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サカナは突然頭を左右に振るのをやめた。私が直樹という名前を聞いて顔を強張らせたのが分かったのだろう。
乱れた髪もそのままに、サカナはそのおぞましく大きい口を裂けるほど開いて笑った。

「アッハッハッ」

もうその場にいた誰も、動けなかった。

「やっぱり知ってるんじゃん。わかってるんじゃん。ブスのくせに嘘ついてんじゃねーよ」

サカナは床に落ちた自分のバッグを拾い、笑顔で続けた。

「とにかく、警告したからね。直樹を解放しなきゃ警察に通報します。でも、やっぱりやめた。ブスは反省してないみたいだから、直樹を解放しなかったら、殺すね。仕方ないでしょ、嘘つきのブスなんて死んで当然だもん」

サカナはそう言い残し、ドアの方へ歩いて行った。

――そう思った瞬間ものすごい勢いで私の顔を掴んだ。

「簡単だよ」




警察がかけつけた。誰かが通報したのだろう。
私は顔と右手から血を流し、それ以外のあらゆるところから多種多様な体液を垂れ流した状態で保護された。
私は、大学の付属病院へ運ばれた。顔の傷が特にひどいようだ。ズキズキと痛んだ。
サカナの外見的な特徴と起こったことは、あの突き飛ばされた店員も同じ証言をしただろうに、警察が全面的に信じることはなかった。

「疲れているんでしょうね。そのような背格好の女性がいればすぐ分かるはずですが、周辺で目撃証言も上がっていませんし……また落ち着いたらお話伺いたいと思います。お大事に」


頭の中は疑問でいっぱいだった。
あんな女は大学にいない。正確には、前年度と今年度の新入生と、私の在籍する薬学部の生徒ではない。講師でも、教授でも、事務員でもない。
別のキャンパスの先輩だろうか。
いやそもそも、あのバケモノは人間なのだろうか。
顔貌はさておき、恐らく2mは超えると思われる身長、異様に細くて長い手足、私の顔を掴んだ手には、人間というよりは獣に近い爪が生えてはいなかったか。あんな人間が存在するのか。
それになんで――なんで私が。
目立たないように、誰とも関わらないようにしたはずだ。直樹と過ごした場所だって大学構内だ。あの夜以外個人的なやりとりも会話も無かった。
努力してもどうにもならないこともある。忘れていた持論を思い出す。
また、何もしていないのに異常者と対峙しなくてはいけないのか。こんな、バケモノと。もう、二度と見たくないようなあのサカナと。

病室で一人になると、思い出してしまう。近くで見たサカナの顔は、青白くてぬめっとした光沢があった。まるで本物の魚みたいに――思い出して震えが止まらなくなる。
一人の時間は幸いにも短く、すぐに家族が来てくれた。仕事もあるのに。
こういうとき私は申し訳なくて死にたくなる。私のせいでいつも迷惑ばかりかけている。これで入院も何度目なんだろう。
元はといえば私のよこしまな心が招いたことかもしれない。サカナが言ってた解放の意味は分からないけれど、性的な目で見ていた男性に少し優しくされた程度で浮かれていたのも、烏滸がましくも一緒に写真を撮ったのも事実だ。サカナが全て知っていたんだとしたら。

『簡単だよ』

サカナの声が聞こえた気がした。内臓が自分のものでないみたいに鈍く重く痛み始める。

「とにかく何があったのか話して」

母が私の手を握り優しく微笑む。
こんな優しい母を巻き込めるわけがない。
私は笑顔を作った。

「大丈夫。大丈夫なんだ、またいつもの、変な人がいたんだ。ちょっと暴力的で、顔を掴まれただけ。店員さんにも暴力振るったからびっくりしちゃったけど、大丈夫だよ、もう落ち着いたから、家に帰りたい」

父が大声で怒鳴った。

「大丈夫なわけないだろう!鏡を見てみろ!こんなにされて……」

病室の姿見に映った自分が目に入った。
顔から首にかけて手の形の痣がくっきりとついている。
ついさっき診察されたとき自分の顔は確認したはずなのに、痣が濃くなり、人間の手にはない

がはっきりと見えてしまった。
指と指の間にあるそれは、まぎれもなく……

意識が遠くに消えていくのを感じた。
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