エズの弟子

文字数 9,347文字

 ゆっくりゆっくりと、小型ソリが雲の上を走り続けていた。
 操縦席に腰掛ける青年は、操縦桿を少しずつ傾けていく。ソリは高度を下げ、雲を突き抜ける。古臭いクマのヌイグルミを胸に抱く女の子が、助手席から身を乗り出し、キョロキョロと下を見る。小さな灯りを見つけると、頬を緩めた。
「エズ、見つけたよ」
「今日の目的地が決まったな」
 エズと呼ばれた青年は、左手で無段変速機を低速に入れ替えていく。徐々に速度を落としながら、ソリは空から下界へと走る場所を変えた。
 ぽつぽつと雨が降り始めているが、エズは構わずソリを走らせる。そして灯りのもとへと辿り着いた。山麓の緩やかな傾斜地に作られた小さな村だ。
「カーミン、荷物を」
「うん」
 カーミンと呼ばれた女の子は、助手席から立ち上がり、荷台に載せた荷物を手に取る。
「オレサマヲオトスンジャネエゾー」
「はいはい」
 クマのヌイグルミが言葉を発し、カーミンは驚かずに返事をする。徐々に雨脚が強くなってきた。早く村に入らなければ、ずぶ濡れになってしまう。
「行くぞ」
 エズがカーミンの手を握り、村の中へと入っていく。
「宿場はどこかな」
 村を歩き、骨休めできる場所はないかと目を凝らすが、宿場は何処にも見当たらない。
 しかし、そんなことよりも気になる点が一つ。
「空き家が多いな」
 灯りの点いた民家は、村全体の半数にも満たない。就寝にはまだ早く、灯りを消す必要はないはずだ。それはつまり、この村に住む人は少ないということになる。
「旅の方、早くこちらへ」
 雨に打たれながら村の中を彷徨っていると、二人は声を掛けられた。
 民家の戸が開き、灯りと共に老人が手招きをしている。
「あの、この村に宿場は……」
「ないから、私のところに泊まりなさい」
 雨の中をソリで走ることもできるが、視界が悪く操縦するのも一苦労だ。
 エズとカーミンは、老人の言葉に甘えることにした。
「何もないが、すまないね」
「ううん。屋根があるって素晴らしいことだと思うの」
 雨粒から解放されたカーミンは、大きく背伸びをする。濡れた服をタオルで拭き、老人の家へと上がった。
「しかし旅の方が来るのは何か月振りか」
「この村は知られていないんですか」
「近隣には町や村がないから、誰も寄らないんだよ」
 山麓地帯ということもあって、この村は人目に付き難い。例え村を見つけたとしても、宿場もなければ食堂も無い。立ち寄る意味がない村なのだ。
「それにしても、人が少ないですね」
「ああ、そのことかい」
 ふう、と息を吐き、老人は苦々しく笑う。
 この村の住人達が置かれた状況を、二人に話し始める。
「この村には留まる価値がないんだよ」
 三年ほど前、村の裏山に野犬が住み着き始めた。
 初めのうちは少なかったのだが、時を重ねて増えていき、いつの間にか群れを成して村を襲うまでになっていた。
 夜になると村の中へと入り込み、作物を荒らして帰っていく。村には大人の男性も大勢いたが、野犬の数が多くなりすぎた。本格的な駆除計画を立てる頃には、もう取り返しのつかないほどの数に膨れ上がっていた。
 退治しては被害を出し、怪我人が増えていく。作物は一向に育たず、食料は底を尽く。このままでは、村が滅びてしまう。
 危機感を覚えた村の人々は、一つの案を思いつく。村の裏山を越えた先に巨大な軍隊を作り上げた国があるという。その噂を耳にした村人は、遠く回り道をして、使者を送った。野犬を追い払い、村を救ってほしいと。
 けれども、それが不幸の始まりであった。
 使者を送った先の国は、野犬退治の為に兵士を連れてきたかと思いきや、村を支配下に置くことを告げた。野犬の退治は手伝わず、そのままだ。
 村は、抱える問題を二つに増やしてしまったのだ。
 軍隊を持つ国は、野犬から村を守るという名目で、重税を課してきた。勿論、それは口だけであり、野犬は放置しっ放しだ。日々の暮らしは更に困窮し、日を追うごとに村から逃げ出す者が増えていった。
 やがて、気付いた時には、この村には年寄りしかいなくなっていた。
「まあ、こんな村のことは気にしないでいいから。旅の方はゆっくりと休めばいいさ」
 久方振りの客人に、老人は笑みを零す。
「そろそろ、野犬が顔を出すから、外には出ないようにな」
「ありがと、おじいさん」
 老人の忠告を受け、二人は頷いた。
 案内された部屋に旅荷を置いて、エズは少しだけ窓を開けてみる。雨音に混ざり、野犬の鳴き声が聞こえる。村の中を徘徊しているのだろう。
「助けてあげないの」
「言われてないからな」
「そうだけどさー」
「オメーハオセッカイヤキナンダヨ、カカカ」
 クマーを睨み付けるカーミンを余所に、エズは窓を閉める。
 その日は、二人ともぐっすりと眠ることができた。

