残心

文字数 3,059文字

 

 

 足の位置を決め、姿勢を正し、大きく、高く弓を構えてゆっくりと下ろして行き、弦を引き、精神を統一して矢を放つ。
 洋弓とは違い和弓にはバランサーや照準はない、心に乱れがあればそれは姿勢に現れ、矢はまっすぐに飛んで行かない。
 そして残心と呼ばれる所作で矢に現れた己の心の状態を確かめる。
 八節と呼ばれるその一連の所作は精神を統一するものであると同時に、心の迷いを映し出す鏡でもあるのだ。

 小夜子が弓道に出会ったのは高校時代、それから多感な高校時代、迷い多き大学時代、悩み多き社会人生活と、揺れ動く若い日々を過ごして来ているのだ、もちろん恋愛にまつわる悩みもあった。
 弓はその時々の自分の心の状態を如実に示してくれたし、迷い、悩んだ時に会心の一矢を放つことができると、不思議と心は決まった。
 自分にとって得になるとか損になる、とか。
 他人からどう見られるだろうか、とか。
 親をはじめとする周囲がどう思うだろうか、とか。
 そんな煩悩やしがらみの霧を一本の矢は切り裂き、振り払い、自分の心が何を欲しているのか、自分はどうするべきなのかをハッキリと示してくれる。
 
 今日も小夜子は弓道場にいる。
 
 足踏み……足の位置を決め、正しい姿勢を作る。
 
 高校時代、陰湿ないじめに遭っているクラスメートがいた。
 調子が良くクラス女子のリーダー的になっていた子は、引っ込み思案で強く自分を主張できない彼女を疎んじ、馬鹿にした。
 いじめていた側も、周囲に調子を合わせて人気者であり続けるために多少なりとも自分を押さえ付けていた部分があったのだろう、その鬱憤のはけ口を彼女に求めたのだ。
 小夜子は彼女に同情していたが、何をするにもクラスの中心だったリーダーと敵対すると自分も疎まれる恐れがあると思い、つい見て見ぬフリをしていた。
 そんな時、小夜子が放つ矢は、思い描く軌道を逸れて右に左にばらける。
 小夜子は意を決して彼女を庇い、その結果リーダー格とは決別したもののクラスには小夜子を支持する者も多く、リーダー格は次第に孤立して行き、ついにはいじめていた子に頭を下げた。
 
 胴造り……弓を左ひざに置き、右手を腰に当てる。
 
 高校二年の冬、小夜子は進路に迷っていた。
 教師になりたいという思いはあったのだが、一方で心理学にも興味があった。
 その時も矢が小夜子に進むべき道を示してくれた。
 小夜子は教育学部を選択した、教師という職業は生徒に対して重い責任を担っていると思う、まっすぐに飛んだ矢はその責任から逃げてはいけないと教えてくれたのだ。
 
 弓構え……矢を弦にかけ、手の内を整えて的を見る。
  
 大学入試の前日、不安な心を鎮める為に弓を引いた。
 なかなか定まらなかった矢が思い通りの軌道を描いた時、不安は消え去って静かな心で入試に臨むことができた。
 
 打ち起こし……弓構えの位置から両拳を同じ高さに保って弓を高く掲げる。
 
 大学時代、男子学生から求愛された。
 小夜子は特に好きだったわけではなかったが、明るく社交的でスポーツマン、なかなかのイケメンでもあったので『好きなんだ』と言われれば悪い気はしない。
 心は揺れ動き、矢の軌道も揺れ動いた。
 気持ちを鎮めて雑念を払い、所作と的に集中して射た矢は的の中央に向かって飛んだ。
 そして翌日、小夜子は彼に『ごめんなさい』と告げた。
 その彼が二股をかけていたことを知ったのはその数日後、二人の女学生に吊るし上げられる彼を、小夜子は醒めた目で見ていた。
 
