第三話 担当三浦
文字数 3,300文字
不定期に出版社の三浦から連絡があり、一緒にお茶をする。ルビの生活費のためにと、女性雑誌のコラムの仕事の打ち合わせも兼ねたものだった。三浦は柔らかい口調で話をするが、実社会で活躍する人間が持つ快活さを漂わせている。
事情を知らない人なら、三浦を出版関係の人物とは思わないだろう。安いビジネスマンスーツと革靴、ネクタイはせず、髪を固くセットすることもない、外回り中にサボっている営業マンといったところだ。
三浦はルビと”同種”の人間ではなかったが、同じ質問をするといつも同じ答えを返してくるし、同じ理念を何度も口にするブレないところに安心感を持っていた。
ルビは猫と同じように「変化」を苦手としていた。自分は少し変わりたいと思うのだが、環境が変化することは嫌いなのである。
「今、小説は何か書いているの?」
コーヒーショップのスタンド席で、紙コップのブラックコーヒーを飲みながら三浦はいつもの質問をした。
「ダメですね・・・煮詰まってます」
ルビは今日も朝からジンを飲んでいて、さすがにバレてはいけないだろうと、カフェラテにシナモンシュガーを加えたものをゴクゴク飲んでいる。
「そう、まああんまり考えすぎなくてもいいよ。書けるときは書けるんだし」
これもいつもの三浦のテンプレートだ。
1作品を少しヒットさせた小説家などは、世の中にいくらでもいる。ルビならばまだ作家としては新人の部類であり、通常ならば出版社の担当に執筆を迫られ、尻を叩かれ、書いた作品を貶され何度も修正させられるという時期だ。
しかし、ルビと三浦の関係はいつもこうだった。これは三浦がルビの”才能”みたいなものを感じているからである。
三浦は以前大手出版社に10年ほど勤めていたが、出版社と作家の関係に疑問を感じて転職した。三浦も以前までは売れる小説を生み出すために作家をコントロールしていたが、それは本来の形ではないと考えたのだ。
「確かルビちゃんのお父さんも小説家だったよね?」
ルビは父のことは他人には話さないが、三浦にだけはなぜか抵抗なく話してしまっていた。
「いえ、アマチュアです……」
「アマチュアかどうかは、出版社が決めることだよ。小説にプロもアマチュアもないんだよ。僕は音楽が好きだけどプロ・アマの区別はしないよ。それで、最近減っちゃったけどライブ盤が好きなんだ。ライブ盤っていっぱいミスしてたり、プレイの一部を忘れてたり、二日酔いで調子悪かったりするけど、スタジオ盤にない魅力があるんだよ。できればそんな小説を読んでみたいとも思っているんだ」
「……」
――三浦はときどき気分が高ぶって、脱線する。連鎖反応で次々脱線をして、なんの話をしていたのかさえ曖昧になることがある。ただ、ルビはその瞬間が好きだった。それを表情に表すことはないが……。
さらに三浦が続ける。
「電子書籍って読むことある?一般の人でもかんたんに出版できちゃうからカオス状態でね(笑)校正もできていなくて、パソコンで書いてるんだろうね。「ん」の文字が時々「n」だったりね。(笑)ハイな状態になっているのか、何百時も句読点無しの文節があったり……。僕らの世界じゃありえないことだけど、それが生々しくて、ライブ盤のレコードみたいでおもしろいんだよ。紙の本にはできないようなものが9割だけど、残りの1割はプロの作家が出せない”何か”があるんだ」
この男はめちゃくちゃなことを言っているとルビは思った。
一説には、今の出版業界が低迷しているのは、電子書籍の台頭が原因だと聞いたことがある。いわば、電子書籍は出版業界の天敵でもあるはずなのに、この男はその魅力を自分の担当する作家に力説しているのだ。
「”何か”って何ですか?」
「それが分からないんだよ(笑)」
「さっき父の話をされかけたようだけど、何か聞きたかったんですか?」
ルビは話を遡り、スタート地点を思い出して三浦に聞いた。
「あれ?なんだっけな・・・?なんだっけ?忘れちゃったな(笑)」
三浦はいつもこんな感じだった。
***
――三浦は軽い咳払いをして話をリセットし、ルビに向き直った。
「じゃあ、ちょっとここに書いてみてよ」
と、コーヒーショップのロゴの入ったB4サイズのテーブルペーパーを裏返し、持っていた生命保険会社がタダで配布している社名入りのプラスティックのボールペンをルビに差し出す。
「書くって何をですか?」
ルビは分からず三浦の顔を見上げる。
「ん?小説だよ?」
この男は一応はプロ作家のこの私にコーヒーショップでテーブルペーパーの裏に、安物のボールペンで立ったまま小説を書けというのか……。
ルビは唖然とした。
「いや、あの下調べとか……構想も何もないし……」
「大丈夫だよ……適当でいいよ」
三浦の表情を見て、何度断っても断りきれないことを悟ったルビは、あきらめて言うとおりにする。
「じゃあ、僕はタバコ吸いたいから、外のオープン席にいるよ」
と席を離れようとした。ルビもそれに続き、
「あ、私もタバコ吸いたいので外に」
と、二人はコーヒーをもう一杯ずつ注文し、オープン席に移動した。コーヒーショップはメイン通りに面していて、人通りが多く気温が低かったが快適だった。
海外旅行はしたことがないが、外のテラス席は「パリにいるような錯覚を起こす。
普段はパソコンで文章を書くルビだったので、ペンを持つこと自体久しぶりだったが、何故かスラスラと文字は進行していった。ルビの脳裏には昔好きでよく読んだモーパッサンやサガン、モームの作品が表現していた、当時のフランスの生活臭のようなものが浮かび上がった。
何も意図することのない文章の羅列……。
(いったい何がしたいの?)