「……んぅ」
 翌朝。カーミンは眉間に皺を寄せながら目を覚ました。
「起きたか」
「んんー、うるさくて目が覚めちゃった……」
 エズに返事をし、カーミンは瞼を擦る。
 何やら村の外が騒々しくなっていた。
「見てみろ、面白い奴がいるぞ」
「面白いやつ?」
 窓を開け、エズは外の様子を窺っている。
 よく分からずにエズの傍に寄り、カーミンも外を見た。
「……あ、お菓子の国の王様だね」
 村の中には、大勢の兵士が入り込んでいる。その中心に佇むのは、二人が見知った顔だ。
「なるほどな、ケーキンズが話の種だったのか」
 お菓子の国の王様ケーキンズが、村人に向けて声を荒げている。
 この村を支配下に置いた人物の正体が判明し、カーミンは眉根を寄せた。
「ぬはっ、税の支払いはまだか! ワシはもう待ちくたびれたのじゃ!」
 一国の王が小さな村にわざわざ出張ってくる姿に、エズは溜息を吐く。
 自国は放っておいていいのか、と。
「ッ、あれは」
 だがここで、エズはケーキンズの後方に立つ男に、目を奪われた。
 視線を横に移し、カーミンの髪留めを見る。そしてまた、その男へと目を向ける。銀髪の男が羽織る服には、少し大きめの丸いボタンが付けられていた。それは、カーミンの髪留めと同じ形をしている。服の背には十字のマークが刺繍され、エズと似た十字の手袋を嵌めているではないか。
「エズ、あの人って……赤の人かな」
 カーミンも、銀髪の男に気付く。
「ああ、そうだ」
 肯定し、エズは小さく頷く。ケーキンズの後方に立つ男は赤の人だった。
「……様子を見てくる。ここで待ってろ」
「え? わたしは?」
「クマーと一緒に隠れてろ」
「でも、」
 エズは、カーミンとクマーを部屋に残し、家の外へと出る。
 村人達は怒声を浴びせられ、殴られ蹴られやられ放題であった。
「ぬっ?」
 そこにエズが姿を現す。
 すると、ケーキンズは目の色を変えた。
「ぬはっ、お主は、あの時の……ッ」
「覚えていましたか」
 兵士達の間を通り、エズはケーキンズの傍へと近づく。
「その後、お菓子の箱の蓋は閉めることができましたか」
「おのれっ、ワシをバカにしておるのか!」
 エズの挑発に、ケーキンズは怒りの矛先を変える。
 だが、それを手で制し、銀髪の男が前へと出てきた。
「安心したまえ、あれは私が処分した」
「……処分、ですか」
「ああ。彼が治める国には必要のないものなのでね」
 そう言い、銀髪の男はエズの顔をじっくりと観察する。
「ところで、私とも久し振りになるのかな? ああ、確か名前は……」
「エズです」
「そう、エズ君だ。ああ、私のことは覚えているかね」
「勿論です。あの日のことは一生忘れませんので」
「ふむ、なるほどね。では分かっているとは思うが、彼女を連れてきてもらえるかな」
「嫌です」
「おや? 今、君は断ったのかな」
「聞こえませんでしたか」
「ああ、聞こえないね。彼女のことを第一に考えるのであれば、君と共にいるよりも、私の傍にいる方が幸せになれるとは思わないかな」
「さあ、それはどうでしょう」
「……エズ、その人知り合いなの?」
 エズと銀髪の男が言葉を交わしていると、カーミンが家から出てきた。
「部屋に戻れ」
「え、でも」
「聞こえなかったか、今すぐ部屋に……」
「やあ、カーミン。やっと顔を見ることができたね」
 銀髪の男が口を挟み、満面の笑みを浮かべる。そして、
「我が愛しの娘よ、会うことができて嬉しいよ」
 その台詞に、カーミンは目を見開いた。
「……え、えっ、どういうこと?」
「私のことを忘れたのかな? ……ああ、それは仕方のないことだ。何故ならカーミン、君は隣に立つ青年の願いを叶えてしまい、その代償として黒の人になってしまったのだからね」
「わたしが……黒の人?」
「そうとも。自分では気付いていないだろうが、黒の人は記憶を失ってしまうのだから当然のことだ。だから私のことを覚えていないのさ」
「ちょ、ちょっと待って、わたしが黒の人ってことは、……じゃあ、元々わたしは……」
「ああ、カーミン。君は私と同じ赤の人さ」
 カーミンは、理解が追いつかない。
 この男は何を言っているのかと、瞬きを繰り返す。
「おっと、そう言えばまだ名を口にしていなかったね。私はエルトリッヒ。赤の人が暮らす浮遊島の長をしているよ」
「……エズ、どうなってるの? わたし、何も分からない……」
 口を開かず、エズは目を背ける。その態度がカーミンを不安にしていく。
「エズ君。説明し辛いのであれば、私が話してもいいのだがね」
 銀髪のエルトリッヒは、優しげに笑い掛け、過去を思い出す。

