第1話

文字数 4,995文字

前の彼氏にフラれて3ヶ月。
そろそろ新しい生活を始めようと、会社からは少し離れたマンションに引っ越した。

前の家は会社の徒歩圏内で、それはそれで便利だったのだけれど、近すぎて自分の世界が広がらなかった。

やっぱり失恋の傷を癒すには新しい恋だ。
1ヶ月前にやっと新しい彼氏もでき、彼氏の家の近くに越すことに決めた。


隣の家のインターフォンを押す。
『はーい』明るそうな声が聞こえた。

「こんにちは。隣に越してきた三枝(さえぐさ)と申します。ご挨拶に伺ったのですが」

『はーい、ちょっと待ってくださいねー』

ドアが開き、奥さんが出てきた。

「こんにちはー初めまして。挨拶なんて、会った時でも良かったのにー!ご丁寧に来て下さってありがとうございます…あらっ、もしかして、新婚さん?」

ご挨拶の菓子折りを持った私の左手の薬指に目を留めた奥さんは声を弾ませた。

「いえいえ、まだ独り身なんですよ。あ、こちら、良かったら…お子さんと食べてください」

「ありがとう。あら、このお店、うちも時々行くのよ、あそこのレモンのケーキ食べたことある?おいしいのよね、主人も子どもも好きで」

「ええ、もちろん!最初は頂き物だったんですけど、またあれが食べたくてお店探しちゃったくらいです」

「そうなのね、好みが合いそうだわ。よろしくね」

気さくな奥さんでほっとした。

ふと右側に気配を感じてそちらを見ると、背の高い女の子がこちらを見て立っていた。

「もしかしてこちらのお嬢さん?」

女の子は戸惑った様子で軽く会釈した。
奥さんが入口から廊下を覗きこみ、「あ、お帰り未歩(みほ)」と女の子に向かって言った。

「…ただいま」

「お隣に越してきた三枝さんよ」

「…こんにちは」

「未歩ちゃん、私は美紀(みき)っていうの。よろしくね。最近の中学生って背が高いのね、大人みたい」

未歩ちゃんはそそくさと家の中へ入っていった。

「ごめんなさいね、愛想のない子で」

「いえいえ、とーってもかわいいお顔!モデルさんみたい!」

「父親そっくりなのよ」

「奥さんに似てもかわいかったと思いますけど、女の子はお父さんに似ると幸せになるって言いますものね」

「あらそうなの、初めて聞いた」

「そうなんですよ」

「ふふ、なんだか三枝さんとは楽しくお付き合いできそうだわ!よろしくね」

「こちらこそ。良かったら美紀って呼んでください」

「じゃ、遠慮なく美紀さんて呼ばせていただくわ。私のことは陽子(ようこ)って呼んで」

「わかりました。陽子さん。なんだか私たち、ずっと前からの知り合いみたいですね。…あ、ごめんなさい、長居して。ではまた」

「ええ、またね」



その日の夜、早速彼氏が家に来た。

「お帰りなさい…なーんて」
そう言うと、彼も笑って「ただいま」と答えてくれた。

「今日ね、お隣に挨拶に行ったのよ。奥さんに『新婚さん?』て聞かれちゃったー!…あなたにもらったこの指輪を見たのね。ちょっと恥ずかしかったな。お嬢さんもすごくかわいくて…あっ、そうそう、この前あなたが買ってきてくれたレモンケーキのお店、すっごくおいしかったから私もご挨拶に使ったのよ。奥さんも喜んで…」
「いいよ、隣の話なんて」
「そうね。せっかくの二人の時間だものね」

彼がもっと私と過ごしたいと言ってくれたので私は近くへ越してきたのだった。二人の時間を大切にしなければ。
前の彼氏とは仕事が忙しくて会えなくなり、破局してしまったのだ。
もうそんな失敗はしたくない。

「明日も朝早いわよね」
彼とは同じ職場で出会った。明日は朝から会議で早いことだって知っている。
「うん。でも美紀が近くに来てくれたから前よりもずっと一緒にいられるよ」
彼には迷惑だったかもと思っていたから、本当に引っ越してきて良かったとほっとした。



次の日の朝も彼の出勤に合わせて私も早く家を出た。
手を繋いで駅まで歩いた。
今日は朝早いからそんなに混んでないけれど、これからは満員電車でも彼と一緒の時間なのだから幸せだ。