とルビは不機嫌だったが、思いの外執筆が止まらないことに自分でも驚いていた。
適当に並べた文節の一部から、人物や取り巻く環境などが生まれ、徐々にストーリーが作られていく。それは完全なる妄想の世界だが間違いなくルビの中から出てくるものだった。
こんな無益なことをしているとき、人間の脳はどんな働きをしているのだろう??時々そんなことを思いながらも、ボールペンのコリコリ紙を引っかく音は途切れることがなかった。
ルビの脳内はいくつかのセクションに分岐し、それぞれが別に思考している。文字を書く指は惰性で作業を続けるが、頭の中ではまったく違うことを考えているのだった。
それは荷物の詰め物として使われる空気の入った緩衝材を、指でプチプチと潰しているような感覚だ。
どこか心地よく、そしてただそれだけのものだった。
三浦は何もするでもなく、タバコを立て続けに吸っては消し、通りを歩く人をぼんやりと眺めている。
3千文字くらいは書いただろうか……。
すでに1時間以上過ぎていた。
「こんな感じですかね、落書きみたいなものですけど」
ルビは言い訳をしながら三浦にテーブルペーパー2枚を渡し、タバコに火をつけた。
三浦は職業柄、文章を読むのが早い。
2分も経たないうちに、
「美しいヌーベルだね」
と深く頷いて見せた。
この落書きみたいな文章をなぜ中編小説を意味する、しかもフランス語の「ヌーベル」と言い換えたのかは分からないが、三浦はいつもそうだったのでルビは別段なんとも思わなかった。
しかも、書いた文章はせいぜい3千文字程度だから、正確には短編小説以下のショートショートである。
(この男は何を言ってるのだろう……?)
コーヒーショップを出て三浦と別れると、どっと疲れを感じるルビだった。
スマホの時計を見ると時刻は午後4時で、少食のルビでもさすがに空腹を感じた。
地元駅前の焼き鳥屋がそろそろオープンする。いつものようにテイクアウトすることを心に決め、帰りの電車の切符を買った。
事情を知らない人なら、三浦を出版関係の人物とは思わないだろう。安いビジネスマンスーツと革靴、ネクタイはせず、髪を固くセットすることもない、外回り中にサボっている営業マンといったところだ。
三浦はルビと”同種”の人間ではなかったが、同じ質問をするといつも同じ答えを返してくるし、同じ理念を何度も口にするブレないところに安心感を持っていた。
ルビは猫と同じように「変化」を苦手としていた。自分は少し変わりたいと思うのだが、環境が変化することは嫌いなのである。
「今、小説は何か書いているの?」
コーヒーショップのスタンド席で、紙コップのブラックコーヒーを飲みながら三浦はいつもの質問をした。
「ダメですね・・・煮詰まってます」
ルビは今日も朝からジンを飲んでいて、さすがにバレてはいけないだろうと、カフェラテにシナモンシュガーを加えたものをゴクゴク飲んでいる。
「そう、まああんまり考えすぎなくてもいいよ。書けるときは書けるんだし」
これもいつもの三浦のテンプレートだ。
1作品を少しヒットさせた小説家などは、世の中にいくらでもいる。ルビならばまだ作家としては新人の部類であり、通常ならば出版社の担当に執筆を迫られ、尻を叩かれ、書いた作品を貶され何度も修正させられるという時期だ。
しかし、ルビと三浦の関係はいつもこうだった。これは三浦がルビの”才能”みたいなものを感じているからである。
三浦は以前大手出版社に10年ほど勤めていたが、出版社と作家の関係に疑問を感じて転職した。三浦も以前までは売れる小説を生み出すために作家をコントロールしていたが、それは本来の形ではないと考えたのだ。
「確かルビちゃんのお父さんも小説家だったよね?」
ルビは父のことは他人には話さないが、三浦にだけはなぜか抵抗なく話してしまっていた。
「いえ、アマチュアです……」
「アマチュアかどうかは、出版社が決めることだよ。小説にプロもアマチュアもないんだよ。僕は音楽が好きだけどプロ・アマの区別はしないよ。それで、最近減っちゃったけどライブ盤が好きなんだ。ライブ盤っていっぱいミスしてたり、プレイの一部を忘れてたり、二日酔いで調子悪かったりするけど、スタジオ盤にない魅力があるんだよ。できればそんな小説を読んでみたいとも思っているんだ」
「……」
――三浦はときどき気分が高ぶって、脱線する。連鎖反応で次々脱線をして、なんの話をしていたのかさえ曖昧になることがある。ただ、ルビはその瞬間が好きだった。それを表情に表すことはないが……。
さらに三浦が続ける。
