第一章 使えない電車

文字数 7,373文字

岳南電車

第一章 使えない電車

まず初めに、吉原に行けと言われて、風俗街の吉原ではなかったことが驚きであった。吉原と言えばまずそこが思いついたので、一度この申し出は断ったのだが、そうじゃないから来てくれとまた電話がかかってきて、仕方なく引き受けることにしたのだった。場所は東京の吉原ではなくて、静岡の吉原だという。全く、日本には同じ地名が多すぎる。漢字違えど、「いばらき」という地名を聞かされて、東京近隣の茨城県のことかと思えば、実は大阪の茨木市であり、全然正反対の方向にある駅へ行こうとしてしまったという大失敗をしでかしたことがある。

今回もそれだった。東京の吉原であれば、行きたくはないけれど、行こうと思えば電車で数十分で行く事ができる。でも、今回聞かされた吉原は、東京駅から新幹線を乗り継ぎ、東海道線に乗り換えて、吉原駅まで行って、さらにそこから岳南電車というローカル線に乗り換えるという本当に面倒なやり方をしないとたどり着けないというのだ。最寄りの岳南原田駅まで迎えをよこしますと代表は言ったが、そこまで行くにも、なんだか一苦労しそうだというのは、十分に予測できた。

念のため、パソコンで東京駅から岳南電車への乗り方を調べてみると、新幹線の新富士から、東海道線の富士駅まで行くのには、バスかタクシーでないといけないことが分かったし、吉原は、富士駅よりも、三島寄りにあるところから、たぶん三島駅で降りて、東海道線に乗り換えたほうが、早いと思った。ただ、吉原から、岳南電車に乗り換えるのは、比較的容易であるらしいので、そこは救われたなと思った。

少なくとも、千葉の久留里線のような、日中に五時間以上も空きが出てしまうような電車ではないだろうと思った。駅にはたぶんきっと、多かれ少なかれ、飲食店が立っているのかなとも考えていた。

代表は、ホテルをとろうかとも言っていたが、新幹線のひかり号を使えば帰れるからと言って断った。大丈夫ですかと代表は心配していたが、そんなことを言われるほど、不便なところではないと思っていたから、あまりしっかり聞かなかった。

大学の同級生たちは、彼がそんな田舎町に教えに行くと聞くと、ある者は嘲笑し、またある者は心配した。いずれにしても喜んでくれた人は誰もいなかった。左遷だとか、島流しだとか、そういう言葉ばかり聞かされて、ちょっと嫌な気持ちがしないわけでもなかった。首都圏には、やる気のある者が多いから、教え甲斐もあるよ、なんて言ってくれた音大教授も、田舎の者は、権力意識だけはめったやたらに強いから、潰されないようにと変な励ましを送ってよこした。知り合いの者たちは、少なくとも久留里線を使うことはなくてよかったねえとからかったりもした。そういう心無い励ましに、彼は多かれ少なかれ、傷ついたことも確かだった。運のよいことに、彼の両親だけは、やっと音楽関連の仕事ができてよかったねえと励ましてくれて、彼の吉原行きをあっけなく承諾してくれた。その通りでもあって、他の音大生に比べて自分は運に恵まれないことは自覚していたから、素直に喜べばいいと思っていた。

遂にその日がやってきた。予定していた通り、彼は東京駅まで電車で行って、新幹線のひかり号に乗り込んだ。グリーン車をとる金銭的な余裕はなかったが、それでも自由席には行きたくないから、三島駅まで指定席を使った。三島駅までは、四十分くらいですぐに行けた。

そこから、吉原駅へ行くためには、東海道線を使う必要があった。本数は少なくとも、一時間に五本あったが、その半数がすぐ近くの沼津駅までしか運航されておらず、吉原駅に行ける電車は減少していた。そのため、一番近くても、20分ほど待つ必要があった。これだけでも、都会に住んでいる彼には、不便だなと思われた。

駅中で時間を潰して、吉原へ行くための電車に乗ると、電車の窓からは、だんだんに高層ビルも、大型ショッピングモールもなくなっていき、代わりに水田とか畑などが目立つ田舎風景に変わっていった。彼が予想していた、喫茶店のような飲食店がある駅などどこにもなかった。こうなると、昼食の確保という問題も浮上した。せめて、岳南電車と接続駅になっている吉原駅では何かあるだろうと、信じるしかなかった。