越してきて1ヶ月が過ぎた。

明日は久々に予定のない休みだ。
明日は彼に予定があり、会えない。
こんな日は寂しい。
とぼとぼと家に着くと、ちょうど陽子さんが家から出てきた。

「あらお帰りなさい」
「お出かけですか?」
「ちょっとお醤油きらしちゃって、コンビニまで」
「あら、うちに買い置きがありますから良かったらどうぞ」
「ええっ?いいの?じゃあ、買い取らせて!」
「ふふ、そんな、いいですよ。持ってきますね」
そう言って陽子さんを待たせて醤油を持ってきた。
「そうだ、美紀さん、明日お休み?」
「ええ」
「あ、でもデート?」
「残念ながら明日は一人ぼっちなんです」
「ちょうど良かった!じゃあ、うちに来ない?未歩の誕生日パーティーなんだけど、あのコ、友達づきあいが苦手なのよね、だからお友達も来ないの。うちも主人の両親も遠方だし、良かったら、美紀さんに来てほしいんだけれど…」
「えっ!いいんですか!?ご家族水入らずの場に…」
「美紀さんが来てくれたら華やかな雰囲気になりそうだし、嫌じゃなければぜひ!」
「嫌だなんてとんでもないです!陽子さんともお話したいし、こちらからお願いしたいくらいだわ!」


翌日、私はお隣のお祝いに参加させてもらった。

「今日はお招きありがとうございます。急だったので…お花とお菓子くらいしか用意できなかったんですけど…」
「あらあら、わざわざプレゼントなんて…来てくれるだけで良かったのに、ごめんなさい、気がつかなくて」
「未歩ちゃん、おめでとう!良かったらこれ食べてね」
「…ありがとうございます」
「美紀さん、こちら主人です!あなた、お隣の美紀さんよ」
「こんにちは。いらっしゃい。休日にすみません」
「いいんですよ、私も一人じゃ寂しくて。本当に嬉しいです」

会は和やかに行われ、あっという間に時間が過ぎた。
未歩ちゃんのパーティーという名目だったのに、途中からは私と陽子さんのおしゃべり合戦だった。

「あらもうこんな時間。そろそろ…」
「いいじゃない、お隣なんだから」
「明日の仕事に差し支えたら困るだろう」
「…まあそうね、残念だけど」
「私もまだ陽子さんとお話していたいんですけどね。なんだかもう家族みたい」
「壁、とっぱらってくっつけちゃおーか、なんてね!」
「ふふ、陽子さんたら。いいんですか?」
「いいわよ!美紀ちゃんなら大歓迎よ、ね、あなた」
「まいったな。俺の入る隙がないじゃないか。二人がこんなに仲良くなるなんて思わなかったよ」
「私達とっても好みが合うのよね、陽子さん!」

最後まで大盛り上がりした後、私は隣室へ帰った。
本当に楽しい奥さん。

彼にメールを送る。
『今日はとっても充実した時間を過ごせたわ!あなたはどんな休日だった?また明日聞かせてね、おやすみなさい』

次の日の朝はまた彼と手を繋いで駅へ歩いた。
平日も休日もものすごく充実している。
本当に引っ越して正解だった。




あれから2週間。
帰り道で満月が綺麗に見えた日、家に着くと、向こうから未歩ちゃんが歩いてきた。
「あら未歩ちゃん、遅いのね」
「…塾だったから」

奥さんはあんなに明るいのにどうしてこの子はいつもこんなに大人しいんだろう。
「未歩ちゃん、ひょっとして何か悩みがあるんじゃない?」
「…別に」
「もし何かあるなら私に言ってね。力になれるかもしれないわ」

一緒にマンションの中へ入る。
未歩ちゃんは階段の方へ行った。
「エレベーター使わないの?」
未歩ちゃんはそれには答えず、階段を上り始める。
私も慌てて未歩ちゃんについてゆく。
もしかしたら今、彼女は私に何か相談しようとしているのではないか。
エレベーターなら5階まで一瞬だけれど、階段なら少し時間がかかる。

「ねえ、未歩ちゃん。もしかしてお母さんにも言えない悩みがあるんじゃない?言えば楽になることもあるわよ。誰にも言わないから私に言ってみない?」
未歩ちゃんは学校でいじめに遭ってるのではないか。パーティーにも誰も来なかったし。
でも陽子さんにも心を開いていない様子だった。
…まさか陽子さんとの関係に何か問題があるのだろうか。
「まさかお母さんと何か…」
急に未歩ちゃんが立ち止まり、私は危うくぶつかるところだった。
「近づかないで」振り返った未歩ちゃんは言った。

