口となる川が一つしかない。大雨になると流入量と排水量のバランスが取れなくなってしまうのだ。
 いったん増水が始まると低いところの家から次第に冠水が始まる。道路面は水に浸かって見えなくなり、それが刻一刻と近づいてくる。しかし、生家に向かって近づいてくる水面はいつでもすんでの所まで来ると止まり、一度も冠水した事はないのだそうだ。同じ道路沿いにある近所の家が冠水して大変な目にあうのを見ると、たまたま少しだけ高いところに家がある幸運を感しる一方、低い位置の家に対しては申し訳ない気持ちになったそうだ。浸水してしまった家は本当に大変らしい。特に床上浸水となると、ただ事ではない。

 私の生家は東京である。両親と姉の3人が住む家のすぐ近くには、多摩川の支流が走っている。支流と言っても非常に立派な川で、一番近いところにある橋は150メートルくらいもあり、川面から10メートル以上の高さがあるように見える。以前は氾濫を繰り返していた川らしく、はっきりと河岸段丘と分かる場所もあるが、近年は治水工事が進み、立派な堤防ができている。私たち一家が住み始めてから何度となく大雨の時はあったが、広い川幅と高い堤防のおかげで、氾濫の危険を感じた事は一度もなかった。
 今年の台風の時も大した事はないだろうと思ったが、後になって父から聞いた話では、今回ばかりは、いっとき氾濫を覚悟したそうだ。これまで、避難勧告さえも出た事がなかった地域で、まさかの避難指示が出た。避難指示は基本的には全員避難せよという意味になっているのだが、近隣の住民は初めての事で意識統一もされておらず、避難する人と待機する人といたらしい。両親と姉は人生初めての避難をしたそうだ。堤防決壊とか氾濫とかが起こった場合は、床下浸水、床上浸水、もっとひどい場合は家が決壊したり、流されたりする事も起こりうるのだが、幸い堤防の決壊や河川の氾濫という事態は発生せず、実質的な被害は何もなかったそうだ。
 しかし、今回の台風では、これまでにない地域で水害が発生した。例年耳にしていたのは、西日本のどこかが被害にあるというものだったが、今年は東日本の地域で降水量が増えるというこれまでにないパターンだった。福島県の阿武隈川や日本一長い河川として有名な信濃川上流の千曲川で堤防が決壊するなど大規模な水害が発生した。
 電話越しの父が言うには、「こんなの、生まれてこのかた初めてだよ」 なのだそうだ。千曲川の水害を調べてみると、1742年(寛保2年)に大規模な水害があり数千人が命を落とすという被害があったらしい。当時の治水技術は現代とはくらべものにならないが、相当な被害であった事には間違いない。当時の記録によれば、近畿や中部地方で河川が氾濫、その後、江戸や信州でも水害が起き、千曲川沿いの大水害、利根川や荒川、多摩川でも洪水が発生して関東で大きな被害があったそうだ。もしかしたら、この規模はそれ以来の被害だろうか。東日本でこれほどの水害は私も聞いた事がない。

「おとう、何にもなくて良かったね」
「ああ、なんたって、人生初の避難だからな。まいったよ」
「避難所ってどうだったの?」
「うん、由理奈の卒業した中学へ避難したんだよ」
「え? すぐ近くの小学校じゃなかったの?」
「小学校は、川の近くで低い位置にあるから、そこは避難指示を受ける地域だよ。洪水になったら、小学校も床上浸水だろう」
「そっかあ。徒歩3分だからすぐなのにね」
「ま、しょうがないよ。中学は少し遠いけど、高台だから水害には強いな」
「そうだよね。でも、徒歩25分、寝坊の日は急いで15分だったよ、自分の場合」
「ああ、お父さんもね、歩いたら遠いなって覚悟したんだけど、車で避難すればいいんだってさ」
「あ、そうなの?」
「うん、あんなヒドい雨の中を歩いて避難するなんて考えられないだろ?」
「それはそうだね。そうか、車でいいんだ」
「ああ、だから、体育館へは行かずに、車の中でずっとラジオを聞いていたんだ」
「おかあとお姉ちゃんと?」
「そう、3人で」
「キャンピングカーでしょ?」
「ああ、勿論そうだよ」

 家には2台の車があって、普通の乗用車と、キャンピング仕様の大きいワゴンがある。家ではキャンピングカーと呼んでいる。姉と私が小学校の頃までは、よく4人でキャンプに出かけ、フルフラットになるキャンピングカーの中で寝泊まりしたものだ。私が中学生になった頃には、あまりそういう機会はなくなってしまったが、家族でのキャンプは楽しい思い出であった。
 最近では、父が一人旅の車中泊に使っているらしい。時には母と二人で出かける事もあるようで、今年のゴールデンウィークにはキャンピングカーで車中泊をしながら二人で奈良と淡路島へ行っていた。
 キャンピングカーについては、普通の車よりも高額だった事から、全員でキャンプに行かなくなった時期は、「おとう、何でこんな高い車買っちゃったんだよ」 とからかい気味に責める事があったが、今になると、「災害時には威力を発揮しそうだぞ」という父の言葉が現実味を帯びてきた。実際、避難所となった体育館を見てきた母と姉は、「多くの避難者がいたけれど、あんな硬い床の上で寝るなんて大変よ。キャンピングカーで良かった」 と言っていた。
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登場人物紹介

名前:由理奈(ゆりな)

誕生:2001年2月25日 東京生まれ 

2020年のステータス:大学生

趣味:キーパーを抜いてシュート

おとう(由理奈の父)

1957年 地方都市生まれ

海外在住歴10年(アメリカ6年、ドイツ4年)

現在は一人会社の社長

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