第六章

文字数 7,404文字

第六章

杉三たちは、病院の近くにある、弥栄という看板を掲げた小さな料理店で、食事をしていた。

「それにしても、今日はラッキーだったなあ。医者は散々な馬鹿医者ではあったが、それよりも、もっと人格的に優れている人に出会った。これはたぐいまれなる幸運だったぞ。」

そういって杉三は、蟹汁をずるっとすすった。

「ほらあ、食べろ。せっかくこの店紹介してくれたんだから、食べるのが礼儀だよ。」

診察が終わって薬をもらい、華岡に迎えを頼もうと、電話をしたが、いつまでたっても出ないのだった。たぶん、捜査会議がヒートアップしてしまい、電話に出ることを忘れてしまっているのだろう。困っていると、うちの店の車を出してやると言ってくれて、待っている間に、この店で食事をするようにと指示を出してくれたのである。

「そうだね、、、。」

水穂は仕方なく箸をとったが、食欲はまるで出ず、食べ物を食べるという気にはなれないので、一瞬周りを見てしまったのである。

「大丈夫だよ。変な客とは思われてないよ。ジョチの話によると、この店にはもっと重たい病気の人が、たくさん来訪しているそうだから。ほら、事実、隣の席のおじさん、酸素ボンベを背負ってご飯食べてる。」

確かに、隣の席に座ってご飯を食べている男性は、酸素ボンベを背中に背負い、鼻からチューブをつけていた。隣で、娘さんか、年の離れた奥さんと思われる女性が、食べるのを手伝っていた。

「躊躇しないでさあ。食べないと失礼だよ。せっかくさ、店を紹介してくれて、帰りの車まで手配してくれたんだぞ。ジョチだけじゃなくて、この店のおばちゃんにも失礼だ。ほら、食べろ!」

「あら、お客さんお口に合いませんか?」

ちょうど、隣の席のお客さんの食べ終わったお皿を片付けるためにやってきた店のおかみさんが、水穂に声をかけた。

「ほら、言われてる。イケメンだから目立つんだよ、水穂さんは。そういうときは礼儀正しく食べるんだよ!」

仕方なく、渋々お茶を飲んだが、目の前にあるおかゆ定食を、食べる気にはどうしてもなれないのだった。

「いいんですよ。もうこの店のお客さんは、そういうお客さんばっかりですから。中には、末期癌で悩んでいる方もよく来てますから、あたしたちは気にしてません。ちゃんとお代を払ってくれれば、残しても構いませんよ。」

親切におかみさんがそういってくれた。確かに無銭飲食さえしなければ、店としては特に問題はないのであるが、何も食べないというのは、やっぱり経営者側としては嫌な気がすると思う。

「ああ、すみませんね。申し訳ないね。代わりに僕が頼むわ。おかゆと蟹汁だけじゃあとても足りないからさあ、デザートかなんかない?」

水穂が返事に困っていると、杉三が代わりに返答した。

「はいはい。じゃあ、いまデザートメニュー持ってきます。確か、代読が必要なんだったよね。読んで差し上げますから、選んでね。」

「おう、頼む頼む。あと、なんか飲み物も飲ましてくれるとありがたいわ。」

「はいはい。うちでやっているデザートはねえ。チーズケーキと、イチゴショート、あと、高齢の向けにクリームあんみつ、追分羊羹。飲み物は、コーヒーと、紅茶とアップルジュース。どれにする?」

「僕はイチゴショートとアップルジュースがいいな。水穂さんは?」

これ以上食べ物を追加したいなんて、まったく思っていなかったが、またうるさく言われるのではないかと思って、

「あ、羊羹のほうが。」

とだけ言った。

「はい。じゃあ、追加でイチゴショートとアップルジュース、あと、羊羹ですね。飲み物はいいんですか?」

「あ、はい。お茶さえもらえれば。」

「えー、ダメだよ。何か飲まないと。」

「それじゃあ、杉ちゃんと同じものでいいです。」

「はい。じゃあ、アップルジュースを二つですね。じゃあ、もうしばらく待ってください。」

おかみさんは、伝票に記入して、厨房に渡した。

「それにしても、きれいな人で、見かけない顔だなあと思っていたんだけどね、お客さんはうちの店は初めて?病院で診察してもらった帰りに、うちを偶然見つけたの?」

「ジョチ、じゃなくて、曾我という人が、紹介してくれたのよ。親切なお店だから、そこで食事していきなってさ。」

「曾我?あの、焼き肉屋さんの理事長さん?たぐいまれな、珍しい病気でずっと通っているという。」

「そう。まさしく。ちっとばかり変わった風貌で、黄色い鼻水をたらったら流した、頼りなさそうな人ね。」

「あら、いいじゃない。あの方は、うちのあしながおじさんみたいな感じの人なのよ。ご自身はいらっしゃらないで、いいお客様をご紹介してくれるの。しっかりサービスしますから、二人とも常連になってね。」