そうこうしている間に吉原駅に到着した。電車を降りると、人間の声よりも、ヒヨドリとか、尾長の声が響いているという、それまでの駅よりもさらに田舎駅であった。階段を上って、改札口を出て、さて、岳南電車はどこかなと探しても、どこへも接続する入り口がない。駅員に聞いてみたところ、一度入り口から出ないと乗れないということで、なんでこんなに不便なと思いながら、正面入り口を出る。腹が減ったと思ったが、食事できるところなんて、これっぽっちもなかった。

とりあえず、岳南電車吉原駅に歩いていく。駅は、東京都内では絶対にありえない瓦屋根の駅だった。自動切符売り場もなければ、自動改札機もない。しかも、東京では当たり前のように使っているスイカの利用もできないと書かれていた。手描きで書かれている時刻表によると、電車の本数は、少なくとも一時間に一本はあったから、久留里線ほどひどい田舎電車ではなかったが、スイカが使えないとは、久留里線とほぼ変わらないじゃないかと思われた。

とりあえず、寝ぼけ眼の駅員さんから目的地である岳南原田駅までの切符を買って、すぐに切符を切ってもらってホームに行くが、人は誰もいない。これは本当に電車が来てくれるのだろうかと疑うほど、駅舎はぼろぼろで、ところどころペンキが剥がれ落ちている。駅の中は、人がいるというよりも、小鳥たちの声のほうがうるさいくらいで、本当にすごいところへ来てしまったものだと、後悔せざるを得なかった。

これでは、電車に乗るもの自分一人だけかなあと考えていると、あの駅員さんが何かしゃべっている声が聞こえてくる。それと同時に、初めて人間の声が聞こえてきたので、彼は思わず、その人物が誰なのか気になってしまって、入口の方を見てしまった。

「いつも手伝ってもらっちゃって、ほんとうに悪いな。まあ、どっちにしろ、車いすの人間は誰かに手伝ってもらわないと乗れないけどさ。」

「いいよ、この時間は暇だから、いつでも手伝えるよ。」

「悪いねえ。ここまで親切にしてくれる電車なんて、岳南電車だけだぜ。」

それは、人がいないからだと彼は吹き出したくなってしまった。

やってきたのは、黒色に白いくもの巣のような柄の着物を身に着けて、古臭い形の車いすに乗った一人の男性だった。もっと専門的に言えば、黒大島という生地で、麻の葉柄ということになるが、そんなことはまるで知らない。

「杉ちゃん、今日はどこまで行くんだっけ?」

「岳南富士岡駅。そこの近くに、呉服屋が立ったというので覗いてみたいの。」

「わかったよ。じゃあ、のるときに運転手さんにそう言って、おろしてもらってね。」

「はいよ。よろしく頼むぜ。」

こんなやり取りが聞こえてくるなんて、まるで大正時代にタイムスリップしたのではないかと彼は笑いたくてたまらなかった。

「何笑っているんだ。」

不意に声をかけられて、彼は驚いてしまった。まさか、声をかけられるとは思わなかった。

「あ、すみません。」

「だから、笑っている理由を教えろよ。一度気になると、答えが出るまで離れない性分なので。」

「い、いや、、、。」

まさか、今のやり取りが面白いなんて言ったら、怒られるかもしれない。だから、わざと話題を変えて、

「地元の方ですか?」

と聞き返す。

「地元というか、富士駅からこっちへきて、また乗り換えるんだ。」

それでは、東京と同じ使い方ではないか。

「この電車は、いつもこんなに人がいないのですか?」

「そうだよ。東京みたいに混雑するなんて夢のまた夢じゃないのか。」

「全部の駅が、ですか?」

「うん。運転手さんにおろしてもらってる。」

と、いう事は、今日のお昼にはありつけないのかも?

「どこかにコンビニはありませんかね。」

勇気を出して聞いてみる。

「ないね。どこまで行く?」

「あ、岳南原田駅。」

目的地を言ってみるが、もうないか、とあきらめかけた。

「コンビニはないけど、岳南原田駅の隣に蕎麦屋があるよ。栄養満点でものすごくおいしいらしい。」

「え、ほんとに!」

「相当腹が減ってるな。改札口を出たら右手に進んでくれ。そうすると、店の看板が見えてくるから。店の名前は忘れてしまった。」

名前を忘れられては、正直力が抜けてしまうが、たぶんほかに店舗はなさそうだった。

「ありがとうございます。じゃあそこに行きます。」

「はいよ。まあ、ものすごくおいしいので、楽しんで食べてくれ。それよりさ、ここになんの目的で来たの?たんなる観光の目的ではなさそうだね。」

「あ、まあ、仕事で。」

「へえ、出張かなんか?どこの企業だろ。この辺りは、基本的に製紙会社ばっかりだもん。でも、見る限りそのなりでは、製紙会社って感じしないじゃない。なんか、でかいオフィスで働いている、営業マンって感じがする。」

