暗夜の礫

文字数 3,176文字

 依然として雨は降り続けていた。
小さな窓を大粒の雫が激しくたたきつける。まだ湯気の立っているカップを片手に、ぼくは頬杖をつきながらその光景を眺めていた。

「これでどうだ」

  カタンと耳障りのいい音で、ぼくの番になったと気づく。小さなテーブルを挟んで向かい側に座っていたジャックは、手も足も出せまい、といった自信に満ちた表情を浮かべていた。

「今日こそは勝ちを譲ってもらうぞ」

  威勢のいい彼をよそに、盤上の駒に手を伸ばす。

「チェックメイト」

  ぼくのことばを理解できなかったのか、キングが取られる様を呆然とみていたジャックは「あっ」とまぬけな声を上げて身を乗り出した。

「ちょっと待った」
「待ったなし」

  彼の抵抗むなしく、ジャックの王は盤上から姿を消した。

「くそっ。いつもあと少しってところで届かない。なんでお前には勝てないんだろうな」

 彼が腕を組んで盤をにらみ、ううむと低くうなる。

「打つ手が分かりやすいんだよ。駒を置いておけば、あとはそっちから来てくれる。こういうゲームはいかに相手の虚をつくかで勝敗が決まるから」
「虚をつく、か。確かにお前はときどきわけの分からない手を打ってくるもんな。局の最中、急にお前じゃない別の誰かと戦っているのかと思うぐらい、打ち方が変則的になる」
「チェスは固定的ないしは静的な知識の集積などではなく、動的なものだ。チェスの名人の言うように、パターンを見いだすんじゃなくて、その局の流れを読んで動かないといけない。とはいえ、最初に比べれば、ずいぶんと上達したんじゃないか」

 まだ初めて日も浅いというのに、彼の呑み込みの早さには感嘆する。一局ごとに打ち筋は良くなり、最近では冷や汗をかかされることも少なくない。
 ぼくはこれまでのジャックとの勝負は一度たりとも手を抜いたことはない。それが彼の要望だったし、そういうのは両者のためにならないということを、ぼく自身これまでの経験から学んでいるからだ。

「よし、もう一勝負」

 ジャックが駒を並べ直そうとしたとき、出発してから今に至るまでずっと機内に流れていた陽気なロックがピタリと止まった。

「残念」

 ぼくは立ち上がる。

「時間切れだ」
〈降下地点まで20分。準備してください〉

 アナウンスにジャックが小さく舌打ちをする。

「もうそんな時間か」

 彼がテーブルの側面のパネルを操作すると駒と盤面のホログラムは消える。
 ぼくはカップに残っていた液体を口に流し込んでからカップを洗浄機に置いた。それから機内中部に設置されているロッカースペースまで行き、端から3番目を開ける。

 IDナンバー003 アラン・シエンツィア

 必要な装備一式を取り出し両腕に抱え、比較的散らかっていない隅の方のスペースでどさっと落とす。
 ふと横を見るとメンバーの1人、チャーリーは床に座り込んで一切動く気配がない。
 何をしているのかと彼の視線の先を辿ると、彼の指がタブレットの画面上をせわしなく動いていた。

「チャーリー、そろそろ準備しないと」
「分かってるよ。だけど、その……。さすがというかなんというか、この区長さんのお宅、ガードが堅くてなかなかサーバーに侵入できなくてさ」

 焦燥感がにじみ出ている彼に、ぼくは忠告する。
 顔を上げると、奥で既に準備を終えていたハンスと目が合った。やれやれ、とおおげさに肩をすくめて見せた彼の図体は、ぼくの頭一つ分を優に超える。

