第1話 目白台の激坂たち
文字数 2,664文字
二〇二〇年四月七日——
世界規模のパンデミックの感染拡大防止を目的として政府から発令された緊急事態宣言によって、不要不急の場合以外の外出の自粛が求められていた。そしてようやく、五月二十五日をもってして、東京都においても、七週間に渡る宣言はいったん解除された。
この禁足期間に、季節は晩春から初夏へと移り変わっていた。
神田川の川沿いを彩っていた薄紅色の桜の花は、桜色に緑色が混ざった葉桜を経て、完全に深緑色の葉が勢力を誇るようになっていた。また、所々には、薄紫色、赤紫色、青紫色、深紫色といった複雑な色模様を誇る、多様な紫陽花も咲き始めており、この六月を象徴する花々が、季節が梅雨に向かってゆくことを予告していた。
宣言解除直後の五月の末日、少し歩くだけでほんのりと汗ばむような初夏の到来を告げる陽気と、梅雨を先取る曇天の下、僕は、久方ぶりに、東京メトロの江戸川橋に降り立ったのだった。
いわゆる、物語の〈舞台探訪〉には時期も重要だ。
春、桜の時期の場面を追体験するのならば春に、初夏を背景とした場面を追体験するのならば初夏に、といったように、たとえ同じ空間を訪れるとしても、時期にもこだわりたい。
つまるところ、舞台探訪には、時間と空間が一致した、こう言ってよければ、〈時空間〉まで考慮する必要がある、と僕は考えているのだ。
今回の五月末日の神田川訪問には、初夏や梅雨の時期を背景にした物語の舞台のカット回収という目的もあったのだが、実は、もう一つ別の理由もあった。
以前、神田川と目白台の坂を訪れて以来、時間的に十分な余裕をもうけて、新宿区・文京区・豊島区の境界になっている〈目白台の坂〉全てを踏破してみたいと、僕は考えるようになっていたのだ。
この〈目白台〉における〈台〉という土地名が示唆しているように、この地は高台になっている。
新宿区の外縁部、すなわち、神田川付近から、文京区・豊島区の目白台、たとえば、この高台に沿って走っている〈目白通り〉に、徒歩や自転車で向かわんとする場合、もっとも肉体に負担のない方法は、思いつく限りで二通りある。
一つは、江戸川橋から向かう方法である。すなわち、江戸川橋交差点を渡ると、その左手には〈江戸川公園〉への入り口が位置し、そこには二又の道がある。その細道のうち、左の神田川沿いの遊歩道ではなく、右の車道を選択して、この比較的緩やかな〈目白坂〉をのぼってゆくと、左手に〈椿山荘〉が位置している辺りで、目白坂は〈目白通り〉に合流する。
もう一つの方法は、神田川に架かっている〈高戸橋〉から、緩やかな坂道になっている〈明治通り〉を進むという方法で、都電荒川線の線路に沿って、池袋方面に向かってゆくと、〈千登世橋〉へと至る急な階段が見える。それを昇ると、〈目白通り〉に至ることができるのだ。
江戸川橋交差点から明治通りの間は、約三から四キロメートル、すなわち、神田川に沿って徒歩で進む場合には約三十分の距離が横たわっている。
例えば、いったん神田川に沿って歩き始め、途中で目白台方面に向かいたいと望んだとする。そして、比較的楽な方法を用いて、目白台に向かいたいと欲する場合には、まずは、そこそこの距離を歩いて、江戸川橋交差点か、明治通りに行かなければならないのだ。
それでは、江戸川公園と明治通りの約四キロの間に、神田川方面から目白台に向かう方法がないか、といえば、実はそんなことはない。
なるほど確かに、いくつかのルートがあり得る。だがしかし、そのほとんど全てが急勾配の〈激坂〉なのだ。
江戸川橋から椿山荘の間の約一・二キロメートル、徒歩で約十分の間は、通常のルートでは目白台に至る方法はなく、ようやく坂が出現するのが、新目白通り沿いの〈リーガロイヤルホテル東京〉付近、神田川に架かっている〈駒塚橋〉に隣接している〈胸突坂〉である。
この坂は、ここを上る時には、胸に膝を突きながら登らなければならないほどの急坂であることから、この名称が付けられている。胸突坂は、右は〈椿山荘〉、左は〈肥後細川庭園〉や〈和敬塾〉に面している階段坂で、約一、二分で昇り切ることができ、たしかに距離は短めではあるものの、かなりの急坂である。
そして、肥後細川庭園や和敬塾を挟んで、胸突坂の隣に走っているのが〈幽霊坂〉である。
