公爵令嬢

文字数 2,770文字

 レッド。レドリーのあだ名である。

 実際、レドリー・カーフェイという彼の本名を知る者は少ない。彼が、少年時代から、そのあだ名しか名乗らないことが多かったからだ。

 そして、鍵のかかっていなかったドアをいきなり引き開けて、そう声をかけてきたのは、くりっとした小豆(あずき)色の瞳のあの少女だった。

 レッドは声のした方を一瞥(いちべつ)しただけだったが、少女がすぐに絡みついてくることを予想して、引き抜きかけた剣を(さや)に収めた。そして代わりに、無言で荷物の点検を始めた。

「ねえ、本当に行っちゃうの?」
 レッドが思った通りに、たちまち部屋の中まで駆け込んできたその少女は、彼の長い足に華奢(きゃしゃ)な両腕を回して言った。
「お嬢様、このような所におられては、閣下がご心配なさりますよ。」
 ため息と共に手を止めたレッドは、まともに少女を見てそう返した。
「今さら何言ってんのよ。それより、その言葉遣い止めてよね。」
 少女は(あき)れたというように手を解くと、不機嫌そうにひょいとベッドに腰掛けた。

 レッドは何も、少女のことをふざけてお嬢様と呼んだわけではなかった。
 実際、その少女は、このトルクメイ公国の公爵ローガンと、その妻エルーラとの一人娘。つまり公爵令嬢で、その名をミーア・クラウド・アニータ・トルクメイといった。

 世襲によって地位を受け継ぐ王侯貴族とその親族や、功績(こうせき)を上げて君主から称号を与えられた有能な者などは、その身分がわかる名が含まれるので長い名前になる。なので、それだけ長い名を持つその少女は(まぎ)れもなく小公女でありながら、普段はレッドにミーアと軽々しく呼び捨てにされていた。なんせ、レッドがミーアの正体を知ったのは、ほんの数日前のことだったのだから。レッドが剣術の指導をするのも軍の訓練施設であったため、レッドにとって、ひょんなことから知り合ったこのあまりに年のかけ離れた友人が、実は公爵令嬢であるなど思いもよらなかったのである。

 ひょんなこと・・・思えばそれは、レッドがミーアを海岸で拾ってしまったことがきっかけだった。ミーアが父に(しか)られて家出をした夜、レッドはスエヴィとそして、この国で親しくなったスエヴィの友人たちと共に酒場で飲んでいた。その帰り道でのことだった。彼が海岸沿いを歩いていると、ヤシの根元で眠りこけているミーアがいたのだ。とりあえず連れて帰り保護したレッドは、明朝ミーアを送ってやったが、なんとその時、ミーアは嘘の家を教えたのだった。そのため家も知られて、それからというもの妙に付きまとわれるようになってしまった彼は、その度に嘘の家までミーアを送ってやっていたのである。

 ミーアは、どうにかレッドを引き止める方法はないものかと、幼いなりに思案していた。

 そんな後ろの気配を気にもせずに、レッドは剣帯を締め、右の二の腕にも皮ベルトを()めた。身支度を整えだしたのである。そのベルトは、腕だけでなく足にもつけられる様々なタイプがあり、戦士と名の付く者たちの間では一般的な装備品だが、それを右に付けているのには理由がある。中に仕込まれるのは、片手でさっと伸ばすことのできる、折りたたみ式小型ナイフだ。普通なら、反対側の手で引き抜いて使うことになるので、左に装着する者が多い。だが、彼は両利き。つまり、二本の剣を同時に操ることができた。

「あっ、そうだいいこと考えちゃった。」
 ミーアが、やっと思いついて明るい声を出した。

 レッドも肩越しに振り向いて、ミーアを見た。

「私の用心棒しない?それでね、ずっとずっとここにいるの。」

 レッドはわざとらしく派手なため息をついてみせ、前を向いて、無言で首を振った。やれやれと言わんばかりに。
 その態度が、ミーアのしゃくにさわった。

「いいわよ、そっちがその気なら、私がレッドについてってやるから!」
「なっ、何言ってんだ、馬鹿やろ・・・!」
 レッドは(あわ)てて口を覆った・・・が、ミーアの方は嬉しそうな笑顔。

「嫌だって言っても、勝手にどこまでもついてってやるんだから。」
「ダメだ。」
 レッドは言い聞かせるように、一文字一文字を区切って言った。もはや言葉を改める気にもならなかった。
「お願い、絶対いい子でいるから、ねっ。もし邪魔になったら、途中で置いてっちゃっていいからさ。」
「今、思ってもないこと口にしたろ。俺の性格を分かってて。それに赤ん坊を置き去りになんてできるわけないだろ?ダメだったら、ダメだ。」

 ベッドから飛び降りたミーアは、またレッドの足にしがみついた。
「ほんとについてくよ、ねえ、ほんとについてくんだから!私の分も入れといた方がいいと思うな、ねえお願い、ね、ね?」
「こら、いい加減にしろっ。」レッドは少し手荒くミーアを押し退け、「じゃあな。」

 ところがその時、ミーアがこてんと倒れた。

 実は、その勢いを利用して、ミーアがわざと倒れたのである。そして計算通りに、レッドをたちまち罪悪感に駆らせることができた。

 ミーアは床につっぷしたまま、レッドが取り(つくろ)うように、優しく手を伸ばしてくるのを待っていた。

 やがて案の定、腫れ物に触るような、そのおどおどとした手が近付いてくるのが分かると、今度はそれを激しく振り払い、サッとベッドに乗りあがる。

「ひどいよ!レッドはちっとも悲しくないんだ!あんなに一緒にいっぱい遊んでくれたのにいいっ!」
 ミーアは枕に顔を押し付けて、とどめとばかりに派手に泣き(わめ)いてみせている。

 レッドは弱り果てたまま、そんなミーアのそばへ寄って行った。そして腰を落とし、少女の小さな両肩にそろそろと手をかけた。
「いや、ごめん、ミーア・・・悪かった。俺だって、お前のことは妹のように可愛いと思ってる。けどな、俺とお前じゃあ・・・。」
 彼はますます相手の思う壺にはまりながらも、そうしながらどうすべきかと考えた。

 そしてとうとう・・・。

「ええいっ、ちくしょうっ。分かったよ、分かった。連れて行くから、だからもう泣くな。」
 レッドは、(なか)ばやけくそで腹をくくった。

 するとピタリと泣き止んだミーアは、濡れていない双眸(そうぼう)を上げて笑ったのである。

「お前・・・。」
 レッドはやられた・・・と思い、よろよろとベッドの上に座り込んだ。それでも、言ったことを撤回(てっかい)するつもりはなかった。
「・・・好き嫌いすんなよ。」

 次の瞬間、首に腕を回してきたミーアに、レッドはそのまま押し倒された。おまけに調子に乗って唇を突き出してきたので、レッドは思わず顔を背ける。
「はしゃぎ過ぎだ・・・ったく、いい子にするんだぞ。」
「うん!」
「約束だからな。」
「うん!」

 公爵令嬢たるものが国を出るというのがどういうことなのか、この時、この少女は全く考えもしなかったが、トルクメイ公爵閣下のお嬢様を連れ去ればどういうことになるかは、レッドは重々承知の上だった・・・。



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