 引き分け……打ち起こした弓を左右均等に引き分ける。
 
 大学卒業を控え、教職課程はすべて取得し教育実習も終了した。
 しかし、実際の教育現場に接して、自分に教師が務まるのか不安に思った。
 大学で得られるのは教師になるための知識と資格に過ぎない、実際の教育現場ではさまざまな生徒がいてひとりひとり違う人格を持っている、皆を正しく導けるのだろうかと。
 だが、教師が生徒を導くなどというのはおこがましいことで、ひとりひとりに真摯に向き合えば良い、成長するのは生徒自身なのだと気づいた時、矢はまっすぐに飛んで行った。
 
 会……心身を一つに整え、射る機会が熟すのを待つ。
 
 教師となって五年目、小夜子は再び求愛を受けた。
 同じ学校に勤める先輩、社交的でもなければイケメンでもない、しかし何事にも、誰にでも真摯にまっすぐ向き合う彼を小夜子は尊敬していた。
 しかし彼は一回り年上である上、五年前に伴侶を亡くして七歳になる娘さんもいる。
 周囲は何も子連れの男性と……と、面と向かって反対するわけではないが、懸念を示した。
 そして尊敬と愛情は同じではない、小夜子は彼を立派な教育者と尊敬しているし、人間的にも魅力を感じる、しかし、それが愛情と呼べるものなのかわからずにいた。
 彼は三十八歳、求愛は求婚にほぼ等しい、小夜子も二十八歳、求愛に応えるということは結婚を前提とした交際を承諾するに等しい。
 彼は小夜子に拙速な返事を求めなかった、四十を間近にした子連れ男は君に吊り合わないことも承知しているとも言った。
 小夜子はそうは思わない、むしろ彼の気持ちが浮ついたものではないことを信じることができる。
 
 離れ……矢を放つ。
 
 迷った末に小夜子は彼の求愛を受け入れ、交際を始めた。
 交際が深まるほどに彼の真摯さが身に沁み、心惹かれて行く。
 交際一年が経った頃、娘さんにも会った。
 無邪気に、まっすぐに育っている可愛らしい女の子だった。
 彼が中座した時、小夜子は思い切って娘にそっと尋ねてみた、お母さんのことを思い出すことがある? と。
 あまりよく覚えていない、という返事が返ってきた、そのころまだ二歳、覚えていないのも無理はない、だが彼女はこうも言った、でもお父さんがいるから大丈夫、と。
 だが、そのつぶらな瞳には一抹の寂しさが浮かんでいた……。
 
 今、小夜子は弓道場にいる。
 足踏み、胴造り、弓構え、打ち起こし、引き分け……一連の所作はぴたりと決まる。
 そして会、心がしんと静まり機が熟すのを待って、小夜子は弦を離した。
 矢は小夜子が思い描いた以上にまっすぐに飛び、的の中央を射抜いた。
 
 残心……矢が離れたときの姿勢をしばらく保つ。
 
 足踏みから始まり離れに至るまで、ぴんと張り詰めて行った心が穏やかに緩んで行くのを待ち、小夜子は弓道場の片隅に置いた荷物に歩み寄った。
 そしてスマホを取り出して彼の番号アドレスにカーソルを合わせた。
 
 今夜、食事に誘われている、かなり改まった高級な店で娘さんも同席とのこと。
 小夜子はまだ返事をしていなかった、彼は機が熟するまで辛抱強く待ってくれた、今夜会えば彼が何を切り出してくるのかは想像がつく。
 いよいよその場に直面してノーとは言いたくない、イエスと答える覚悟が出来ていないのなら会うべきではない、小夜子はそう考えていた。

『今夜のお食事、楽しみにしています』

 小夜子はそう打つと、送信ボタンを押した。
 電波は見えない矢となって、彼の元へまっすぐに飛んで行ってくれるだろう。
 一点の曇りもなく定まった小夜子の心を乗せて……。


           (終)
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