第5話 稲井

文字数 1,263文字

 稲井が乗務後の事務処理を終えて帰路についたのは八時過ぎであった。築二十年の社宅に彼の住まいはある。ドアを開けて「ただいま」と言ったが、誰からも返事はない。真っ暗な玄関は、脱ぎ散らかった靴やごみ袋で埋め尽くされている。
  稲井はコンビニの弁当が入ったビニール袋を床に放り投げると、雪がついたままのダウンジャケットを脱いでフックにかけた。
  妻が家を出ていってから、かれこれ半年近くになる。その内に戻ってくるだろうと高を括っていたが一向にその気配はない。彼女の携帯はつながるが、一度も出てくれたことはなかった。
  綾子がいなくなって一か月間は、どうにかしなければならないという思いが高まることもあった。その度に稲井は、あいつが勝手に出て行ったのに、どうして俺が探さなければならないのかと考えて、行動に移すことはなかったのである。
  居間の明かりもつけず、ソファに腰を下ろした稲井は、シャツの胸ポケットから煙草を取り出してくゆらせた。身を起してストーブのスイッチを入れてから、冷蔵庫の缶ビールを取り出し直接口をつけると、ビニール袋から取り出した揚げ物のたっぷり詰まった弁当を電子レンジに入れた。
  それから再びソファに体を投げ出して深く煙を吐いた。薄暗い部屋では天井に染みついた煙草のヤニも見えない。稲井は、この方が多少不便でも、ものの粗が目立たなくていいと酔いの回った頭で考えた。
  しかし彼の妻はそうではなかった。ある時から彼女は、夫の粗ばかりを探すようになった。それから心の堰が切れたかのように、次々に稲井への不満を挙げ連ねた。稲井は妻が変わったのは、高瀬の親が亡くなってからだったと記憶している。
  綾子と高瀬は幼馴染みで、若い時には交際していたと同僚から聞いていた。結婚に至らなかったのは、それなりの名家である高瀬側の事情であったらしい。そして、彼は今も独身のままだ。
  もしかして綾子は、高瀬のところに身を寄せているのではないか。稲井は、そんな自問自答を数日の間繰り返している。実家に戻っていない綾子が、数ヶ月も一人でやっていけるはずがない。弱い彼女にとって、それは経済的にも精神的にも無理なことだ。彼女が誰かと一緒にいるのは間違いないと思っていた。
  稲井は冷蔵庫からビールをもう一つ出すと、温めが終わって冷め始めた弁当を電子レンジから取り出した。
 おかずの揚げ物をつまみにビールを飲み干してしまったので、戸棚から焼酎を出してストレートで煽る。体調が優れないにも関わらず、生活は荒れる一方だが、少しでも現実を忘れられるならそれでも構わない。
  食べ終えた容器をテーブルに残したまま一服すると、ソファに身を深くうずめて目蓋を下ろした。妻が出て行ってからというもの、そこが稲井の寝床となっていた。満腹感と酔いに任せて寝るにはちょうどいいのだ。ふと明日出くわすかもしれない、あの高校生たちのことが頭をよぎる。稲井は手近にあった毛布をかけると、更に固く目を閉じた。彼らが乗ってこないことを願いながら。
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