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文字数 7,012文字

 よく雨が降るらしいこの町に来るのは、オープンキャンパス以来これが二度目だ。
 前回もそうだったが、今日もまたしっかりしっとり雨模様で、噂に違わぬ湿り気を肌身で感じている。

 雨だから特別気が滅入るだとか、哀しい気分になるだとか、そんなことはない。
 ただ、間を置いて訪れたこの町でしっかり二度も降られたものだから、あぁこれからは傘と気持ち親密に過ごすことになるのだろうか、などと考えたり。
 
 どうせ降るなら、嫌なもの全てきれいさっぱり洗い流してくれればいいのに。
 そんな、途方もなく幼稚なことを考えながら、今この町にいる。
 
 その日、主に父の猛烈な反対を押し切って進学を決めた、地元から遠く離れたよく雨の降るこの町まで遥々やってきた私は、不動産屋の案内のもと、新居となる物件を探し回っていた。
 
 「生憎の雨ですね。」
 
 不動産屋の担当――山下というらしい、どことなくフレッシュなたどたどしさはあるが人当たりのいいOLは、私よりよっぽど降られなれているだろう雨で、二発二中の私よりよっぽどうんざりとした様子でため息をつく。
 
 「こっちはよく降るみたいですね。」
 
 「そうなんですよ~…こっちでは「弁当忘れても傘忘れるな」なんて言ったりするんですよ。」
 
 それとも、そんな格言のある町で暮らすうちに、うんざりするようになるのだろうか。
 彼女のため息はよそに、雨は一向に止みそうな気配もない。
 
 「ところで、本当に行きますか…例の物件」
 
 「…はい。他もよかったんですが、やっぱり予算が少し…せっかくなので家賃が安い方も見ておきたくて…」
 
 「そうですか…そうですよね……はぁ……」
 
 なるほど、どうやら彼女の気が滅入っているのは雨のせいだけではないようだ。
 
 反対を押し切り――結果押し切れたというよりは、話も調わないうちに飛び出した…――地方への進学を決めたので、当然親とはひとつならず悶着があった。
 そのときの父親の口ぶりから察するに、仕送りの類は期待できない。最も、この地方進学にあたって、親からの資金援助は端から期待も想定もしていなかったので、高校時代の余暇を徹底的にバイトに費やして築いた、当面の生活には困らないだけの貯金はある。
 だがそれも、当面は充てにできるというだけで、ただ蛇口を開いたままでいれば、遠からず底を尽きる。学業を疎かにせず自立して生計を立てるにあたって、生活費…特に家賃での節約は目下最重要項目の一つだ。
 よって今、部屋の広さや造りよりも、トイレとバスの別よりも、オートロック…は、年頃の女の一人暮らしなのであるべきだろうし、両親に下宿を納得させる材料となり得る…が、最悪私の場合はなくて何かが起きることもないだろう。適度な生活動線とそこそこの日当たりを確保できれば、あとは寝泊りできるだけの環境があればいい。静かであれば尚いい。
 そう思っていたところに寝耳に水だったのが、今向かっている目的地の物件だ。
 
 十畳一間の築浅女性向け、バストイレ別、洗面所あり、オートロック付き、日当たり良好、スーパーや大学への動線も良好…一人暮らし向けの好条件を軒並みさらったかのような、普通なら手が届かない相場の物件が、近傍類似の物件の家賃の半額程度で貸しに出されているという。ただ一つ他と違うのは、備考欄に記載された「心理的瑕疵あり」の表示。
 
 予め下調べした段階では、この近辺で妙な噂や事故、事件があったという情報は出てこなかったので、この物件に限り何かしら特異性があると思われる。
 要するに「曰くつき」なのだろう。
 詳しく書かれてはいないが、そう表示した上で実際に紹介されているのだから、人が住めないほどの劣悪な環境でもないのだろう。過去にそこで何か起きた…事故物件であればさすがに気が乗らないが、そうでないのであれば“今更”気にすることでもない。
 何より、この好条件をこの家賃で借りれるのであれば、多少の難ぐらい気にするには値しない。
 内見に前向きな姿勢を見せた私に、紹介した山下の方が表情を曇らせてしまったが、私の方はむしろ「曰く」次第ではさらなる家賃の値引き交渉を…などと企んでいた。