そういうわけじゃないんだけどな、と彼は思った。ということは、この街ではあまり音楽は普及していないのだろうか。

「そうじゃないんです。ある団体から、指導を頼まれていて。」

「へえ、嘱託社員かい?」

「だから、企業ではないですよ。しいて言えば、講座です。」

「あ、講師なんだね!公民館講座とか?」

「まあ、場所はそうですが、公民館の主催ではないですけどね。」

「なるほど!すごいな。光栄だ。そうかそうか、富士もそういう偉い人を迎える時代になったか。こんな辺鄙なところに、偉い人は来ないだろうって、ずっと思っていた。ちなみに誰に頼まれて?」

「富士市合唱連盟からの委嘱ですね。」

「あそう!すごいじゃん!ぜひさ、富士の合唱団をかっこいいものにしてやって頂戴よ!毎年、合唱祭見に行ってるけどさ、もうあまりにもへたくそすぎてあきれていたところだった。それに、富士の合唱連盟もやっと気が付いてくれたようだな。富士で一番有力な合唱団というと、富士市民合唱団だろうな。そこへ行く?」

「いや、違うんです。そこじゃないんですよ。」

「へえ、じゃあどこだ?旭化成かな?」

「そこでもないんです。合唱団方舟というところだそうで。」

「へえ!渋い名前だねえ。僕もよく知らないが、頑張ってくれ!第一回演奏会をしたら必ず見に行くよ。君の名前なんていうの?」

「あ、名刺お渡ししますよ。」

彼は、財布から名刺を出して、その人に渡した。

「ごめんね、僕、読み書きできないの。なんて読むんだろ。」

その年で、読み書きができないとは驚きだが、車いすに乗っているのであれば、そういう事もあり得るかもしれないと思った。

「ああ、小屋敷紀夫と言います。」

「小屋敷紀夫ね。僕は、影山杉三だ。杉ちゃんと呼んでくれ。よろしく頼むぜ。」

そう言って、杉三は、右手を差し出した。彼、つまり小屋敷紀夫も、それを握り返した。

「一つ忠告しておくが、富士の合唱団というのは、富士市民と旭化成を除き、ものすごく下手だ。他に良い団体は全くない。でも、メンバーさんたち、決してなまけ心とかそういうわけではないから、そこを変に否定することはしないでやってくれよ。もし、へたくそすぎて頭に来ても、絶対に怒鳴らないで頂戴ね。そこだけは、忘れないでやってくれ。じゃあ、頼むな。いい団体を作ってあげてね。」

杉三がそう言い終えると、

「まもなく、岳南江尾行きが到着いたします!」

と、駅員のでかい声が響き渡る。マイクもないのに、よくとおるものだと思ったら、駅がそれだけ小さいという事であった。

しばらくすると、赤い色の一両電車が入ってきた。自動ドアなのはまずよかったが、降りてきた乗客は、五人しかいなかった。全員降りたのを確認して、

「運転手さん、ちょっと岳南富士岡まで乗せてくれないかな。」

と杉三が言うと、

「おう、任せとけ。」

運転手が外へ出てきて、杉三を一両電車に乗せた。まるでタクシーみたいだった。そのまま杉三と運転手は、岳南富士岡駅近くに開店した呉服店の話をし始めてしまったので、紀夫が声をかけることはできなかった。というより、運転手と杉三が楽しそうにしゃべっているので、邪魔をしては悪いような気がした。それくらい、杉三と運転手は仲がよさそうに見えた。

紀夫が電車に乗り込むと、後から何人か老人が乗ってきた。どうやら誰も乗らないというわけではないようだ。まあ、もしそうならとっくに廃線になるよなあと考え直した。全員乗り込んで、数分後に電車は発車したが、中で杉三を交えてお客さんたちは楽しそうにおしゃべりをつづけた。これは、田舎の電車にしかない特権のようなものであるが、こんな電車は東京には絶対ないなと思われた。たぶんきっと田舎電車と言われる八高線でもありえないだろう。