「おう、わかったよ。じゃあ、この病院に通ったとき、時折よらせてもらうわ。この病院には馬鹿医者はいるが、こういう人徳者はいるようだな。おい、食べろ!ほら!」

「はい、わかったよ。」

仕方なく、おかゆを口にした。簡素な白がゆであったが、薄味で意外にうまかった。

「どうだ、うまいだろ。感想くらいいいな。」

「そうですね、、、。」

「へへん。もったいぶらないでさ、見た目以上にうまいって、正直に言おうね。イケメンすぎると、思っていることが、顔に全部出ちゃうからな。ごまかしは利かないぞ。」

「すみません。失礼しました。」

「よし。それでは、完食だな!」

「はい。」

無理やりではあったけど、そうしなければならないなと思って、おかゆを口にした。

「いいのよ、お客さん。体の具合が悪いなら、無理して食べなくても。」

おかみさんが親切にそういってくれるが、

「イケメンすぎるからと言って、甘やかしてはだめだぞ。ちゃんとご飯を食べてもらわないと、親切にしてくれた人たちに、失礼極まりないというものだからな!」

でかい声で笑いながら、杉三は言った。

とりあえず、亀より遅いペースで、定食を完食し、羊羹とショートケーキも食べ、店にお代を払った。店の外に出ると、ジョチが用意してくれたピカピカの高級車が、二人を待っていてくれた。親切な老運転手に乗せてもらって、二人は製鉄所に回してもらうようにお願いした。



製鉄所に帰ってくると、恵子さんとブッチャーが玄関先で帰りを待っていた。

「遅かったわねえ。また待たされたんでしょう。最近の病院は、やたら待たされるから。ご飯は食べてきた?一応用意してあるけどさ、疲れているようだから、食べ終わったら早く寝て。」

草履を脱いでいると、恵子さんが心配そうにいった。

「あ、診察自体はたいして時間を取られることはなかったが、隣にある料理屋で食事してきたから遅くなったのよ。」

杉三がそう説明した。

「へえ、いいじゃないですか。着物に蟹のにおいがついてますね。札幌かに本家みたいなそういうところですか?俺たちは、経済的に絶対にいけないところですよ。そういうカニ料理なんて。」

ブッチャーがうらやましそうにそういう。

「はい、行ってきました。カニというか、おかゆとかそういうものを提供してくれる店でしたけどね。」

「へえ、変わった店があるのね。病院の近くにあるんじゃ、おかゆを提供する店があっても不思議はないわね。で、診察どうだった?また何か言われてきた?」

「まあ、前回と変わりませんよ。すみません、五分だけでいいですから、寝かせていただけないでしょうか。」

「あ、いいよ。寝な。久々に腹いっぱいになるまで食ったから、思いっきり寝れちゃうんじゃないの?そういうときは、寝たほうがいい。」

杉三がそういうと、恵子さんも、

「まあ、食べられるまで食べれたんだから、ちょっと楽になれたんでしょうね。きっとあたしの食事よりおいしいんでしょうし。もう、河童のさんぺいのかけ布団と、黒豹の毛皮なんて、寝にくいでしょうけど、もうちょっとしたら、クリーニング屋から連絡が来るから、それまで我慢して。」

と、先ほどの発言を撤回した。

「はい。」

そんなことはどうでもいいらしく、水穂は四畳半に戻っていった。

「あーあ、俺もカニ料理、食べたかったなあ。」

ブッチャーがでかい声でそういったため、恵子さんも思わず吹き出してしまったが、すぐに真顔に戻って、

「で、診察どうだったのよ、杉ちゃん。ちゃんと聞いてきてくれた?」

と杉三に聞いた。それを聞いて杉三は苦い顔をする。

「たぶん、もう行かないんじゃないかな。」

「ええー、なんで?杉ちゃん口がうまいで有名なんですから、ちゃんと定期的に病院に通ってもらうように仕向けてくれるんじゃないかって、俺たちは期待していたんですよ。杉ちゃん、君みたいな人でも、説得できなかったの?」

