第36話 告白、通り過ぎた天使
文字数 2,965文字
ケンバトの時とは違って、羽央は冷静だった。
声にも動揺は見られず、穏やかな顔を浮かべている。
「じゃぁ、どういうことか説明してくれる?」
それでも、蒼花は確信しているようだった。
――誤魔化せない。
諦めと共に、羽央は長い長い溜息を吐く。
「俺は病気なんじゃなくて、病気ってことになってるだけだ」
真面目な彼女には、想像もつかないのだろう。
「そっちのほうが色々と便利だから、親父がそういう風にしているんだ」
精神病の診断は難しい。
素人どころか、専門家ですら判断がつかない症状も多々ある。
またデリカシーな問題なので、学校側も下手に触ることができないので都合がよかった。
「なにが……あったんだい?」
だからといって、簡単に誤魔化せるものでもない。
少なくとも、説得力のあるバックボーン――出来事が必要となってくる。
「なにって、小学校にあがる前に母親に殺されかけた」
あっさりと羽央は吐露した。
規格外の事実に、蒼花は絶句している。
「育児ノイローゼっていうのかな? よくわからんが、急にパニくりだして俺の首を絞めたんだよ。黙れ死ねって言ってな」
それが羽央の記憶に残っている、母親の最期の言葉だった。
――黙れ死ね。
「これからが本題なんだが、大丈夫か?」
まだ序の口だと聞かされ、蒼花に躊躇いの色が浮かぶも……頷いた。
「もともと――つーか、そうなる前に母親は医者にかかってたんだ。様子がおかしかったから、ばあさんが病院に連れて行ってたんだよ」
そこで心の病と診断された。父親は精神病に対する理解に欠けているタイプで、母親を弱いと罵るだけでなにもしなかったのだ。
「原因は父親にあるって別居。てか、実家で療養することになったんだ。そん時の俺はまだ母親のほうが好きだったから付いていったんだけど、それが間違いだった」
ばあさんは自分の娘――母親を庇う台詞ばかり吐いた。
周囲はみんなそうだ。母親は悪くないと、言い聞かせるように何度も何度も教えられた。
「母親は弱かっただけ。言いたいことも言えないで我慢して。とても真面目で優しいから自分一人で抱え込んで」
その言葉に、
「あぁ……」
蒼花は理解して項垂れた。
「それで俺は怖くなったんだよ。弱くて言いたいことも言えなくて、真面目で優しかったら――
あんな風
になるんだって思ってな。怖くて怖くて、仕方がなかった」笑顔がなくなり、無表情でぶつぶつと呟いてこちらの声に耳も傾けてくれない。
子供の羽央はそんな母親を見て、恐怖を抱いた。
「だから、俺は絶対にあんな風になりたくないって思ったんだ」
それが母親の容体を悪化させた。ぺらぺらと喋り、笑い続ける羽央の存在は、母親にとってはマイナスでしかなかったのだ。
「そのおかげで俺は父親に引き取られた。あの人は社会的には正しいからな。人間的にはクズだけど」
それからしばらくして、母親は自殺した。
父親は平気な顔して葬儀に参加した。母方の親族にどの面下げてと罵られても、元夫としての責務だと淡々と答えて。
「あぁ……そうだね。あのキス事件があったあと、きみのお父さん……家に来たよ。菓子折りを持って謝りにね」
蒼花はそこで初めて父親の存在を知って驚いたらしい。羽央の家には年老いた曽祖父しかいなかったから、勘違いしていたのだと。
「社会的には正しいからな」
息子が問題を起こしたら、監督不行き届きだと謝りにくる。バランスの取れた食事の為に、家政婦を雇ってくれる。
けど、一緒には暮らしてくれない。
父親は再婚して、向こうには女のコの連れ子がいて今では新しい娘もいるから――
「でも、感謝はしているし嫌いじゃない」
それに安心もできる。
人間として駄目でも、ああやって生きていけるのだと。
「俺はな、強くなりたかっただけなんだ」
強くないと、父親に見捨てられると思った。
ただ、幼い羽央には強さの意味がよくわかっていなかった。
だから、強そうな相手を言い負かせる手段を選んだ。
そいつに勝てば自分は強いのだと、子供の発想である。
「でもそれなら……きみはやっぱり病気なんじゃ?」
「それは昔の話。さすがにもう、そんな風に思ってないっつーの。ただなぁ、触れられるのが苦手なだけだ」
羽央はいきなり蒼花の腕を掴んで抱き寄せた。
蒼花は体を硬直させるも、
「大丈夫!?」
すぐに羽央の心配に移る。
密着しているから、簡単に伝えられた。
羽央の体温がどんどん下がっていく。瞬く間に汗をかき、唇が震え、呼吸までもが乱れる。
「はぁはぁ……」
自ら体を放して、羽央は首をさすった。
あの時の痛みと苦しみ――幻肢痛に襲われて。
「これのおかげでな。病気ってことに、できてんだ」
人の温もりは羽央には熱過ぎた。
どうしても、思い出してしまう。熱いほど締めつけられた。浴びる涙も零れる涙も熱くて、熱くて……だから、触れられるのは駄目だった。
それでも求める気持ちがあるのか、髪を好きになった。ヤマアラシのジレンマみたいに……それが限界であった。
「でも、口の悪さは関係ない。こいつは性格だ。病気のせいなんかじゃない」
にたりと笑い、羽央は言ってのける。
「きみは……どうしてそうなんだい?」
蒼花は泣きそうな顔で訴えた。
「あの時もそうだ。私が悪かったのに……キスをしたのは私からだったのに……全部きみがしたことになっていた」
羽央の性格なら否定できたはず。
たとえ誰がなんと言おうとも、多数決で負けていても関係ない。
「そりゃ、おまえのことが好きだったからだよ」
またしても、羽央はあっさりと口にした。
「おまえが学校に来なくなって、傷つけたって思ったからそういうことにした」
蒼花は強かった。
だから、羽央にとっての憧れでもあった。
「きみは……ほんとにズルいね。今更そんなことを言うなんて」
ついに蒼花の頬に涙が零れるも、羽央は黙って見ていた。
確かに、羽央は彼女が好きだった。
けど、それはもう過去の話なのだ。
「今でも好きなのは好きだぜ? 少なくとも、他の女よりもな」
じゃなきゃ、こうして話したりしない。
「おまえには、誤解されたくなかったからな。俺の口が悪いのは性格であって、病気のせいなんかじゃないってな」
それでも、自分のモノにしたいほど――恋人にしたいほど好きではないと、羽央はわざわざ口にした。
「藍生君。きみは他人の痛みがわからないだけじゃなくて、自分の痛みもわからないんだね」
「だったら、笑い飛ばしてくれよ。おまえが笑ってくれるなら、俺の過去なんて下らないって言ってくれんなら、そう思えるかもしれない。いや、きっと救われる」
――ごめん、と蒼花は即答した。
「私には笑えない。ごめん……きみを助けてやれなくて……本当にごめんなさい」
羽央はなにも言わなかった。
初めて、自分の発言を後悔していた。言うんじゃなかったと。
こんな風に謝られるとは、思いもしなかったのだ。
いままで触れてはいけないモノに触れたように、同情や憐憫から謝られることはあっても、力になれなくてごめん、と言われたことはなかった。
だから、羽央は珍しく黙っていた。
年頃の少年のように、静かにすすり泣く少女に困った顔をしながら――天使が通り過ぎるのを見守った。