第1話 にじのママ

文字数 2,532文字

「いつでもいいなんて嘘ばっかり。ほら、よく見て。ここに今週金曜までって書いてある」
 小学三年生になる真千(まち)に、渡されたばかりのプリントを見せながら注意する。家庭訪問の日を決めるための事前質問で、都合のよい日時及び都合の悪い日時を回答する用紙だ。
 娘は「知らなかった」と言って部屋に駆け込んだ。本当に見落としていただけなのか、家庭訪問が嫌でわざと知らないふりをしたのか分からない。

 夫婦と女の子一人の三人家族で家計を切り盛りしている私の趣味は、手すさびで小説めいた物を書くことだ。以前はただ書いて、家族やごく近しい友達に見せるくらいだったけれども、今はいくつかの投稿小説サイトに登録し、作品をちらほらと上げている。
 今日は娘に対し、よく見ていないんだからと叱ったけれども、実は内心忸怩たる思いがあった。というのも……ある投稿小説サイトで催されているコンテストお題について、しばらくの間、誤解していたからだ。

   お題:「世界に一つのお仕事小説」

 これを私の頭は、勝手に次のように解釈したのだ。

   お題:「世界に一つだけのお仕事小説」

 だから、私はこのお題に取り掛かる第一段階として、世界に一つしかない、つまりはある人物ひとりしかやっていない仕事を想像・創造することから始めた。
 難病があって、治療できるのはその医者だけ、とか。
 他人の思い出を察知する力のある人が、死を目前にした病人や老人の話し相手になる、とか。
 禁煙社会がどんどん進んで、煙草を作れる人がとうとう一人だけになった世界、とか。
 何百年もの間、連綿と続けられている伝統のある儀式なのだけれども、とある流行のせいでその仕種がとんでもなく恥ずかしいものになり、やり手がどんどんいなくなっている、とか。
 宇宙進出が盛んな時代、新発見の惑星のとんでもない高さの山に未知の鉱物があるが、未知であるが故にAIロボットには無理。第一歩を記すのは超ハイレベルな登山技術とありとあらゆる鉱物についての知識を有した人物でなければならない、とか。

 どうしても空想寄りの設定になってしまうな。現代かつ日常の範囲内で何かないかなと調べようとした矢先――気が付いた。

   お題:「世界に一つのお仕事小説」

 これの募集要項をよく読み、ニュアンスを遅まきながら感じ取れた。
 お題の言わんとすることは、

   お題:「“世界に一つのお仕事”の小説」

 ではなくって、

   お題:「“世界に一つ”の“お仕事小説”」

 なんだなと。
 平たく言うと、“仕事について、あなただけの物語を紡いでください”ってことになるのかな。
 とにもかくにも、大誤解に気付いた私は軌道修正を迫られた。いや、修正レベルでは収まらない。根本的にやり直しである。

 もうこんなやり直しの目に遭うのは嫌なので、募集要項を三読した。
 すると、さして注意しなくても気付いてしかるべきことが書いてあった。

   あなたが実際に経験した仕事体験を小説にしてみてください。

 え? これってつまり、実体験を元にしないといけない条件付きだったの?
 参った、困った。
 何故って、私は大学卒業後すぐに結婚し、家庭に収まってしまい、就職経験がない。さらにまずいことに、生まれてこの方、アルバイトの経験もない。
 どうしよう。

 仕方がない。
 定められたルールを守るために、アルバイトに応募してみようと決めた。
 締切まで一ヶ月もないんだから、狙うのは短期のアルバイトに絞るべきかな。でも、書き始める前にアルバイトを終了していなければならないわけないし。
 うん、執筆前に仕事の経験を終わっている必要があるのなら、サラリーマンは会社を辞めなくちゃいけなくなる。そんなばかな話はない。
 私は数あるパート・アルバイト情報の中から、小説のネタになる体験ができそうという基準で探した。
 けど、そういう不純な動機で探すからなのか、なかなかこれというのが見付からない。無為に日が過ぎていく。

 それに、私にはもう一つ関門があったんだ。
 つれあいの了承を得なくちゃいけない。
 取り決めをしている訳じゃないけど、家庭に何らかの変化をもたらすであろう判断は、なるべく共有するというのが我が家の流儀。
「え、何で?」
 働きに出たいんだけどどう思う?って切り出したら、反応はこれだった。あからさまに反対という顔ではない。言い当てたいのか、矢継ぎ早に聞いてきた。
「もしかして、給料たりてなくて苦しいとか?」
「ううん。それはない。楽しくやりくりしてる」
「じゃあ、毎日同じことの繰り返しで、生活に張りがない?」
「同じじゃないよ。毎日違う楽しみと苦労がある。充実してる方だと思う」
「そっか。では……人とのつながりが欲しい?」
「うーん、昔は小説書いて、周りの数人にしか見てもらえなかったけれども、今は違うから特にこだわってない」
「じゃ、じゃあ……テレビ番組の受け売りだけど、社会から必要とされていると実感したい?」
「いや、孤独感はないし。私はあなたと真千に必要とされてると、実感してる」
「……分かんないな。何で働きに出たいなんて急に」
 考え込む相手に、私は笑いを堪えながら理由を教えた。
「何だ。そういう理由だったのなら、働きに出なくてもいいじゃない」
 拍子抜けしたような、ほっとしたような表情になっている。
 逆に私はちょっぴり気色ばんだかもしれない。
「どうしてよー。このお題で無理して書くなってこと?」
「じゃなくってさ。宏実(ひろみ)さん、ずっと働いてきてるじゃない」
「はい?」
「結婚して以来だから、もう十年くらいになるのかな。まだ先は長いけれど、小説に書くネタならたっぷり経験してるでしょ?」
 ああ、そっか。そうだ。
 この人はやっぱり私のことをよく分かっている。私が自覚していないことまで、分かってくれている。

 書くテーマは決まった。家庭で私が果たしてきた、そしてこれからも果たしていく仕事について。
 とりあえず、仮のタイトルを打ち込んでみる。

   『主夫』

 おわり
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