「いやあ、限界というものはあるよ。人間だもん。」

「杉ちゃん、どういうことよ。ちゃんと説明して。あたしたちは、何とかして病院に通ってもらうようにしてほしいんだから。」

「そうだねえ、、、。僕も、あんな馬鹿医者のいる病院には正直連れて行きたくないね。なんかね、腕はいいけど、人権侵害的な発言を、患者に向かって平気でするんだよ。あれじゃあ、何回も連れて行くと、水穂さんもかわいそうだなと思ったよ。」

「だって、口コミではいい病院と書いてあったはずじゃないか。」

「だから、口コミなんてただのペンキ塗ったのと変わんないよ。あの医者は、僕たちだけではなく、子供さんとかお年寄りのような弱い人に、平気で暴言を吐くから。」

「そうですかあ。口コミではよいと書いてあったが、あそこは耳鼻科も併設されているので、俺がみた口コミは、耳鼻科の医者のことだったのかなあ。」

「ブッチャーの推理が一番正しいねえ。耳鼻科の先生にあったことはないが、ものすごく混んでいるので、そういうことなんだろう。とにかく、いくらガチンコバトルをしても、改善する気配はないし、正直、連れて行くのはかわいそうだわ。」

「せっかく美人の駅員が、いいとこ見つけてくれたと思ったんだけどなあ。ヴロンスキーも、完敗か。」

ブッチャーは頭をかじって、恵子さんはまたため息をつくのだった。



杉三たちを病院から送り出して、とりあえずジョチも自宅に帰った。病院からは比較的近いところにあるので、歩いて帰ると店の者には言っていたが、杉三たちを送り出すために、車を呼び出してしまったので、今日に限って車で帰ることになった。

「それにしても今日はどうしたんですか。いつも歩いて帰ってくるはずの理事長が、いきなり呼び出したものですから、てっきり体調でも悪くしたのかと、社長が心配してますよ。」

間延びした声で老運転手が、言った。そんなことまで心配してくれるのは、ある意味ではありがたいのだけれど、同時に迷惑なことでもあった。

「いいえ、ごらんの通り達者でおります。呼び出したのは、あの二人を自宅まで送ってほしかったからだけのことですよ。運転手さんも見ての通り、かなり大変そうだったでしょ、あの二人。」

「そうですねえ、今時ああいう症状を出すなんて、信じられませんでした、というのが一般的な感想ではありますが、もしかしたら、労咳に似た症状をだす難病が、まだまだあるんかなあと思って、黙っておきました。」

「はい。そうしてやってください。きっとそういうことなんでしょう。一生懸命看病しているようですが、大変だと思います。なかなか理解もされないで、医者にさえ馬鹿にされるんじゃ話しになりませんよ。江戸時代からタイムスリップなんて、あんな酷い言い回しを医者が使うなんて、程があります。」

「そうですなあ。きっと社長も何回も同じことを言われたんじゃありませんか。」

運転手がボソッと言った。

「そうだね。」

ちょっとため息が出た。

「でも、あの人、本当にきれいな人でしたなあ。まるで、映画俳優を乗せたような気分になりました。先代も社長も、決してああいう顔ではありませんから、なんだか夢のようでしたよ。ああいう人の運転手になれば、ちょっと自慢できそうですねえ。」

楽しそうにいう老運転手。

「すみませんね。僕も敬一も、顔に関しては最悪ですからね。」

「はいはい、わかってます。長年、お宅で運転手をしてきたんですから、不平はいいません。あの二人、丁寧に礼を言ってましたよ。一期一会といいますが、一回だけでもああいう人を乗っけることができたなら、それで満足です。」

老運転手は、そういってくれたけれど、やっぱり名残おしいなあという気持ちが見て取れた。

「着きましたよ。社長も心配で待っているんじゃないですか。」

自宅兼店舗となっている大きな建物の前で車は止まった。玄関には電気の入った派手な文字で「焼肉、しゃぶしゃぶの店、ジンギスカアン」と書いてある。まだ夕飯時刻には早く、客はさほどいない。店の様子を確認するためでもあり、ジョチは、店の正面入り口から中に入った。