 その日、エルトリッヒは娘のカーミンを連れて下界を訪れていた。
 願いを持つ人々の前へと姿を現し、一つずつ叶えて回っていたのだ。
 まだ幼いカーミンは、赤の人として下界に住む人間の願いを叶えたことがない。エルトリッヒの背に付いて、赤の人の生き方を学んでいた。
 エルトリッヒが人々の願いを叶えている間、カーミンはいつも暇を持て余していた。
 空いた時間をダラダラ過ごし、町をぶらつくだけ。
 カーミンがエズに出会ったのは、そんな時だった。
「……あなた、どうしてこんなところで寝てるの」
 飢餓に苦しみ、今にも死んでしまいそうな青年を見つけた。
 その青年こそが、エズだ。
「家がないからさ」
「どうして家がないの」
「お金がないからさ」
「どうしてそんなに痩せてるの」
「何も食べてないからさ」
「どうしてそんなに辛そうな顔をしてるの」
「生きる意味がないからさ」
 エズは、元人間だ。
 飢餓で死ぬ寸前のところ、偶然にもカーミンと出会った。
「わたしね、赤の人なの。あなた、赤の人って知ってる? 赤の人はね、どんな願いでも叶えることができるの。だからね、わたしがあなたの願いを叶えてあげるわ」
 食べ物や飲み物は願わない。
 本当に願いが叶うと言うのならば、エズは赤の人になりたいと願った。
「どうして赤の人になりたいの」
「夢がないからさ」
 カーミンは気付かない。
 夢を持たない人間の願いを叶えることが何を意味するのか。
 故に、死の狭間に浸かり始めたエズの願いを叶えてしまう。
 元人間のエズは、赤の人になりたいと願い、赤の人としての力を手にすることになった。
 しかし同時に、願いを叶えた瞬間から、カーミンに変化が起きる。
 エズは、夢を持たない人間だ。己の境遇に絶望し、全てを諦め、純粋無垢な存在ではなかった。その結果、カーミンは夢を持たない者の願いを叶えたことで、赤の人としての記憶を支払うことになった。
「ああ、そんな馬鹿なことが……我が娘が、カーミンが、黒の人になるだなんて……ッ」
 人々の願いを叶える途中のエルトリッヒが、すぐに異変に気付く。
 二人の前へと姿を現した。
「……ああ、ああ。とても悲しいことだ。ああ、ああ。だがこれは仕方のないことだ」
 カーミンは、エズの願いを叶えることで、黒の人と呼ばれる存在になってしまった。しかしながら、赤の人としての記憶を失ったカーミンは、自分が黒の人になったことも理解できなければ、すぐ傍に佇む青年が何者なのかも忘れている。
「だから我が娘も、納得してくれるはずだ。ああ、そうに違いない、ああ」
 ブツブツと呟きながら、エルトリッヒが二人のもとへと近づく。
 いつの間にか、その手には拳銃が握られていた。
「カーミンって名前なんだな」
 危機が迫っていることは、エズにも理解することができた。そんな中、エズの頭は冷静で、自分を赤の人にしてくれた女の子の名前を口にする。
「逃げるぞ」
「えっ」
 そして、エズは迷いなくカーミンの手を握り、無我夢中で街中を走り回った。幸いなことに、エズはエルトリッヒよりも街路に詳しかった。そのおかげで、無事に逃げ切ることができた。
「ねえ、あなたは誰なの?」
 何も知らないカーミンは、エズに問う。その声に、胸が痛んだ。
「……ぼくはエズ。黒の人だ」
 赤の人とは言わない。赤の人は名乗らない。エズは、自分が赤の人になったせいで、カーミンが黒の人になったことを知っている。
 だからせめて、黒の人として生きていくことになった女の子と同じ存在として、これからを生きていこうと考えた。
「ねえ、どうしてあなたはわたしの手を握ったの」
 小首を傾げ、カーミンが答えを求める。何か適当なことを言わなければならない、とエズは思考を巡らせた。そして、
「カーミン、きみがぼくの弟子だからだ」

