第六話「商品」
文字数 3,914文字
完全に暗闇に閉ざされた世界では、目を開けていようと閉じていようと何も変わりはない。それなのにどうして目を閉じるのか。決まっている。人間がそうするからだ。しかし、何を考えてそうするのかまでは、フィリアは知らない。
フィリアは暗闇の中でエリスの事を考えていた。彼女は何を思っているだろう。彼女が何を思っていようが、それを自分に伝える事は不可能だ。こちらがわも同様である。自分が隣にいることを、同じ暗闇の中に在る事を伝える事は出来ない。心細く感じたりはしていないだろうか。彼女はこんな事態には慣れていないだろう。
一人のときなら、フィリアは何度か箱詰めになった事がある。
自分から商品に紛れ込んだ事もあったし、商品として人の手で積み込まれた事もあった。その度、自分が商品でなく人間として認識されるようになれば空を見ながら移動できるようになるのだろうかと思ったものだ。だから人間の同行者としてこの荷台に乗り込んだときは新鮮に思ったものだ。
しかし、結局のところエリスもフィリアも彼らにとっては転がり込んだ商品の一つでしかなかった訳だ。人間としての認識と商品としての認識が両立するとは知らなかった。金を出してまで人間程度を買いたいと思う人間がいるとは驚きだ。労働力として見れば、量産型の荒っぽい人形にも劣る存在なのに。
そうして、フィリアは再び積荷の中で荷箱に入っている。商品として売られゆく運命から逃れるために、商品の中に身を埋めているのだ。奇妙なものだな、と思った。
思考する時間はたっぷり与えられていた。暗闇の中で膝を抱えながらフィリアはぼんやりと思考回路を遊ばせていた。
人間と、人形。商売道具と、商品。いくつかの概念とそれに関する認識が回路の中を一緒くたになって回り続ける。その中で、ふと一つの仮説が浮上した。
人間として認識されることと、彼らの仲間として扱われること。両者は同じことだと思っていた。しかし、その間にもう少し段階があるのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと箱の中で位置がずれた。自分も衣類も同じ動きをしている。荷馬車が停止したのだ。最後に見た太陽の角度と、あれから経過した時間を数える。夜が来たのだ。
箱の内壁に耳を押し付けて様子を探る。露営の準備をしているのだろう、慌ただしい物音が去来していた。しかし、それもすぐに収まって本当の静寂が訪れる。
前に見た時、彼らは荷馬車の傍らにテントを広げていた。たぶん、彼らはテントの中にいるか、荷馬車の外で火を焚いて食事でもしているのだろう。忘れがちだが、人間には食事が必要だ。
彼らが荷馬車から離れたなら都合がいい。
フィリアは手探りで箱の中の荷物を選り分けた。先程上に投げ込んだ子供服を確保し、手探りでもう一着サイズの小さいものを探す。どうにかこうにかそれらしい候補を探し出して片隅にまとめた。ついでに、大きめの外套と推測される布も確保しておく。
二人とも衣類はぼろぼろだった。怪しまれそうな要素は減らしておきたい。
やることを終え、フィリアはまた夜明けまでの刻を数える作業に専念した。といっても、歯車が回った回数を数えるだけの事なのだが。そうして三時間ほどして、人の声が幽かに聞こえてきた。周波数のチャンネルをあわせ、気づく。昨晩と同じく、今夜もオスカーが歌っているのだ。今夜の歌はテンポが速い。舞曲だろうか。少なくとも、子守唄ではなさそうだ。
オスカーは夜の間、いくつもの曲を切り替えながら歌っていた。曲調はばらばらだ。昨晩ずっと子守唄を歌っていたのは二人への配慮だったのだろうか。そんな事をしても商品の価値には代わりがないと思うのだが。それとも、あの段階では商品ではなく別の存在として認識されていたのだろうか。フィリアには彼の考えている事がまるでわからなかった。
フィリアは一時的に思考を切り上げ、再び時間の計算を行った。前回の見張りの交代のことを考えると、彼はこのまま朝まで起きているだろう。それからハンスを起こしに行き、準備をして出発する筈だ。前回と同じ時間と仮定すれば、夜明けからおよそ一時間といったところだろうか。彼が弟分を起こしに行く時間に抜け出すのが一番いいだろう。それを見計らうのに、歌の途切れ目は都合がいい。
だから、フィリアは延々とそれに全力で耳を傾け続けた。脱出の機会を伺うためであって、それ以外の理由ではない。エリスも聞いているだろうか、と思った。今訊ねられないのが残念だ。
やがて、待ち侘びた朝が訪れた。夜明けの訪れと共に、フィリアは自らが入っていた箱の蓋をずらした。瞬間、周囲の音がクリアになった。早朝の鳥の鳴き声も、風の音も、外の歌もだ。