右は和敬塾、左は目白台運動公園に面しているこの坂は、胸突坂に比べると、上り切るのに時間を要するのだが、その分、傾度は緩やかになっている。だが、樹々が鬱蒼と生い茂っており、昼でも薄暗く、幽霊でも出そうな雰囲気を醸し出しているため、この名称が付けられているのだろう。たしかに、夜中にこの道を通るとしたら、背後を気にしたくなるように思われる。
その隣に走っているのが〈豊坂〉で、神田川に架かっている〈豊(ゆたか)橋〉や〈豊川稲荷〉に近接しているこの坂の特徴は急カーヴになっている点で、ここは、日本女子大学の施設の間を通り抜けるようになっていて、豊坂を上り切ると、そこに位置しているのが日本女子大学の目白キャンパスである。
その次に確認できるのが〈日無坂〉と〈富士見坂〉である。
前者の〈日無坂〉は細道で、昼でも日が照らないことからこの名が付けられているのだが、この坂の後半は急な階段坂になっている。そして、後者の〈富士見坂〉は、かつて、この坂の上から富士山を見ることができたことから、この名が付けられている。前者の〈日無坂〉は〈富士見坂〉に合流しているのが特徴であり、〈富士見坂〉を上りきった所は、目白通りと不忍通りの合流点になっている。
その隣が〈宿坂通り〉で、この坂を上り切った所にあるのが、〈鬼(ツノなし)子母神〉の裏参道の入り口である。
そして最後が〈のぞき坂〉で、坂を上り切った所に位置しているのが、東京メトロの雑司ヶ谷駅である。ここは、目白台の坂の中でも、いや、東京でも最も有名かもしれない激坂で、すなわち、勾配は最大十三度(二十三パーセント)を誇っている。実は、この坂を上り切るには、徒歩で二分もかからないのだが、この所要時間の短さが、まさに急勾配であることを示唆しているように思われる。
ちなみに、この〈のぞき坂〉に並行して走っているのが明治通りである。
僕は、今回の神田川・目白台訪問の際に、ここまで述べてきた坂全てを上り下りしてみた。
結果、当然の如く――
両腿は疲労でパンパンになり、翌日は、階段の昇降どころか、普通の徒歩さえ難儀する状況になってしまったのだった。
世界規模のパンデミックの感染拡大防止を目的として政府から発令された緊急事態宣言によって、不要不急の場合以外の外出の自粛が求められていた。そしてようやく、五月二十五日をもってして、東京都においても、七週間に渡る宣言はいったん解除された。
この禁足期間に、季節は晩春から初夏へと移り変わっていた。
神田川の川沿いを彩っていた薄紅色の桜の花は、桜色に緑色が混ざった葉桜を経て、完全に深緑色の葉が勢力を誇るようになっていた。また、所々には、薄紫色、赤紫色、青紫色、深紫色といった複雑な色模様を誇る、多様な紫陽花も咲き始めており、この六月を象徴する花々が、季節が梅雨に向かってゆくことを予告していた。
宣言解除直後の五月の末日、少し歩くだけでほんのりと汗ばむような初夏の到来を告げる陽気と、梅雨を先取る曇天の下、僕は、久方ぶりに、東京メトロの江戸川橋に降り立ったのだった。
いわゆる、物語の〈舞台探訪〉には時期も重要だ。
春、桜の時期の場面を追体験するのならば春に、初夏を背景とした場面を追体験するのならば初夏に、といったように、たとえ同じ空間を訪れるとしても、時期にもこだわりたい。
つまるところ、舞台探訪には、時間と空間が一致した、こう言ってよければ、〈時空間〉まで考慮する必要がある、と僕は考えているのだ。
今回の五月末日の神田川訪問には、初夏や梅雨の時期を背景にした物語の舞台のカット回収という目的もあったのだが、実は、もう一つ別の理由もあった。
以前、神田川と目白台の坂を訪れて以来、時間的に十分な余裕をもうけて、新宿区・文京区・豊島区の境界になっている〈目白台の坂〉全てを踏破してみたいと、僕は考えるようになっていたのだ。
この〈目白台〉における〈台〉という土地名が示唆しているように、この地は高台になっている。
新宿区の外縁部、すなわち、神田川付近から、文京区・豊島区の目白台、たとえば、この高台に沿って走っている〈目白通り〉に、徒歩や自転車で向かわんとする場合、もっとも肉体に負担のない方法は、思いつく限りで二通りある。