 そうこうしているうちに、大通りから数本入った路地を緩く走っていた車が駐車場に着けられる。
 
 「それにしても、お一人で遠路遥々物件探しに…ご立派ですね。」
 
 山下はやはり気乗りしない雰囲気が声色から滲み出ているが、場を和ませようとしてか、途切れず話題を提供してくれる。
 
 「立派なんてことはないですよ。」
 
 「いえ、学生さんは最初は親御さん同伴で来られる方が大半ですよ。寺田さんは…先ほどのお話でも思いましたけど、将来設計?というか、生計についてよくお考えで…すごいな~と思います。」
 
 が、どうにも覚束ないというか、最初に比べ口調がふわふわしてきている。

 円満に下宿を決めた親子であれば、大学進学で下宿を始める子を見送るのに生活費のやりくりについて相談することもあるだろうが、私は最初から独断で地方進学を決め、一人でも生活できる基盤を作ることを念頭に、何年もかけて準備してきたのだ。
 私の地方進学に、両親はいまだに納得していない。親の援助が充てにできないのだから、生計について考えないわけにはいかない。
 結局のところ、これは手の込んだ家出の一環のようなものだ。立派なはずがない。

 建物の外観は、築浅を謳うだけあってくすみなく真新しい雰囲気がある。オートロック設備や内装など、先ほど来見てきたお一人様向けと比べると少々ならず贅沢な部類に感じられ、とは言えその小奇麗さは嫌味っぽくもなく、景観に馴染む親しみやすい風貌をした、見てくれだけは実にいい感じのマンションだ。
 これで十畳一間を2万円台前半とは…よほど中身に問題があるのだろうか。
 
 「ここは何かワケありの物件なんですか?」
 
 聞くと、山下は軽やかでない足取りがさらに重くなったようだ。
 
 「…建物自体は見ての通り、築浅で綺麗で中も充実してて、近所の学生さんやOLさんには大変人気の物件です。空き待ちも出てるくらいで…」
 
 それほど人気の物件の中で、家賃を半額ほどに下げてなお空きの部屋とは。
 
 「ただ今回ご紹介するお部屋は、“曰くつき”と言いますか…」
 
 「はぁ」
 
 先の数軒に比べ非常にのろのろと進み、目的であろう部屋の前に辿り着く。
 
 「…では」
 
 何を意気込んだのか、山下はこちらに一瞥し、分かりやすく震える手で、ガチャガチャとものものしく音を立てながら鍵を開ける。
 この様子から察するに、曰くとは何かしらオカルトなことを言っているのだろう。案内の最中にこの震えようなので、営業職として大丈夫なのだろうかと不安になるが…以前この部屋で怖い目にでも遭ったのだろうか。
 
 「うぅ~…怖いなぁ…」
 
 怖いって言っちゃってるし…
 とは言っても、入らないでいては中の様子もわからないので、すっかり怯えで牛歩の山下に後ろからプレッシャーをかけつつ中に入る。

 「ちなみに、ここはどういった「曰く」が?」
 
 曰くつき物件という割に、よく聞く「空気がどんよりしている」だとか「寒気がする」ということはない。むしろ中身は、チラシに書いてある通りよく日の差しそうな開けた窓と清潔感のある真新しい内観で、部屋としての調子はとても良さそうに思える。

 「実は私が前に担当した方は、退去されるときに錯乱気味で、あまり要領を得なくて…」

 「はぁ…」
 
 「私も詳しくは聞かされていないんですが、入居者が異例の短期間で何人も退去されていて…曰く「出る」と…」
 
 「なるほど。」
 
 部屋は間違いなくいい。
 この部屋が2万円強で借りられるのであれば、多少の難くらいは受け入れられる。ただ出るだけなら“慣れている”ので、なおさらだ。
 
 「今は別に何ともありませんね。」
 
 バシッ
 
 「…」

 言ったそばから、どこからともなく、石が砕けたかのような強烈なラップ音が鳴った。

 「…鳴りましたね。」

 「…あ、あはは。」

 山下の顔が露骨に引きつる。
 次の瞬間、薄暗く空に張った雲に眩い光が走る。

 ズガァン

 雷光とほとんど間をおかず甲高い破裂音が鳴り響いたので、建物のすぐそばに落ちたのだろう。
 雷鳴が轟き、部屋に強烈な光が差した。
 
 そして、それまでそこに居なかったはずの何者かが、人一人分その光を遮った。
 
 「ぎゃああ!!」と、山下が情けなく悲鳴を上げる傍ら、私は突如現れた濃厚な存在感に、つい目を向けてしまった。
 
 そして、“ソレ”と一瞬目が合った。
 
 ボサボサに伸び散らした黒髪、対照的に血の気を感じさせない青白い肌と、所謂「そういうの」にありがちな白い無地のワンピース。現代の怪談に出てくる幽霊のお手本のような格好をした何者かが、そこに立っていた。
 