「あ、お帰りなさいです。」

店のテーブルを拭いていた女性の従業員が声をかけた。

「あれ?敬一は?」

「社長は、ずっとここで待ってたんですけど、急な呼び出しがかかって、ちょっと前に出かけていきましたよ。」

全く、敬一も忙しいことだ。休む暇なく働いている。

「それより、社長が心配してましたけど、お体本当に大丈夫なんですか?車を呼び出したなんて、半年ぶりでしたので、又悪くなったのかと心配してました。」

「あ、気にしないで下さい。全然問題ありません。ただ、病院で知り合った患者さんがいて、自宅まで帰るのが困難なために呼び出しただけのことです。」

「あ、そ、そうですか。ごめんなさいです。社長が、様子が変わっていたら必ず理由を聞くようにと言っていたものですから、聞いただけのことです。」

あーあ、自分が人助けすると、何でこんなに話題になってしまうんだろうなと思ってしまうのであった。

「とりあえず、疲れたと思いますので横になって休んでくれてもかまいませんからって、社長が言ってました。今の時間ですとあんまりお客さんもいませんし、今日は予約のお客様も今の所ないです。」

「あ、えーと、そうですか。わかりました。まあ、そうでしょうね。まだ忘年会シーズンでもないですしね。そうさせてもらいますよ。ただ、必要なことがありましたら、呼び出してくれて結構ですからね。」

本当は、何かをいいつけてもらったほうが、自分としては気楽なんだけどなあと思いながら、仕方なく自室に戻った。以前は、忘年会とか新年会シーズンなど忙しい時は呼び出されて、体に負担のさほどかからない、レジうちなどを担当したことも多かったが、今は殆どを雇っている従業員たちがやってしまうので、自身がやることはない。特に、父母が店の経営権を弟に譲ってしまうと、弟はより多くの従業員を雇うようになったため、よりやることは減少した。弟の話だと年齢が高くなったためか、兄ちゃんには少しでも楽をさせてやりたいんだよ。なんていっていたが、店の経営路線から、外されていくようで、あまり嬉しくはないのである。弟は、血統が繋がっているわけではないものの、意外に温和な人物であった。弟のお嫁さんである女性もそうだった。まさしく、似た者夫婦と呼ばれ、

子供には恵まれないという欠点はあったものの、おしどり夫婦として知られていた。まあそれは、自分も理由の一つになっていたから、文句をいうことはできないし、いま幸せに店をやっているんだから、それで十分だろ、兄ちゃん。といわれれば、さらに黙る。

そんなことを杉三たちと、病院で会計を待ちながら話していたところ、杉三が、歴史的なジョチの弟である、チャガタイとは大違いな弟だな、なんていって大笑いをしていた。歴史的なチャガタイは、かなりの荒っぽい性格の人物だったそうであり、確かに正反対である。ただ、三代目の不在は確かに大問題であり、従業員から養子を貰おうかと、考えていると話すと、内紛に気をつけろよ、なんて励まされるはめになってしまった。

とりあえず、部屋には帰ったが、従業員が言った通り、布団に寝る気にはなれなかった。かといって、何もすることもなく、仕方なく、机の横に置いてあった、クラヴィコードの蓋を開ける。

椅子にすわって、鍵盤に手をかけて、何か弾き始めた。曲はやっぱり、大好きなバッハのゴルドベルク変奏曲である。何かあると、悩みが解消するまで弾くのがお決まりになっている。本来はピアノを習うつもりだったが、店の営業時間に音が聞こえてくるとまずい、ということになって、音量の比較的小さい、クラヴィコードを与えられたのである。チェンバロでも構わなかったが、楽器が大きすぎて、部屋に入りきれなかったので、クラヴィコードを買ってもらった。まあ、音域的には対して変わらなかったので、どちらの楽器でもゴルドベルク変奏曲を弾くことができた。

「いらっしゃいませ。お客様何名様ですか?」

不意に従業員たちがそういい始めた声が聞こえてきたので、夕飯が近づいてきたなということに気が付く。間もなく、社長である弟たちも帰ってきて、そのまましゃぶしゃぶ屋としては最も忙しい時間帯となることになった。数時間後には、弟たちも巻き込んで、サラリーマン風の人たちが、大人数でやってきた。店の中は、酔っぱらった人たちが歌を歌ったり、でかい声で騒いだりする声で充満する。つきがーでたでーた、つきがーでた、なんという歌と、ゴルドベルク変奏曲を対比させたら、ものすごい落差だ。

本当は、自分もつきがーでたでーた、なんて歌えたらなあなんて気持ちがしないわけでもないのだった。いくらいいよいいよと弟たちが言ってくれたとしても、何もすることがないのはたまらなく苦痛なのだ。だって自分のすることは何もないんだもん。

時折、庭に生えているリンゴの木を眺めるときがある。リンゴの木って何もしないのに、花を咲かせて実をつけることができるのは、いいなあと思われるのであった。
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