フィリアは紐をずらして結び目を解き、飛び出すようにして荷箱から出た。選り分けておいた衣類を取り出して、すぐさまエリスを入れた荷箱を開けにかかる。蓋を外せば、彼女は乾いた薬草の中に身を埋めるようにして横になっていた。こちらを見るなり彼女は跳ね起きてこちらに手を伸ばした。
「おはよう」
「おはよう。もう朝なのね」
彼女が箱から出るのに手を貸して、すぐさま開いた二つの箱を再び丁寧に封ずる。それからフィリアは取り出した衣類を両腕に抱え、エリスに告げた。
「彼がテントの中に入ったタイミングでここを出るよ」
エリスは黙って何度も頷いた。それから耳をそばだてて二人は幌の隙間にしがみつくようにして外の様子を垣間見た。外はそれなりに明るくなっているようだ。オスカーの様子を伺い見るが、こちらのことには何も気づいていないようだった。相変わらず物憂げに歌う男だ。他に何か分かることはないかと画像を再評価する。少し前に雨でも降っていたのだろうか、地面が柔らかく湿っていた。足跡が残るかもしれないな、と思案する。
エリスが小さく声を上げ、フィリアは視線を戻した。彼が立ち上がって火を消している。それからこちらに背を向け、テントの中に姿を消したのを見届ける。三秒数えて二人は幌の外に出た。フィリアが先に立ち、地面に外套を投げかける。
「どうしたの?」
「この上を通っていこう。あまり足跡を残したくない」
エリスは黙って地面を、落ちた外套を見た。地面に落とした衣服を踏んで歩くということに抵抗があるようだった。それでも、フィリアが先に経って歩き始めれば彼女は着いてきてくれた。衣服の端まで歩き、一度足を止める。踏み鳴らされた道の外、目の前には茂みが広がっている。先にエリスが飛び込み、続いて外套を回収したフィリアが飛び込んだ。そうして、こちらから一方的に彼らの様子が探れる程度の距離を目指して茂みの中を歩く。薄暗いが、支障が出ない程度には陽光が射し込んでいた。
「連中が動き始めたら、轍の後を追って歩く」
「わかった。それまで待つのね」
フィリアは頷いた。それから少しして、エリスが「ところで」と切り出す。
「うん?」
「今抱えてるの、何? 積荷を取ってきたの?」
「ああ、これか。着替えだよ」
フィリアは自分たちの服を指し示した。夜中に森の中を転がり落ちたり突っ切ったりしたせいで、あちらこちらが破けている。この風体では警戒されたり訳ありと見なされても仕方ないだろう。それに、エリスの髪色のこともある。最初はそれを隠すために外套を取ってきたのだ。どうやら今となってはフィリアのほうが人に近いと見なされるらしい。
「あんまりボロボロだと怪しまれるから」
フィリアは手ごろな枝に服をひっかけながら言った。暗闇の中だから何か間違っていないか心配だったが、ちゃんと上下で二揃えはあった。片方は少しサイズが大きいが、袖と裾をまくれば何とかなるだろう。
「わかった。でも、そっち、男の子用よ」
エリスは大きいほうを指差した。暗い褐色のズボンだ。
「・・・・・・じゃあ、私が着るよ。髪の短さから考えて、まあ言い張れば何とかなるだろ」
自分が中性的に作られていたことをはじめてありがたいと思った瞬間だった。
「なんだか、あなたが最初に来たときのことを思い出すね」
新しい衣類に袖を通しながらエリスがそんな事を唐突に言った。
「そう?」
「服を変えようって私が言ったとき。あの時のあなた、今よりよっぽど酷かったわよ」
「そうだったかも」
エリスはくすくすと笑った。その手首に巻かれたリボンがひらひらと風を切る。一緒に結んだときのことを思い起こせば、随分と色褪せてしまった。
「それなのに『こんなものだと思う』とか言ってたんだから。随分あれから変わったよね」
「おかげさまでね」
少しは人間に近づけているのだろうか。袖をまくって大きさを調整しながら考える。エリスのほうもだいたい着替え終わったようだ。後に残っているのは二人で踏んだ外套だけだ。見ていると、横から白い手が伸びてそれを取った。付いた砂を払い落とし、頭から被る。
「……エリス」
「いいの、わかってる。そのために持ってきたんでしょ?」
「そうだったけど、でも踏んだやつだし、いいの?」
「大丈夫よ。自分でもわかってるもの。特にあの弟分だって言ってた方、私の髪をじろじろ見てたし」
エリスは曖昧に笑いながら髪を外套の中に隠してしまった。そうだったのか。
「気づかなかった。ごめん」
「仕方ないわ。さ、行きましょう。もうあの人たちも出発したから、後を追ってもバレないわ」