なんか、都会に住んでいる自分は寂しかった。

幾度か、車内アナウンスが流れて、いくつかの駅に止まった。乗る人も降りる人も何人かいるが、必ずそのおしゃべりに参加している。

「まもなく、岳南原田駅に到着いたします。降り口は、右側です。切符は車内にある運賃箱にお入れください。」

間延びした車内アナウンスが流れて、紀夫は立ち上がり、運賃箱となる小さな箱に切符を入れて、ドアの方へ行った。杉三は、まだ他のお客さんとしゃべっていて声をかけようとしたが、かえってまずいかなと思ったのでやめた。会話を乱したら他のお客さんにも悪いなとも思った。もう少し行くと、岳南原田駅のホームが見えてきた。杉三が言った通り、「そばうどん」と書かれている旗が見えたので店があるんだなとわかった。

だんだんに電車のスピードは遅くなっていって、遂にホームの前で止まった。ドアが自動で開いて、紀夫はホームへ出た。電車の中ではいまだに楽しそうなおしゃべりが続いている。

「発車いたします、ご注意ください。」

間延びしたアナウンスとともに電車は発車し、遠ざかっていった。なんだか、どこか別の国へ連れて行く特別な車のように見えてしまった。

岳南原田駅で降りたのは紀夫だけで、他に乗車した乗客もなく、紀夫はホームにしばらくたっていた。ああいう、楽しそうにおしゃべりができるのはなんだかうらやましかった。

なんだか東京に住んでいる自分が寂しかった。

とりあえず、約束の時間までにはまだ一時間近くある。待ち合わせ場所の原田公民館は、駅から歩いて五分もかからないと聞かされている。そうかと思えば、コンビニとか書店とか、時間つぶしになりそうなものは何もなかった。あるとしたら、隣にある蕎麦屋だけだ。それにしても、腹が減ってもうたまらなかったので、蕎麦屋に入ることにした。

小さな蕎麦屋だったけど、中には結構人はいた。店は老夫婦が切り盛りしていて、旦那様がそばを打ち、奥様がお給仕をするという感じだ。紀夫はおばあさんの案内で、カウンター席に座らせてもらった。

「ご注文は?」

「はい、とりあえず、、、。」

渡されたメニューをもとに少し考える。とにかく、食べごたえがあるものを食べたいから、

「力うどん。」

と言うと、

「お父さん、力うどんだって。」

高らかにおばあさんがそういった。

「はいよ!」

馬鹿に威勢のいいご夫婦だなあと思った。しかしまわりの人たちの視線は痛いなと思った。あの、杉ちゃんという人の言葉は本当の様で、東京にあるオフィスビルのような建物はまるで存在しなかった。その代り、周りに立っている高さのあるものは工場の煙突で、なんだか空気が悪いところだなと感じられた。そばやうどんを食べているお客さんも、皆カーキ色の作業服を着た人たちばかりで、皆、工場で働いている人ばかりなんだなとわかった。観光客らしき人も、スーツを着た営業マンも誰もいない。その作業員さんたちは、この人どこから来たんだかという表情で、自分をじっと見る。中には、物好きな人がいるんだなと言って、笑っている人も少なくない。なんだか、自分のことを異邦人と思っているのだろうか。そんなわけないんだけどな。それに、作業員さんたちの、えとあの音が混ざっているような汚い声は、音楽家にとっては最も嫌なものだった。たぶん、中国語だったら我慢できるかもしれないが、自分の経験上、ヨーロッパからやってきた音大の教授たちは、こういう発音を嫌っていた。音大生で、しかも声楽をやってきた人であれば、これをしないように訓練しているが、田舎に住んでいるこういう人には、全く触れる機会などない。まあ、そういう事なんだけど、音楽家にとってはこういう環境はきついというか、苦痛でたまらない。

「ちからうどんでさ。」

数分しかたっていないけど、おばあさんが、力うどんを持ってきてくれた時には、何時間も経っているような気がした。

作業員さんたちは、まだ汚い言葉で何かしゃべっている。自分は中国へ来てしまったのではないかと勘違いするほど、ひどい口声である。男性たちなのに、紳士的に声を落とすということはしないで、ものすごい大声でがなり立てる。時には煙草を吸っているものもいて、店の中はたばこのにおいで充満している。おじいさんは何食わぬ顔をして、料理を作っているし、おばあさんは料理を運んだり、勘定を受け取ったりしながら、彼らの話しに時々加わることもある。この二人、よくこの人たちと言葉を交わせるもんだなと感心してしまうほどだ。

紀夫が、出された力うどんをほとんど味も感じないで食べ終えて、急いでおばあさんにお金を払い、お釣りを乱暴に受け取って店の外に出ると、無事に日本に帰ってきたという錯覚に陥った。まだ時間はあったけど、とても同じところへいられなくて、彼は、原田公民館に突進していった。
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