第10話

文字数 2,462文字

   ☆


 
 家に帰ると、玄関にちはるが正座していた。
「ふにゅ~。お、おかえりな、……さい~、ぐふっ」
 と言ってその場でぶっ倒れるちはる。理科は慌てて後ろに倒れそうになるちはるを抱きかかえる。ちなみにみっしーはおんぶから降り、理科の後ろでふらついている。
 背中に両手を回し、頭を押さえるように抱きかかえる理科に向けて、ちはるの方も首に手を回し、抱きしめかえす。
「お姉ちゃんは私のもの~」
 完全に寝ぼけているらしい。
 そして理科の頬にキスをするちはる。
 しかしみっしーは怒りもせず、「おやすみなさいです」と言って手をだらりと下げながら寝室に向かう。よっぽど眠いらしい。
「ああ、もう」
 理科はちはるを振りほどき、もう寝るようにちはるに言い聞かせる。「ふぁ~い」とあくびをしながら答えるちはるも寝室に向かう。
 同人誌即売会も終わり、また明日から日常が戻る。そんな一コマだった。
 が。
 そうはいかないのが田山家なのであった。

 夜遅く。日付が変わった頃。理科は居間でスケッチブックにドローイングをしていた。そろそろ『金太フェス』に向けて大きな絵を描かねばならない。アクリル絵の具で描く練習もしなくてはならないな、と思っていたところだった。
 帰ってから二時間が経ち、仮眠を取っていたちはるが起き出す。起きて、理科に珈琲を煎れる。「ちはる、また寝ないとダメだよ」と言うと「大丈夫、明日休みだから。それに、すぐ寝るわ」と返す。
 理科たち姉妹が話をしていると、ドアのチャイムが鳴る。なんだろう、不審者っぽいな、と理科は思い、腰を上げる。するとちはるはそれを制し、「私が出るから」と言う。ちはるは言ったら利かない。しかたなしにちはるに任せるコトにする。
「は~い」
 ちはるがチェーンのついたままのドアを開ける。理科が聞き耳を立てていると、ドアのチェーンを切る音。きゃっ! と言うちはるの短い声。ちはるのその声は、途中で手で押さえ塞いだような音になっていた。
 理科は咄嗟に立ち上がり、玄関へ向かった。

 理科が玄関に駆け足で辿り着くと、黒ずくめに黒いサングラスの男がちはるを手で拘束していた。今にも連れ去りそうな勢いだ。
「ちはる!」
「お、お姉ちゃ、……きゃっ!」
 黒ずくめはちはるの口を塞ぐ。ちはるは暴れるが、その屈強な男は逃しはしない。ちはるのもがきは一切通用しない。
「クソが!」
 理科は叫ぶとポケットから大柄のペインティングナイフを取り出し、構え、男に斬りかかる。
 男はそれを躱すが、躱した際にちはるから離れてしまう。それをチャンスにちはるは脱走、理科の後ろに隠れる。
 理科の斬撃は続く。一撃。二撃。しかし、全くヒットしない。
 斬撃の軌道を読んだ男はナイフを持った理科の手首を掴む。
「チッ!」
 理科は舌打ちする。じたばたする理科。しかし男の腕力には敵わない。
「あんた、どういう気なの! いきなり他人の家に上がり込んで! ちはるをどうする気だったの!」
「すみません、お嬢様。しかし、どうしてもちはる様に一筆書いてもらいたく」
「一筆?」
「はい」
 男は丁寧な口調で言う。その言動とは相容れないほど、その声は落ち着いている。
「田山馬岱(たやまばたい)理事長様を納得させなくてはならないのです。次の院長候補について、ね」
 男は素直に言う。隠し立てする気は毛頭ないようであった。
「あんた、なに言ってんのかわかってんの! 院内政治に私たちは無関係なの! もう親と私たちは関係ないのよ!」
「馬岱様は、ちはるお嬢様のお言葉なら動くのです。今だってそうです。ちはるお嬢様の協力なしでは、次の院長候補選には、勝ち残れない。私どもが動かなかったとしても、他の勢力がちはるお嬢様を拘束するでしょう。どちらでも同じなのです。私どもにお力添えを」
「ふざけるなああぁぁ!」
 理科は男の手を振り切り、ペインティングナイフを一閃。男の頬に掠る。男の頬から、血が流れる。意に介さず、男は言葉を紡ぐ。
「家の因襲から逃れるコトはできませんよ、理科お嬢様。お父上、馬岱理事長は今でもお二人のお帰りをお待ちになっておられます」
 理科は逡巡する。次の言葉がなかなか出ない。
 そこへ。
「理科~。なに怒ってるですか~。怒ってばかりいると不細工ちゃんになっちゃうですよ~。理科は顔の良さだけが取り柄なのですから、不細工ちゃんになっちゃったらボク、大笑いなのですよ~」
 空気を読むコト皆無なバカ居候が寝ぼけ眼でよろよろと玄関にやってくる。
 みっしーは、男と理科に割って入る。
「ぎゃはっ! その格好!」
 完全に夢うつつなみっしーは、男を至近距離で指さし、笑う。その指先は男の鼻に触れようかという距離だ。
「その黒々しい格好。イマドキ『マトリックス』の時のキアヌ・リーブスの真似ですか? 全くセンスを疑い……うおえ! ……ふげれぼえ~」
 そして、男に向かって、みっしーは勢いよくおなかの中の物を吐いた。
 男は吐瀉物を避けようとするが失敗。その黒いスーツの前面に、吐瀉物がぶちまけられる。
「うおえ! うおぐれれぼえ~」
 ゲロは止まらない。男は吐かれて汚れたスーツを気にしながら、飛び退く。
 そんなコトをしているうちに異常に気づいたか、アパートの他の部屋から住民達が訝しげに出てくる。それを察知した男は、音を出さないようにしたダッシュでその場を逃げ出す。
 理科は男を追いかけようとはせず、ただその場に立っていた。みっしーは吐いている。ちはるは理科の後ろで泣いている。怖かったらしい。
「あらあら、みっしーちゃん飲み過ぎ?」
 隣の部屋の権堂おばちゃんが出てきて、みっしーの背中をさする。
 全く、深夜に散々な目に遭ったものだわ、と理科は思った。そして、家を飛び出して来たこの場所も、家には無関係でいられないコトを知るのであった。
「なにが院長選よ。くっだらない!」
 理科は悪態を吐いた。

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登場人物紹介

田山理科:ちはるの姉。絵描き。戦う武器はペインティングナイフ。

田山ちはる:田山理科の妹。優しいけど怒ると怖い一面も。自分の姉の理科のことが好き。

みっしー:死神少女。田山姉妹の住んでる部屋で居候をしている。武器は縁切りの大鎌〈ハネムーン・スライサー〉。ハネムーン中に離婚させるほどの威力を持つ。大鎌は刃物なので、普通に危ない武器。

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