「お母さんに、近づかないで」
「え…どうして?」
「どうしてお母さんに近づくの?」

先週のことを言っているのだろうか。

私は陽子さんに呼ばれて家にお邪魔した。
「主人が浮気しているみたいなの」陽子さんが私に言った。
「…ご主人が?どうして…」
「いつだったか、二人分の食事代を払ったレシートを見つけたのよ。その時は後輩に奢っただけだって言ってたけど…その後もカードの明細をこっそり見たら何度も…」
「陽子さん!いいです、もう言わなくて。ごめんなさい、辛いことを尋ねてしまって」
「美紀さん、私どうしたら…」
「調べてもらいましょう。何もないとわかれば安心じゃないですか。私、いい興信所知ってるんです」



あの話を未歩ちゃんが聞いてしまったのだろうか。
けれどそれでなぜ私が陽子さんに近づいてはいけないことになるのか。

「…私、知ってるんだから」未歩ちゃんはうつむきながらも、目は私をにらみつけている。

「私の塾、お父さんの会社の駅にあるの。お父さんが髪の長い女の人と歩いているのを見た。でも会社の近くだし、たまたま会社の人といただけかもしれないって自分に言い聞かせた。…ただ、後ろ姿だったけど、私、見たの。その人のカバンには、満月みたいな円いキーホルダーがついてた」
未歩ちゃんが私のカバンのキーホルダーを指差す。

「あなたが引っ越して来た時、どこかで見た気がした。すぐにはわからなかった。だけどあれから、朝早くに出た父さんが女の人と手を繋いで駅の方へ歩いてくのを見た。何度も見たの。今度はちゃんとあなただってわかった。だから今度は階段の陰に隠れて待った。父さんが帰ってくるはずもない時間に。そしたら父さんはただいまって入ってった。あなたの部屋に」

「…そう。わかってたのね。あなたのお父さんは本当に優しい人なの。フラれた私を慰めてくれたし、元気づけてくれた。私はいつあなたたち家族にバレたって良かったのよ。ううん、むしろそうなればハッキリして、もっと(さとし)さんと一緒にいられると思った。だから自分で言いに行こうと思った。でも智さんがそれはダメだって言うのよ。未歩ちゃんが高校生になるまで待ってくれって。でもあと2年もあるじゃない!そんなに待てないわ。だから言わなくても陽子さんに気づいてほしかったの。陽子さんて本当に明るくて楽しい人じゃない?あんなに魅力的な人なら第二の人生だって上手くいくはずだわ。だから早く気づいてほしくてちょくちょくヒントをあげてたのに、陽子さんたら全然気がついてくれないんだもの。私が使ってた興信所なら優秀だからすぐに智さんが私の部屋に来てることをつきとめてくれる。だから陽子さんに紹介したの。…そろそろ報告書が陽子さんに届く頃じゃないかしら。あ、未歩ちゃん、私のことはいいけど、お父さんを責めちゃダメよ。私とお父さんが付き合い始めたあの日は、満月の夜だったんだから。月のせいなのよ。満月は人を狂わせる、って言葉知ってる?」

「…満月は人を狂わせる?…そんなの嘘だよ。そんなこと実際ないんだって知らないの?この悪魔!月のせいになんかしないで!月なんか関係ない!あんたも父さんも気持ち悪い!私と母さんの前から早く消えろ!」
そう言って未歩ちゃんは階段の上から私を突き飛ばした。







目が覚めると病院のベッドの上。
しばらくすると警察がやって来た。

「秋田未歩さんが、自分があなたを突き落としたと言っているんですが…」

「…えっ?いいえ、違いますよ。お隣さん一家と私は家族同然の親しいお付き合いなんです。未歩ちゃんの勘違いです。私が自分で足を滑らせて落ちたんですよ。早く陽子さんと未歩ちゃんを安心させてあげてください、私は大丈夫だって」





こうして悪魔のような私に庇われ、あのコは真実を隠したままお隣さんでいられるだろうか。
娘を庇われた陽子さんは、夫の不倫相手と隣人でいられるだろうか。


思いもよらず痛いことになったけれど、私と智さんのこれからを考えればちょうど良かった。



それに、悪いのは未歩ちゃんじゃない。



仕方なかったんだ。


だって未歩ちゃんが私を突き落とした日。


あの日は、満月だったんだから。




全部全部、悪いのは、私たちを狂わせた満月なんだから。
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