第1話

文字数 1,200文字

 ここに一冊だけしか販売しない書店がある。店名は『一冊だけの本屋』。
  建設会社を営む黒沢惣吉(くろさわそうきち)(66)が半年前にオープンさせた、利益度外視の店舗である。銀座の大通りに面した、ブティックやオシャレなカフェの立ち並ぶ一角にあり、本を一冊しか置かない店としては勿体ないほどのロケーションであった。
 黒沢はなぜこのような店を始めたのか? 疑問に思うのも無理はない。
 会社は経営も順調であり、家族や友達にも恵まれ、地位や名誉も手にしている黒沢にとって、この店をオープンさせることが最後の願望だったといえよう。

 幼少のころから本が大好きな文学少年だった黒沢は、あらゆるジャンルの本を読みこなしてきた。児童文学はもとより、やがて大人になる頃にはベストセラーになった本は言うに及ばす、国内外の小説や専門書。絵本や雑学といったものから、コミックや翻訳されていない洋書に至るまで、読んだことが無いジャンルの本は一つも無いと自負するまでになっていた。これまでの経験を活かし、自分で本を出版したこともあるほどである。

 休日になると書店や図書館を巡り、少しでも興味を惹かれると、例えそれがどんな本であろうとも購入しないという選択肢はなかった。自宅の半分を占める書庫には未読の物を含めると、五桁以上の書籍が並び、図書館が開ける程だ。
 その黒沢が満を持してオープンさせたのが、この『一冊だけの本屋』であった。

 ここで最初の質問に戻る。なぜこのような特殊な書店を開店させたのか?
 それにはこんな理由があった。

 黒沢はかねてから危惧をしていた。
 昨今のモバイル文化に押され、出版業界は右肩下がり。利益を生み出すようなベストセラーはほんの一握りで、殆どは一回も重版されぬまま、人知れずひっそりと消えていく本が大半を占めていく。個人経営の小さな書店は年々減少し、大型資本の店舗でさえも、書籍の売り場面積の縮小や、企業の統廃合が進んでいる。

 そんな現状を鑑みた黒沢は、人々に本の素晴らしさを伝えるには従来の書店では難しく、それを打破するためには、普段から本に馴染みのない人に一冊でも手に取ってもらうための仕掛けが必要なのだと考えた。

 誰もがこんなことを一度くらい経験したことがあるのではないか。
 何か面白そうな本を探そうと書店や図書館を訪れた際、棚に並んだ大量の本を目の当たりにして気後れしてしまい、結局は何も手にしないまま、そこを後にする。
 結局それ以来、書籍に対してネガティブなイメージを抱いてしまう。
 それは選択肢が多すぎるが故に、何が面白いのか判らなくなるといったジレンマのせいであって、決して書店や図書館が悪いわけではない。

 もし、それが一冊であれば、選択肢がない代わりに、今まで気にもしなかった本との出会いが訪れるかもしれない。そんなきっかけを提案したいのが黒沢のビジョンであり、読書文化を広めたいという彼なりの願いでもあった。
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