第75話 刺繡

文字数 679文字

 次の日も、食事以外は、ベッドに横たわってぼんやりと過ごしていた。午後、藍がやって来た。
「見せたいものがあるの。私の部屋に来ない?」
「うん……」
 翔は体を起こす。
 
 
「見て」
 誇らしげに微笑む藍の言葉に顔を上げた翔は、言葉を失った。しばらくの間それを眺めた後、ようやくつぶやく。
「すごい……」
 壁に飾られたタペストリーには、二人が住んでいた洋館が、美しい色合いの刺繍で描かれている。色彩の乏しい部屋の中で、そこだけが華やかだ。
「これ、藍が作ったの?」
「もちろんよ。これは全部クロスステッチっていう方法で刺してあるのよ。デザインから自分で考えたの」

「あの部屋で、ずっとこれをやっていたの?」
「そうよ。思いのほか長くかかっちゃったけど、出来上がったら見せるって約束したでしょう?」
「うん。でも、こんなに大作だとは思わなかった」
 たとえば、ハンカチに花や蝶を刺す程度かと思っていたのだが。藍が、ふふっと笑う。
「ほかにやることがなかったんだもの。一針一針刺しながら、いろいろなことを考えたわ……」

 自分が基樹と過ごしている間、藍はずっと、一人きりでこれを。もう二度と戻ることのない洋館を描きながら、二度と会えない鮎川のことを考えていたのだろうか……。
 そう思いながら、藍の横顔に目をやると、藍が、突然こちらを見て言った。
「ねぇ、翔にも何か作ってあげるわ。何がいい?」
「えっ、いいの?」
「もちろんよ。刺繍するのが楽しくて仕方がないの。もっといろいろ作りたいわ」

 翔は考える。
「そうだなぁ……。空を飛ぶ鳥なんて、出来る?」
 藍がうれしそうに笑った。
「素敵。やってみるわ」
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