 エルトリッヒは、カーミンを探していた。あの日からずっと探していた。
「ようやく、見つけることができたのさ。親子の再会を祝おうではないか」
 目が笑っていないことに、カーミンは気付いていない。
「さあ、おいで。これからはずっと一緒だよ、カーミン」
 戸惑うカーミンだが、血の繋がった存在に初めて出会うことができた。
 もっと、自分の過去を知りたい。自分がどんな存在だったのかを確かめたい。そう思ったカーミンは、自然と足が前に出ていた。
「行くな」
 だが、その腕を掴み、行く手を阻む者がいる。
 共に旅を続け、短くも濃い日々を共有し合った仲間、エズだ。
「離してよ、やっと見つけることができたんだから、話をするぐらい、いいでしょう」
「アレは危険だ。だからあの時、ぼくはお前の手を取って逃げたんだ」
「そんなの知らない」
「知っているだろ」
「知らないもん!」
 言うことを聞かないカーミンに、エズは気を取られていた。
「……え」
 ほんの僅かな隙ができたのを、エルトリッヒは見逃さない。
 大剣を具現化したエルトリッヒは、カーミンの背を貫く。だが、
「ああ、やれやれ。手元が狂ってしまったようだ」
 感情の無い声を発し、エルトリッヒが大剣を引き抜く。傷口から血を流しその場に倒れ込むのは、エズだった。
「ど、……どう、して? なんで? なんでこんなことをするの!」
 カーミンを庇い、エズは背を貫かれた。
 流れ出る赤い血が、地面の色を変えていく。
「はて、どうしてだと? ……ふっ、出来損ないの処理がそんなにもおかしなことかな?」
 赤の人には、決して犯してはならない掟が存在する。それは、欲を持った大人達や、夢の力を失った子供達の願いを叶えてはならないということだ。
 その掟を破り、黒の人になった者は、浮遊島や赤の人を脅かす存在となるので、処罰の対象となっていた。
「元はと言えば、お前が私の言うことを聞かないのが悪いのだがね。一人で勝手に願いを叶え、一人前の赤の人を気取りたかったのかな、カーミン?」
 処罰の対象が身内から出たエルトリッヒは、浮遊島に知れ渡る前にカーミンの処分を決断した。しかし、エズに邪魔されたことで、その目論見は失敗に終わる。その結果、浮遊島に戻ったエルトリッヒは、赤の人の長の座を追われてしまう。
「お前達を処分する為に、この私が……ああ、どれほど下界を駆けずり回ったと思っているのかな。この私の気持ちを察してくれるのであれば、ああ。今すぐにでも自害してもらいたいぐらいなのだがね、ああ」
 高揚し、エルトリッヒは口元を歪める。
 事の発端は、エズとカーミンにある。例え何年掛かろうとも、二人を処分する為に下界を彷徨い続けよう、と。そしてその過程で、自分に恥を掻かせた浮遊島の赤の人達にも復讐をしてやろう、と。
 その為だけに、エルトリッヒはケーキンズを手懐け、赤の人にバレないように独自の軍隊を作り始めていた。
「ほっほ、エルトリッヒは実に賢い赤の人じゃ。おかげでワシは下界で最高の軍隊を作ることができるのじゃからな!」
「訂正したまえ、ケーキンズ。私の軍隊だとね」
「むっ、……うぬ」
 大剣についたエズの血を拭い取り、指摘する。
「カーミンとやら、大人しくするのじゃ、苦しまずに殺してやるからのう」
 ゆっくりと、ケーキンズが近づいてくる。
 だが、カーミンの耳には何も聞こえていなかった。