 「…すっごい近かったですね、今の雷。」
 
 目が合ったことを相手に気取られないように、我ながらわざとらしく雷に意識を逸らした体を装う。
 まだここに住むと決まったわけでもないのに、あんな得体の知れない何者かの変な縁だけもらって帰るわけにはいかない。
 一方の山下は、今の雷で完全に萎縮してしまった様子だ。
 
 「っあ~…びっくりした……ズズッ…一瞬何か出たかと思いました…」
 
 すっかり涙声だが、幸いなことに、これだけはっきりと人の形が前に立っているのに、山下には視えていないようだ。視えていたらきっと、彼女が担当した前入居者同様、彼女も発狂していただろう。
 「曰く」は、ゆっくりと山下の方に歩み寄り、そのフレッシュなスーツがはち切れんばかりに無駄に自己主張している胸部を凝視しだした。
 つくづく、この手合いは何を考えているのかよくわからない振る舞いをするが、“コレ”も例に漏れずその類のようだ。
 
 「う…何か寒気が…」

 視えてはいないようだが、自分に向けられた関心を第六感が感じ取っているのだろうか。山下はブルッと体を震わせた。
 ともあれ、話が早い。出るというのは間違いなく“コレ”のことだろう。
 私もここまでハッキリと存在感を醸す輩はあまり見たことがない。ここまでのモノだと、普段視えない人にも同様に何かしら強烈な違和感を与えているのかもしれない。すぐに退去する人が後を絶たないというのも納得だ。

 ソレに視線を移すと山下を不要に怯えさせてしまうかもしれないので、私も視えていないフリを続ける。
 しかし「曰く」は山下の巨乳に釘付けのようだが…巨乳がよほど気になるのだろうか。

 「心なしか、寒気がしてきたような。」

 思ってもないことを言ってみる。

 「寺田さんも?私も何か…急に体が重くて…寒い…」
 
 山下はすっかり顔が真っ青になってしまっている。その顔色の悪さを見ると、ただよく知りもしない霊障に怯えているだけという風には思えない。あれだけガン見されていれば、やはり何かしら障っているのかもしれない。

 ふと「曰く」の視線が私の方に向く。どうやら私の方に関心を向けたようだが、あくまで視えていないフリをする。

 じっくり見定めるような目つき?…の後に、何か腑に落ちたようにウンウンと頷くような動作をしたのが傍目で見えた。
 意図も意味も不明だが、どうやら私に対して害意を向ける気はないらしい。ぜひ今後もそのままでいてほしいものだ。
 
 ともかく

 「部屋の中はよくわかりました。何か気味悪いですし、とりあえず出ましょうか。」

 「そうね…そうしましょう。」

 パシン

 さっきより気持ち鋭めのラップ音が鳴ったが、今度は山下は声を出すこともできずに硬直してしまった。



 部屋から出て安心して緊張が解けたからか、あるいはビビリ散らしてくたびれたのだろうか…まぁどちらもだろう。山下は内見のほんの数分間で憔悴しきってしまったようだ。別に変なモノは憑いてきていないが、視えてもいないものに怯えてここまでダウナーになるようでは、感受性が強くて生きていて大変そうだ。
 心配すべきところではあるが、私には私の利害があるので、これを利用しない手はない。
 部屋から出て不動産屋の事務所に向かう道すがら、くたびれた山下に一切容赦することなく、私は値下げ交渉を持ちかけていた。
 まぁ実際に出るところを見たわけだし、山下も見ての通り勝手に中てられて憔悴しているし、それをダシに交渉しない手はない。先に話した、私の経済状況も併せてたたみかけた。
 そしてしばらく後、このときの頑張りの甲斐あってか、私はあの部屋をチラシに書いてあった家賃のさらに5000円引きという破格での入居を勝ち取ることとなった。
 