一つは、江戸川橋から向かう方法である。すなわち、江戸川橋交差点を渡ると、その左手には〈江戸川公園〉への入り口が位置し、そこには二又の道がある。その細道のうち、左の神田川沿いの遊歩道ではなく、右の車道を選択して、この比較的緩やかな〈目白坂〉をのぼってゆくと、左手に〈椿山荘〉が位置している辺りで、目白坂は〈目白通り〉に合流する。
もう一つの方法は、神田川に架かっている〈高戸橋〉から、緩やかな坂道になっている〈明治通り〉を進むという方法で、都電荒川線の線路に沿って、池袋方面に向かってゆくと、〈千登世橋〉へと至る急な階段が見える。それを昇ると、〈目白通り〉に至ることができるのだ。
江戸川橋交差点から明治通りの間は、約三から四キロメートル、すなわち、神田川に沿って徒歩で進む場合には約三十分の距離が横たわっている。
例えば、いったん神田川に沿って歩き始め、途中で目白台方面に向かいたいと望んだとする。そして、比較的楽な方法を用いて、目白台に向かいたいと欲する場合には、まずは、そこそこの距離を歩いて、江戸川橋交差点か、明治通りに行かなければならないのだ。
それでは、江戸川公園と明治通りの約四キロの間に、神田川方面から目白台に向かう方法がないか、といえば、実はそんなことはない。
なるほど確かに、いくつかのルートがあり得る。だがしかし、そのほとんど全てが急勾配の〈激坂〉なのだ。
江戸川橋から椿山荘の間の約一・二キロメートル、徒歩で約十分の間は、通常のルートでは目白台に至る方法はなく、ようやく坂が出現するのが、新目白通り沿いの〈リーガロイヤルホテル東京〉付近、神田川に架かっている〈駒塚橋〉に隣接している〈胸突坂〉である。
この坂は、ここを上る時には、胸に膝を突きながら登らなければならないほどの急坂であることから、この名称が付けられている。胸突坂は、右は〈椿山荘〉、左は〈肥後細川庭園〉や〈和敬塾〉に面している階段坂で、約一、二分で昇り切ることができ、たしかに距離は短めではあるものの、かなりの急坂である。
そして、肥後細川庭園や和敬塾を挟んで、胸突坂の隣に走っているのが〈幽霊坂〉である。
右は和敬塾、左は目白台運動公園に面しているこの坂は、胸突坂に比べると、上り切るのに時間を要するのだが、その分、傾度は緩やかになっている。だが、樹々が鬱蒼と生い茂っており、昼でも薄暗く、幽霊でも出そうな雰囲気を醸し出しているため、この名称が付けられているのだろう。たしかに、夜中にこの道を通るとしたら、背後を気にしたくなるように思われる。
その隣に走っているのが〈豊坂〉で、神田川に架かっている〈豊(ゆたか)橋〉や〈豊川稲荷〉に近接しているこの坂の特徴は急カーヴになっている点で、ここは、日本女子大学の施設の間を通り抜けるようになっていて、豊坂を上り切ると、そこに位置しているのが日本女子大学の目白キャンパスである。
その次に確認できるのが〈日無坂〉と〈富士見坂〉である。
前者の〈日無坂〉は細道で、昼でも日が照らないことからこの名が付けられているのだが、この坂の後半は急な階段坂になっている。そして、後者の〈富士見坂〉は、かつて、この坂の上から富士山を見ることができたことから、この名が付けられている。前者の〈日無坂〉は〈富士見坂〉に合流しているのが特徴であり、〈富士見坂〉を上りきった所は、目白通りと不忍通りの合流点になっている。
その隣が〈宿坂通り〉で、この坂を上り切った所にあるのが、〈鬼(ツノなし)子母神〉の裏参道の入り口である。
そして最後が〈のぞき坂〉で、坂を上り切った所に位置しているのが、東京メトロの雑司ヶ谷駅である。ここは、目白台の坂の中でも、いや、東京でも最も有名かもしれない激坂で、すなわち、勾配は最大十三度(二十三パーセント)を誇っている。実は、この坂を上り切るには、徒歩で二分もかからないのだが、この所要時間の短さが、まさに急勾配であることを示唆しているように思われる。
ちなみに、この〈のぞき坂〉に並行して走っているのが明治通りである。
僕は、今回の神田川・目白台訪問の際に、ここまで述べてきた坂全てを上り下りしてみた。
結果、当然の如く――
両腿は疲労でパンパンになり、翌日は、階段の昇降どころか、普通の徒歩さえ難儀する状況になってしまったのだった。