 ただただひたすらにエズの体を揺すり、目に大粒の涙を溢れさせていた。
「……お願いだから、エズ。目を開けて? ねえ、お願いだってば……ッ」
 ケーキンズと共に近づく兵士達が、左右からカーミンの両腕を掴む。
 身動きが取れなくなっても、まだカーミンは声を絞り出す。エズが持つ命の灯が消えないように、何度も何度も呼び続ける。
 そしてその声は、死の淵にいたエズの耳へと確かに届いていた。
「いぎゃっ」
 瞼を開け、エズは瞬時に状況を把握する。カーミンの腕を掴んでいた兵士の剣を引き抜き、ケーキンズの首を斬り落とした。その流れに逆らわず、エズは体を反転させる。と同時に兵士達の足を狙う。
「エズッ!!
 両腕が自由になったカーミンは、エズに思い切り抱き着く。
「生きてるの!? 死んでないの!?
「死んでいるように見えるか?」
 言葉を返し、エズは息を吐く。死んでいてもおかしくはなかったが、カーミンの願いを叶えることで、エズは力を取り戻すことができた。
「よかった……よかったよ……っ」
「……これで二度目だ。死に損ねたのは」
「死ななくていい! ずっとわたしの傍にいて!」
 泣きながら願いを口にするのは、黒の人。
 そしてその願いを叶える存在が、赤の人。
「ぼくの傍にいろ、いいな」
「うん!」
 カーミンの笑みを瞳に映し、エズは口の端を上げる。
 視線を前へと戻すと、首から上を斬り落とされたケーキンズが立ち上がろうとしている。
「……その体と引き換えに、エルトリッヒの軍隊を作ったんですか」
「ぬ、ぬはっ、ぬははっ」
 地面に転がる頭部を掴み、首元へ近付ける。強引に押し付けると、元通りにくっ付いた。
「ワシはお菓子の体を持つからのう! お菓子が好きすぎる故に! 願ったのじゃ!」
 ケーキンズがエルトリッヒに願ったのは、お菓子の体だった。
 自らがお菓子となることで、不死身の肉体を手にすることができたのだ。
 けれども、エズは動じない。それどころか笑みを浮かべ、指を鳴らす。
「不死身とはいえ、跡形も無くなれば意味がないですよね」
 エズは、何もない空間に無数の刃を作り出すと、その全てをケーキンズ目掛けて解き放つ。
「がっ、ががっ」
 体を切り刻まれたケーキンズだが、痛みを感じていない。
 死を体験させる術はないかのように思えたが、それは違う。エズは既に手を打っている。
「……あ、ああっ、まずい! まずいのじゃ! お前達ッ、早くワシの体を隠すのじゃ!」
 元に戻ろうとくっ付き始めるが、エズが鳴らした音に呼び寄せられたのだろう。野犬の群れが、村に姿を現した。
「やっ、止めろ! 止めるんじゃ! ワシは食べ物ではな……ッ」
 村人達は我先にと避難する。ケーキンズの体に群がる野犬の群れは、止まることなく食い散らかす。その光景に怯え、後ずさりするのは、エルトリッヒが作り上げた軍隊だ。元々、強引に作り上げた軍隊の兵士達は、頭を失うと同時に四方へと逃げ始めた。
「……一つ、質問します」
 残されたのは、エルトリッヒのみ。
「貴方は何故、過去を覚えているんですか」
「おや、ああ。急に何を言い出すのかな」
「貴方は、ケーキンズの願いを叶えた。それはつまり、既に赤の人の記憶を失ったということになるはずです」
「ああ、そのことか」