 雨が降る?どうってことない。
 幽霊が出る?慣れっこだ。
 当面の生活拠点、しかも学生の身としてはかなり上等な住まいを破格で取り付けたのだ。
 
 そんなわけで、両親との気まずい空気も忘れるほど満悦に帰宅した私は、同級生が受験戦争で殺伐とするのを傍目に、一人上機嫌にそのまま春を迎えた。
 


 そして引越しの当日。
 
 晴れて――というほど晴れやかにではないが――実家を出て今日から十畳一間(曰くつき)に優雅に住まうことになった私は、何とこの町に来る三度目にしてやはり雨に降られたが、それでも気分だけは晴れやかだった。
 雨の中での家具の搬入が少し不安だったが、さすがはプロといったところか、濡れないようぶつけないよう、器用にこなしてくれる。手馴れた動きで、見ていて思わず感心してしまった。
 一番小規模のパックで引っ越したので、運び入れる荷物自体量もサイズもコンパクトで済んだ。他所を知らないので比べようがないが、感心しているうちに、搬入は思いのほかさっさと終わってしまった。スムーズに終わってよかったと思っていたが…

 バシッ バシッ
 
 さきほどから、明らかに家鳴りとは異なる不自然な破裂音が鳴り続けている。
 ご挨拶なのか、それともお怒りなのか。

 部屋を見渡すまでもない。まっさらな部屋に突如置かれた荷物の周りを、例の「曰く」がふよふよと飛び回っている。
 ハッキリと顔を見たのはこれが初めてだが、そういえばこの「曰く」は私より気持ち体躯は大きいが、若い女性のようだ。相変わらず血色の悪い顔をしているが…それが鳩が豆鉄砲を食らったように驚愕に目を見開きながら、ふよふよと浮遊している。
 なかなか見ない滑稽な情景なので見入っていると、こちらに気付いた「曰く」と目線がかち合い、吸い込まれそうな漆黒の瞳が、揺るぎなく私を見据える。

 「寺田さーん!全部運び終わったんで、確認の方お願いしまーす!」

 「あ、はーい…」
 
 『ねぇ!』
 
 「曰く」が初めて声を発した。
 声とは言ったが、耳に届いたというより、頭の中に直接語りかけるように彼女の呼びかけが響いたように感じた。
 鈴が鳴ったようなりんとした声に、引越し業者は気付いた様子もない。
 
 『今、目が…』
 
 「はい、荷物間違いありませんでした。」
 
 『目…ちょっと…』
 
 「サインはここですね?」
 
 『目合った!目!ねぇ~~!』
 
 「ありがとうございました。」
 
 『……』
 
 取り込み中なので、無視。今は下手に反応して、どうせ一期一会ではあろうが、引越し業者に訝しがられるのも好ましくない。
 業者を見送りに外まで出たが、「曰く」が追ってきている様子はない。前の内見のときにも思ったが、あれだけ「曰く」が関心を示した山下も、部屋を出てからは何の障りも引き摺ってはいなかった。アレはこの部屋を出られないのではないだろうか。
 地縛霊の類か…
 なんだか先ほどの話し声を聞いた感じでは、どうにも山下や不動産屋の前情報ほど恐ろしそうな感じはしないが。
 


 『あ…帰ってきた~…』
 
 「曰く」はやはりふよふよと荷物の周りを飛び回っていた。
 この手合いではたまに見かけるが、自由に宙を飛び回る姿は、それはもうのびのびしていて羨ましい気持ちになることがある。
 
 『もぉ~…はぁー…急にびっくりした、何この荷物~~。』
 
 先ほどと違い、私に向けて話しかけているような感じではない。
 無視してしまったせいか、私と目があったのも気のせいだと自己完結してしまったようだ。
 
 『人の部屋にドカドカと…何か芋臭い女まで居るし…』
 
 「いや、海藻みたいな頭してる奴が、人に芋臭い呼ばわりはないでしょ。」
 
 言うと、「曰く」は飛び跳ねて固まった。
 
 「…」
 
 『…』
 
 このときの私はまだ知る由もなかった。この出会いが岐路だったことを。
 そして、この先起きる数奇な物語を。
 
 『………え?』
 
 恐る恐る振り向いた「曰く」は、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていた。
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