「おいおい、大丈夫か。さっきまで余裕をかましてたくせに」

 殺気立っているチャーリーを相手にジャックが軽口をたたく。

「だから今必死にやってるだろ。よし、オーケー。入った。あとはこれを……」
〈降下地点まで約10分。後部ハッチで待機してください〉

 輸送機(レイブン)の操縦を担当しているウィリアムの報告で、ぼくは後部へと向かう。

「アラン、忘れもんだ」

 呼ばれて振り返るとハンスが何かを投げてよこす。透明な液体が入ったプラスチック容器だった。
 礼を言って、渡されたそれを点眼し、潤った目をぱちぱちとまばたきをして液体から固まるのを待つ。しばらくして薄膜が形成された。

 〝拡張現実(コンタクト)〟と呼ばれるそれは、ディスプレイの役割を担う特殊なナノレイヤー層の薄膜を形成させる技術を利用したものらしい。
 拡張現実そのものは一般に医療などで普及しているが、ぼくらの使用する軍用とは一般用とは異なり、体内のナノデバイスと連携して使用者の生態情報だけでなく、その他の各種情報を表示してくれる。

 ほどなくして視界の端に現在時刻、外気温、体温、酸素濃度、体水分量などの情報が現れる。
 表示系は問題なし。望遠機能を試し、拡張現実がしっかり機能していることを確かめてからジャックの方を向く。彼はもう使った、と言わんばかりにひらひらと手を振った。
 チャーリーに声をかけ拡張現実を投げると「サンキュー」と片手でロッカーの装備を取り出しながらあいている手で器用に受け取った。
 出発前の準備運動をしながら、道具の点検をする。拡張現実は確認済み。身を包んでいる機動服、フェイスシールドはともに正常。

『通信の確認だ。問題がなければ合図してくれ』

 ハンスは親指を立て、ジャックはへらへら笑いながら問題なし、と両手を広げる。

『聞こえすぎて頭が痛いね』

 とチャーリー。

『クリアです』

 回線を通してウィリアムが返答する。

 回線、というが実際にケーブルを剥き出しで体に巻き付けているわけではない。体内でうごめくナノデバイスがぼくらの思考の波長を音声データに変換し、通信相手に送ってくれる。送られたデータを受信したデバイスは相手の耳小骨を振動させ、情報として認識させる事ができる。ことばを発しなくてもコミュニケーションがとれるために、任務では重宝する。
 人類が口を必要としなくなる日もそう遠くはないのかもしれない。

『機内減圧完了。降下ハッチ開放』

 荒れた空がその片鱗を見せる。フェイスシールドで顔を覆い酸素供給もされているにも関わらず、息苦しさのような感覚を覚える。

『高度4500フィート、外気温度摂氏マイナス9、降水量78㎜、風速48・59ノット。視界不良。暴風雨に気をつけながら優雅なフライトを楽しんでください』
『……飛ばない奴は気楽でいいよな』

 ウィリアムの冗談に悪態をつくハンスは足がすくんでいた。

『おどろいた。まだ治ってないの、高所恐怖症』
『これじゃ一生治んねえだろうさ。まあ、安心しろ。失敗しても死ぬだけだ。亡骸は俺らがあとでしっかり回収しといてやる』
『はあ……』

 チャーリーとジャックのからかいに、ハンスは腹の底からため息をついた。
 飛び降りるときは毎回こうして二人が彼をからかう。一応ハンスの緊張をほぐすための彼らなりの気遣いではあるのだろうが、すっかり及び腰のハンスを見る限り、そんなことには全く気がついてはいないだろう。
  彼ほどじゃないにしろ、今日のような天候で飛び降りるのはぼくだって勘弁願いたいが、ある意味、仕事には好都合とも言えるけど。

『ウィリアム、目標地点までの誘導は』

 ぼくが訪ねると、すぐに返答する。

『プログラムは問題ありません。ただ、この風です。〝蝋の翼(イカロス)〟はもろに影響を受けかねません。展開させるのはしばらく後の方がいいかと』
『了解』

 境界線に立ち、下界を睥睨するも、はるか下の街の明かりがかすかに見えるだけだった。ぼくは振り返り合図する。

『ご武運を』

 ウィリアムの督励でぼくらは宙へと身を放り投げた。
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