第50話 王族殺し2
文字数 2,454文字
1804年3月10日に行われた政府首脳会議が行われた。
出席者は、
外務大臣タレイラン
大法官・法務大臣レニエ
国務院議員レアル(警察担当)※
元老院議員フーシェ※
第二執政カンバセレス
第三執政ルグラン
パリ守備隊総司令官ミュラ
※1802年5月、ボナパルトはいろいろ知り過ぎた警察大臣のフーシェを解任する為に警察省を廃止し、フーシェは元老院議員にした。同時に、国務大臣のレアルが警察を担当することになった。警察省が復活しフーシェが警察大臣に再任されたのは1804年7月
パリ東方のヴァンセンヌ城砦(ここで軍事裁判と処刑が行われた)に移送される途中、アンギャン公は何度か脱走を仄めかされたが、いずれも拒否した。潔白であるがゆえに、彼は自分の釈放を疑わなかったのだ。
5日後の深夜、監獄で開かれた臨時法廷で、公は、暗殺容疑を否認した。適用条文も示されぬまま、死刑判決が下され、アンギャン公は、逮捕された時の狩猟服を着たまま、即座に銃殺された。
その際、公は、目隠しを拒んだという。
なお彼がシャルロットに書き残した手紙はパリへ運ばれ、彼女の手には届かなかった。処刑寸前に髪の毛を切り取り、短信とともに封入した封筒も。
こうして、ナポレオンは、ジャコバン派と同じく、王族殺しの罪を担うことになった。
王族の多くが血縁関係で繋がっているヨーロッパで、これは、致命的な失策だった。
上の会議の模様ですけど……
この後、ブルボン王朝の復活もあり、各人がいろんなことを言い、ナポレオン初め皆様がいろんな言い訳をされているので、確かなことはわかりません。
ただ、ナポレオンが初めからアンギャン公を殺す気まんまんだったこと、タレイランとフーシェが乗り気だったことは間違いないと私は思います。そして、法の権化、カンバセレスは頑張って反対した模様です。
なお、ミュラというのはあのミュラですが、彼は、よくわかっていなかったんじゃないでしょうか……。
その後、第一執政直属の精鋭憲兵隊司令官はサヴァリでしたが、彼が分遣隊を率いてヴァンセンヌ城砦へ向かい、軍事法廷を守護・そして刑の執行を見守る役目を負います。ボナパルトにくそ忠実なサヴァリは、刑の延期を、とためらう特別軍事法廷裁判長ユランに対し、即時執行を主張します。
ところでこのサヴァリ、マレンゴでドゼが死ぬまで彼の副官だったんですよね……。
以下に、48話「地獄の仕掛け事件2」の内容をふまえ、まとめておきます。
1804年、ピシュグリュ、カドゥーダルはフランスに帰国し、王弟アルトワ伯を迎える準備を始めます(アルトワ伯はイギリスに滞在、援助を受けていました)。その足掛かりとして軍を掌握する為に、ピシュグリュは、かつての部下、モローに二度に亙り協力を求めますが、モローはこれを拒否します。
(エジプトから帰っていたボナパルトがマレンゴで勝利した一方、ドイツ方面で勝利を齎したのは、モローでした → 37話「ホーエンリンデンの戦い」。モローは、ボナパルトに比肩しうる、軍の実力者だったわけです)
しかし彼らの行動は、密偵の活躍により、執政政府に筒抜けでした
以下にこの年の大まかな年表を掲げておきます
2.15 モロー逮捕(国外追放)
2.28 ピシュグリュ逮捕(4.5 牢で不審死)
3. 9 カドゥーダル逮捕(6.25 死刑)
3.15 アンギャン公逮捕(正式な裁判を経ず、3.21 処刑)
こうして反乱分子を一網打尽にしたナポレオンは(ただし、モローとアンギャン公は冤罪です)、この年の終わり(12.2)に、戴冠し、皇帝を名乗ります
詳細をまとめました