「電子書籍って読むことある?一般の人でもかんたんに出版できちゃうからカオス状態でね(笑)校正もできていなくて、パソコンで書いてるんだろうね。「ん」の文字が時々「n」だったりね。(笑)ハイな状態になっているのか、何百時も句読点無しの文節があったり……。僕らの世界じゃありえないことだけど、それが生々しくて、ライブ盤のレコードみたいでおもしろいんだよ。紙の本にはできないようなものが9割だけど、残りの1割はプロの作家が出せない”何か”があるんだ」
この男はめちゃくちゃなことを言っているとルビは思った。
一説には、今の出版業界が低迷しているのは、電子書籍の台頭が原因だと聞いたことがある。いわば、電子書籍は出版業界の天敵でもあるはずなのに、この男はその魅力を自分の担当する作家に力説しているのだ。
「”何か”って何ですか?」
「それが分からないんだよ(笑)」
「さっき父の話をされかけたようだけど、何か聞きたかったんですか?」
ルビは話を遡り、スタート地点を思い出して三浦に聞いた。
「あれ?なんだっけな・・・?なんだっけ?忘れちゃったな(笑)」
三浦はいつもこんな感じだった。
***
――三浦は軽い咳払いをして話をリセットし、ルビに向き直った。
「じゃあ、ちょっとここに書いてみてよ」
と、コーヒーショップのロゴの入ったB4サイズのテーブルペーパーを裏返し、持っていた生命保険会社がタダで配布している社名入りのプラスティックのボールペンをルビに差し出す。
「書くって何をですか?」
ルビは分からず三浦の顔を見上げる。
「ん?小説だよ?」
この男は一応はプロ作家のこの私にコーヒーショップでテーブルペーパーの裏に、安物のボールペンで立ったまま小説を書けというのか……。
ルビは唖然とした。
「いや、あの下調べとか……構想も何もないし……」
「大丈夫だよ……適当でいいよ」
三浦の表情を見て、何度断っても断りきれないことを悟ったルビは、あきらめて言うとおりにする。
「じゃあ、僕はタバコ吸いたいから、外のオープン席にいるよ」
と席を離れようとした。ルビもそれに続き、
「あ、私もタバコ吸いたいので外に」
と、二人はコーヒーをもう一杯ずつ注文し、オープン席に移動した。コーヒーショップはメイン通りに面していて、人通りが多く気温が低かったが快適だった。
海外旅行はしたことがないが、外のテラス席は「パリにいるような錯覚を起こす。
普段はパソコンで文章を書くルビだったので、ペンを持つこと自体久しぶりだったが、何故かスラスラと文字は進行していった。ルビの脳裏には昔好きでよく読んだモーパッサンやサガン、モームの作品が表現していた、当時のフランスの生活臭のようなものが浮かび上がった。
何も意図することのない文章の羅列……。
(いったい何がしたいの?)
とルビは不機嫌だったが、思いの外執筆が止まらないことに自分でも驚いていた。
適当に並べた文節の一部から、人物や取り巻く環境などが生まれ、徐々にストーリーが作られていく。それは完全なる妄想の世界だが間違いなくルビの中から出てくるものだった。
こんな無益なことをしているとき、人間の脳はどんな働きをしているのだろう??時々そんなことを思いながらも、ボールペンのコリコリ紙を引っかく音は途切れることがなかった。
ルビの脳内はいくつかのセクションに分岐し、それぞれが別に思考している。文字を書く指は惰性で作業を続けるが、頭の中ではまったく違うことを考えているのだった。
それは荷物の詰め物として使われる空気の入った緩衝材を、指でプチプチと潰しているような感覚だ。
どこか心地よく、そしてただそれだけのものだった。
三浦は何もするでもなく、タバコを立て続けに吸っては消し、通りを歩く人をぼんやりと眺めている。
3千文字くらいは書いただろうか……。
すでに1時間以上過ぎていた。
「こんな感じですかね、落書きみたいなものですけど」
ルビは言い訳をしながら三浦にテーブルペーパー2枚を渡し、タバコに火をつけた。
三浦は職業柄、文章を読むのが早い。
2分も経たないうちに、
「美しいヌーベルだね」
と深く頷いて見せた。
この落書きみたいな文章をなぜ中編小説を意味する、しかもフランス語の「ヌーベル」と言い換えたのかは分からないが、三浦はいつもそうだったのでルビは別段なんとも思わなかった。
しかも、書いた文章はせいぜい3千文字程度だから、正確には短編小説以下のショートショートである。
(この男は何を言ってるのだろう……?)
コーヒーショップを出て三浦と別れると、どっと疲れを感じるルビだった。
スマホの時計を見ると時刻は午後4時で、少食のルビでもさすがに空腹を感じた。
地元駅前の焼き鳥屋がそろそろオープンする。いつものようにテイクアウトすることを心に決め、帰りの電車の切符を買った。