 エルトリッヒは、ケーキンズの願いを叶えた時点で、黒の人になったはずだ。赤の人の記憶を失い、エズやカーミンのことを思い出すこともできないはずなのだ。それなのに、エルトリッヒは自分自身を見失ってはいない。
「実に簡単なことさ、エズ君。私は浮遊島の長をしているのだからね、夢の力を拝借し、私を介さずに願いを叶えることなど、造作もないことなのさ」
 長だったからこそ、強引な手段を用いることができる。その地位を剥奪されたことで、エルトリッヒにとって浮遊島は既に過去の遺物となっていた。
 維持するつもりなど微塵もなく、夢の力を横取りすることに罪の意識は一切持たなかった。
「では、貴方は赤の人でも黒の人でもありませんね。ただの盗人です」
「ああ、やれやれ……。エズ君、盗人は君の方だろう? 私の手から大切な愛娘を奪ったのだからね!!
 声を上げ、エルトリッヒは具現化した拳銃を構える。
 まずはカーミンの息の根を止めよう。そして次にエズの首を獲る。
 エルトリッヒは引き金を引き、弾丸を放った。
「ッ」
 真っ直ぐに、カーミンの顔を目掛けて弾丸が飛ぶ。
 だが、放たれたはずの弾丸はカーミンの眼前で止まり、勢いを失くす。
「ぼくは黒の人です。それもカーミンが言うには例外中の例外らしいです」
 だから、こんなこともできます、と。
「……う、動けないっ」
 エルトリッヒは、体の自由が利かなくなっていた。それも全てはエズの力によるものだ。
「貴方の願いは永遠に叶いません」
 何故ならばと呟き、エズは弾丸の軌道を変える。
「ぼくがぼくの願いを叶えるからです」
 今、エズが願うこと。
 それはエルトリッヒの死だ。
「ま、待ちたまえ! 私は死ぬわけにはいかないのだ!! エズ君ならば分かるだろう!? ああっ、私はカーミンの父なのだぞ!? ああっ、だから私を殺せば君は一生恨まれることになる!! それでもいいというのかっ!!
 聞く耳は持たない。必要無いからだ。
「さようなら、エルトリッヒ」
「ああっ! ああっ! 私の願いを聞けっ、聞けっ、聞けっ、き……」
 エルトリッヒが放った弾丸は、エルトリッヒの脳天をぶち抜いた。
 白目を剥き、その場に倒れ込む姿を視認し、エズは口を開く。
「言い忘れていました」
 カーミンの体を抱き寄せ、頭に手を置く。
 そして一言、
「カーミンは、ぼくの弟子です。貴方の好きにはさせませんので」
 命の灯を失くした存在に向け、ぽつりと呟くのであった。
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登場人物紹介

《エズ》
自称、黒の人。
善悪関係無く、下界に生きる人々の願いを叶え続けている。

《カーミン》
自称、エズの弟子。
ソリの助手席に座り、エズと共に下界を旅している。

《クマー》
下界で作られたクマのぬいぐるみ。
ゴミとして捨てられていたところを、カーミンに拾われる。

《ケーキンズ》

お菓子の国の王様。

自分の城にエズを招待し、お菓子の箱が欲しいと願うのだが……。

《エルトリッヒ》

浮遊島に住む赤の人の長。

とある目的を達する為に、エズとカーミンを探している。

《トキ》

ロロの弟。

エズに願い、時の砂を手に入れた。

《ロロ》

トキの兄。

己の生きる時間を牢獄と称し、絶望していた。

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