エリスはさっと身を翻して光の射すほうへ歩き始めた。フィリアは仕方なくその背を追う。確かに、彼女のほうが姉らしいのかもしれない。
フィリアは暗闇の中でエリスの事を考えていた。彼女は何を思っているだろう。彼女が何を思っていようが、それを自分に伝える事は不可能だ。こちらがわも同様である。自分が隣にいることを、同じ暗闇の中に在る事を伝える事は出来ない。心細く感じたりはしていないだろうか。彼女はこんな事態には慣れていないだろう。
一人のときなら、フィリアは何度か箱詰めになった事がある。
自分から商品に紛れ込んだ事もあったし、商品として人の手で積み込まれた事もあった。その度、自分が商品でなく人間として認識されるようになれば空を見ながら移動できるようになるのだろうかと思ったものだ。だから人間の同行者としてこの荷台に乗り込んだときは新鮮に思ったものだ。
しかし、結局のところエリスもフィリアも彼らにとっては転がり込んだ商品の一つでしかなかった訳だ。人間としての認識と商品としての認識が両立するとは知らなかった。金を出してまで人間程度を買いたいと思う人間がいるとは驚きだ。労働力として見れば、量産型の荒っぽい人形にも劣る存在なのに。
そうして、フィリアは再び積荷の中で荷箱に入っている。商品として売られゆく運命から逃れるために、商品の中に身を埋めているのだ。奇妙なものだな、と思った。
思考する時間はたっぷり与えられていた。暗闇の中で膝を抱えながらフィリアはぼんやりと思考回路を遊ばせていた。
人間と、人形。商売道具と、商品。いくつかの概念とそれに関する認識が回路の中を一緒くたになって回り続ける。その中で、ふと一つの仮説が浮上した。
人間として認識されることと、彼らの仲間として扱われること。両者は同じことだと思っていた。しかし、その間にもう少し段階があるのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと箱の中で位置がずれた。自分も衣類も同じ動きをしている。荷馬車が停止したのだ。最後に見た太陽の角度と、あれから経過した時間を数える。夜が来たのだ。
箱の内壁に耳を押し付けて様子を探る。露営の準備をしているのだろう、慌ただしい物音が去来していた。しかし、それもすぐに収まって本当の静寂が訪れる。
前に見た時、彼らは荷馬車の傍らにテントを広げていた。たぶん、彼らはテントの中にいるか、荷馬車の外で火を焚いて食事でもしているのだろう。忘れがちだが、人間には食事が必要だ。
彼らが荷馬車から離れたなら都合がいい。
フィリアは手探りで箱の中の荷物を選り分けた。先程上に投げ込んだ子供服を確保し、手探りでもう一着サイズの小さいものを探す。どうにかこうにかそれらしい候補を探し出して片隅にまとめた。ついでに、大きめの外套と推測される布も確保しておく。
二人とも衣類はぼろぼろだった。怪しまれそうな要素は減らしておきたい。
やることを終え、フィリアはまた夜明けまでの刻を数える作業に専念した。といっても、歯車が回った回数を数えるだけの事なのだが。そうして三時間ほどして、人の声が幽かに聞こえてきた。周波数のチャンネルをあわせ、気づく。昨晩と同じく、今夜もオスカーが歌っているのだ。今夜の歌はテンポが速い。舞曲だろうか。少なくとも、子守唄ではなさそうだ。
オスカーは夜の間、いくつもの曲を切り替えながら歌っていた。曲調はばらばらだ。昨晩ずっと子守唄を歌っていたのは二人への配慮だったのだろうか。そんな事をしても商品の価値には代わりがないと思うのだが。それとも、あの段階では商品ではなく別の存在として認識されていたのだろうか。フィリアには彼の考えている事がまるでわからなかった。
フィリアは一時的に思考を切り上げ、再び時間の計算を行った。前回の見張りの交代のことを考えると、彼はこのまま朝まで起きているだろう。それからハンスを起こしに行き、準備をして出発する筈だ。前回と同じ時間と仮定すれば、夜明けからおよそ一時間といったところだろうか。彼が弟分を起こしに行く時間に抜け出すのが一番いいだろう。それを見計らうのに、歌の途切れ目は都合がいい。
だから、フィリアは延々とそれに全力で耳を傾け続けた。脱出の機会を伺うためであって、それ以外の理由ではない。エリスも聞いているだろうか、と思った。今訊ねられないのが残念だ。
やがて、待ち侘びた朝が訪れた。夜明けの訪れと共に、フィリアは自らが入っていた箱の蓋をずらした。瞬間、周囲の音がクリアになった。早朝の鳥の鳴き声も、風の音も、外の歌もだ。
