おまけ 革命戦争とは何か 1
文字数 1,652文字
フランス革命については、39話の後の、「おまけ 革命の流れ」で、簡単にまとめてみました。
ここでは、革命戦争とはどういうものだったか、簡単にみてみたいと思います。
例によってご存じの方は、飛ばして、先へお進み下さい。
1791年8月、オーストリアのレオポルド2世と、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が、ピルニッツ宣言を出した。これに対し、フランスは、オーストリアに宣戦布告(92.4.20)、後に、プロイセンやドイツ諸邦も参加し、革命戦争が始まった。
マルセイユからやってきた兵士たちが「ラ・マルセイエーズ」を歌ったのはこの頃である。
が、軍には当時、彼らを指導できる将校が、圧倒的に少なかった。貴族の将校の多くが、国外逃亡していたからである。(あまつさえ、彼らは、亡命貴族軍として、革命政府に立ち向かってきた)
特に東の国境付近では、深刻な混乱が生じた。ロンウィ要塞(8.23)、ヴェルダン要塞(9.1)が、相次いで破られる。
(国境等は、現在のものです。以下同)
「フランスの国境は、自然によって印づけられており、それは地平の四方の果てまで達するだろう。すなわち、ライン川、海、アルプス山脈である」*
*『ナポレオン戦争』マイク・ラポート[楠田悠貴]
下の地図、赤紫の辺りを、フランス軍は、侵略し始めた。
この頃、生活苦から、ヴァンデやトゥーロン、リヨンなどでも、蜂起が起きる。
絶対的な支配力が求められる中、ジャコバン派が台頭してくる。
93年8月、総動員法施行。これにより、再び、フランス軍は、兵士の確保に成功する。
フランス軍の勝利は、数の勝利ともいわれる。
94年7月、フランス軍は、フルリュス(ベルギー)で、オーストリアに大きな勝利を収める。
この間、ライン河の南寄り(上流)でも、フランス軍は、遮二無二、進軍していた。
だが、95年。
・フランスとの戦争にそもそも乗り気でなかったプロイセンは、ポーランド分割に力を入れる為、フランスと、講和を結んだ。
・それにつれて、ドイツ諸邦も、次々と、フランスに和議を申し込む。
・スペインも講和条約に調印。
・低地地方のオーストリア領では、ネーデルランドが、初の、フランスの「姉妹共和国(傀儡国家)」になる。また、ベルギーは、正式にフランスに併合された。
かくして大同盟軍で残ったのは、オーストリア(と、海の向こうのイギリス)だけになった。