猫はいらない

エピソード文字数 2,914文字

 猫を飼いたい。

 わたしはリビングのソファから、キッチンのお母さんにうったえた。

 世間は空前の猫ブームだ。
 いまもテレビの情報番組では愛猫家特集をやっていて、うらやましいことに、なかには五匹もの猫に囲まれて幸せに暮らす中年夫婦もいた。

 わが家は郊外にある一戸建ての持ち家で、お父さんは残業も多いけれど、その分、稼いでくる給料も多い。お母さんは専業主婦で、お姉ちゃんはわたし以上に猫好きだ――これだけ好条件がそろっているのに、夕食の準備をするお母さんは聞く耳を持たない。

 わたしはちょっとむかついた。
「ねえ、お母さん聞いてる?」

 しかしお母さんは、「はいはい」と言うだけで、まともに取り合ってくれない。

 向こうがその気ならこっちにも考えがある。腹いせに、夕飯を食べないという形で怒りを示してやろうかと思ったけれど、やっぱりやめた。どうも食欲には勝てそうにない。
 代わりに、しばらくお母さんとは話さないという方針を、ひそかに決定した。

 しかし、こういうときこそ無類の猫好きであるお姉ちゃんの援護射撃が有効なのに、さっきからずっと携帯電話に向かってニヤニヤしている。
 最近付き合い始めたという恋人と、連絡を取り合っているのだろう。
 きっと、今日は高校でなにがあったとか、なかったとか、わたしには理解できない退屈きわまりない文字の往復に違いない。
 夕食のときもお姉ちゃんは、料理や家族の顔よりも画面を見つめる時間のほうが長くて、お母さんにぷりぷり叱られていた。

 猫より男か。
 わたしは、裏切り者の横顔にため息をついた。

   ◇

 昔、お姉ちゃんの飼っていた文鳥が死んだとき、お母さんは「命あるものはいずれ死ぬ」という意味のことを言った。
 幼かったわたしたちは、悲しみに沈んだ顔で、庭にお墓を作ってあげた。
 お姉ちゃんが穴を掘って、ティッシュペーパーに包まれた文鳥を横たえ、土をかぶせ、かまぼこ板の質素な墓標を建てた。

 わたしは手を合わせて冥福をいのった。

 もしかしたら、お姉ちゃんはあのことがあったから、生き物を飼うことに臆病になったのかもしれない。命を扱うという重い責任に、耐えられなくなったのかもしれない。

 わたしたちにも、いずれ死はやってくる。
 それはとても悲しいことだけれど、でも、それならばなおさら、生きているうちにやりたいことを全部やってしまいたい。
 猫だって飼いたい。

 お姉ちゃんみたいに恋もしてみたいけど、あんなふうにだらしない顔つきになるのなら、ちょっと考える。

  ◇ 

 結局、あれからずっとお母さんと口を利かないまま、翌朝のわたしは家を出た。
 中学校へと向かう道で、ジュリに会った。わたしは、「おはよう」とあいさつして、彼女の隣に並んだ。

「あ、おはよう、リカ」
 ジュリは嬉しそうに微笑んだ。

 バレー部の彼女はすらりと背が高く、目を合わせようとすると首が疲れてしまう。中学二年生の平均身長は、彼女のような人種が引き上げているのだ。

 ジュリとは姉同士が同級生ということもあって、小さいころから親しく付き合っている。とてもおしゃべりなので、一緒にいて飽きることがない。

「いやあ、朝練から解放されると楽でいいね」

 彼女はせいせいしたような口ぶりで言った。けれど、それが本心でないことをわたしは知っている。

 ジュリは先週、交通事故に遭った。右手にはまだ痛々しい包帯がぐるぐる巻きになっている。
 信号のない十字路でトラックにぶつけられ、転んだ拍子に右手首の骨を折ったのだ。スパイカーとしては致命傷ともいえる。ジュリのほうもよく左右を確認していなかったらしいので、向こうにばかり責任があるわけではないにしても、日頃から部活にかける熱意を語っていた彼女が、悔しくないわけがない。

「わたしの前じゃ、無理しなくていいよ」

 そう言うと、ジュリはちょっと困ったような顔をして笑った。

「あんたに心配されるなんて、私もおしまいかな」
「なにそれ」

 わたしがわざと怒ったような声で応えると彼女は、

「でもありがと。あんたも気をつけてね」
「わたしは大丈夫。こう見えても、運動神経には自信があるんだから」
「あーあ、あんたにもっと背があったら、私の代わりに活躍してもらうんだけどね」

 ジュリは、冗談を言うときに見せる顔で笑った。

 その日のわたしは、お母さんの待つ家に帰るのが億劫で、あたりが暗くなってから帰宅した。
 お姉ちゃんが先に帰っていた。

「リカ――」

 わたしの目を覗き込んで、お姉ちゃんは言った。

「お母さん、倒れて入院したの」

  ◇

 お母さんに会いたい。
 何度もうったえた。

 しかしお父さんによると、面会はできないという話だった。

「家族なのに会えないなんて、どういうことなの」
 というわたしの疑問にも、お父さんは目をそらすばかりだった。

 お母さんがいなくなって、家はとても寂しくなった。それでも仕事人間のお父さんは、家にいない時間のほうが長い。お父さんがクビになったら、わたしたちの生活費や、なによりお母さんの治療費を得ることができなくなるので、それはそれで困るのだけれど。

 お父さんが出張のあいだ、わたしとお姉ちゃんは親戚の家に預けられた。
 わたしは、わが家でお母さんのことを待ちたかった。しかし、姉妹だけでの留守番は危険だという理屈がまかり通って、わたしの抵抗は無駄に終わった。

 慣れない家での生活は、わたしの心をひどく締めつけた。お母さんの病名が、漢字だらけの、聞いたことのない難しいものだったことも、わたしの不安をより濃いものにした。
 親切に接してくれる依子(よりこ)おばちゃんには悪いけれど、あまりに息苦しくて、吐き気すらもよおした。

 このまま会えなかったらどうしよう。
 最後に交わした会話が「猫を飼いたい」だなんて、笑い話にもならない。

 三日目の夜、お姉ちゃんの制止をふりきって、わたしは、おばちゃんの家を飛び出した。
 街灯の光の中を、病院の方角へと走った。塀に跳び乗り、屋根によじ登り、できる限りの速度で最短距離を走った。

 お母さん、お母さん。お母さん。

 信号のない交差点に着地したとき、ライトがわたしを照らした。甲高いブレーキ音がしたのと、車輪がわたしの体をはね飛ばしたのは、ほとんど同時だった。

 追いかけてきたお姉ちゃんが悲鳴のような声を上げて、わたしを抱きあげた。

  ◇

 お母さんは、急性虫垂炎(きゅうせいちゅうすいえん)という未知の病気から快復(かいふく)し、わが家に帰ってきた。
 自転車との交通事故を起こし、検査のために池田クリニックの白いケージで寝泊まりしていたわたしも、このたび無事に解放され、リビングのソファでお母さんに抱かれてまどろんでいた。

 お母さんの柔らかなひざと、優しい手のひらから、命の温かみを感じた。

 猫なんて飼わなくても、わたしたちは幸せだった。

〈終わり〉
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