フィリアは紐をずらして結び目を解き、飛び出すようにして荷箱から出た。選り分けておいた衣類を取り出して、すぐさまエリスを入れた荷箱を開けにかかる。蓋を外せば、彼女は乾いた薬草の中に身を埋めるようにして横になっていた。こちらを見るなり彼女は跳ね起きてこちらに手を伸ばした。
「おはよう」
「おはよう。もう朝なのね」
彼女が箱から出るのに手を貸して、すぐさま開いた二つの箱を再び丁寧に封ずる。それからフィリアは取り出した衣類を両腕に抱え、エリスに告げた。
「彼がテントの中に入ったタイミングでここを出るよ」
エリスは黙って何度も頷いた。それから耳をそばだてて二人は幌の隙間にしがみつくようにして外の様子を垣間見た。外はそれなりに明るくなっているようだ。オスカーの様子を伺い見るが、こちらのことには何も気づいていないようだった。相変わらず物憂げに歌う男だ。他に何か分かることはないかと画像を再評価する。少し前に雨でも降っていたのだろうか、地面が柔らかく湿っていた。足跡が残るかもしれないな、と思案する。
エリスが小さく声を上げ、フィリアは視線を戻した。彼が立ち上がって火を消している。それからこちらに背を向け、テントの中に姿を消したのを見届ける。三秒数えて二人は幌の外に出た。フィリアが先に立ち、地面に外套を投げかける。
「どうしたの?」
「この上を通っていこう。あまり足跡を残したくない」
エリスは黙って地面を、落ちた外套を見た。地面に落とした衣服を踏んで歩くということに抵抗があるようだった。それでも、フィリアが先に経って歩き始めれば彼女は着いてきてくれた。衣服の端まで歩き、一度足を止める。踏み鳴らされた道の外、目の前には茂みが広がっている。先にエリスが飛び込み、続いて外套を回収したフィリアが飛び込んだ。そうして、こちらから一方的に彼らの様子が探れる程度の距離を目指して茂みの中を歩く。薄暗いが、支障が出ない程度には陽光が射し込んでいた。
「連中が動き始めたら、轍の後を追って歩く」
「わかった。それまで待つのね」
フィリアは頷いた。それから少しして、エリスが「ところで」と切り出す。
「うん?」
「今抱えてるの、何? 積荷を取ってきたの?」
「ああ、これか。着替えだよ」
フィリアは自分たちの服を指し示した。夜中に森の中を転がり落ちたり突っ切ったりしたせいで、あちらこちらが破けている。この風体では警戒されたり訳ありと見なされても仕方ないだろう。それに、エリスの髪色のこともある。最初はそれを隠すために外套を取ってきたのだ。どうやら今となってはフィリアのほうが人に近いと見なされるらしい。
「あんまりボロボロだと怪しまれるから」
フィリアは手ごろな枝に服をひっかけながら言った。暗闇の中だから何か間違っていないか心配だったが、ちゃんと上下で二揃えはあった。片方は少しサイズが大きいが、袖と裾をまくれば何とかなるだろう。
「わかった。でも、そっち、男の子用よ」
エリスは大きいほうを指差した。暗い褐色のズボンだ。
「・・・・・・じゃあ、私が着るよ。髪の短さから考えて、まあ言い張れば何とかなるだろ」
自分が中性的に作られていたことをはじめてありがたいと思った瞬間だった。
「なんだか、あなたが最初に来たときのことを思い出すね」
新しい衣類に袖を通しながらエリスがそんな事を唐突に言った。
「そう?」
「服を変えようって私が言ったとき。あの時のあなた、今よりよっぽど酷かったわよ」
「そうだったかも」
エリスはくすくすと笑った。その手首に巻かれたリボンがひらひらと風を切る。一緒に結んだときのことを思い起こせば、随分と色褪せてしまった。
「それなのに『こんなものだと思う』とか言ってたんだから。随分あれから変わったよね」
「おかげさまでね」
少しは人間に近づけているのだろうか。袖をまくって大きさを調整しながら考える。エリスのほうもだいたい着替え終わったようだ。後に残っているのは二人で踏んだ外套だけだ。見ていると、横から白い手が伸びてそれを取った。付いた砂を払い落とし、頭から被る。
「……エリス」
「いいの、わかってる。そのために持ってきたんでしょ?」
「そうだったけど、でも踏んだやつだし、いいの?」
「大丈夫よ。自分でもわかってるもの。特にあの弟分だって言ってた方、私の髪をじろじろ見てたし」
エリスは曖昧に笑いながら髪を外套の中に隠してしまった。そうだったのか。
「気づかなかった。ごめん」
「仕方ないわ。さ、行きましょう。もうあの人たちも出発したから、後を追ってもバレないわ」
エリスはさっと身を翻して光の射すほうへ歩き始めた。フィリアは仕方なくその背を追う。確かに、彼女のほうが姉らしいのかもしれない。