第四話

文字数 4,514文字

 高宮奏と出会ったころの由莉は、まだ十六歳ながら芸歴十年以上の人気モデルだった。
 子役モデルをしていた小学校高学年の時、ローティーン向けファッション誌から声がかかって専属モデルになり、同年代の女の子から憧れられる存在になった。中学から芸能科のある学校に入学し、本名の白川(しらかわ)由莉から「由莉」と下の名前だけを芸名にして、本格的にティーンモデルとしての活動をスタートした。
 当時はギャル系が流行りで派手な子が多く、色白で黒髪の由莉は逆に目立った。テレビのバラエティ番組出演を機に男性からの人気も高まり、少年漫画誌などのグラビア依頼も増えた。セクシーなイメージがつかないよう、肌の露出は控えめだったが、巻頭グラビアや表紙に由莉が登場した号は完売が早く、広告やCMの仕事もどんどん増え、いつしか人気モデルとしてもてはやされるようになっていた。

 一方、奏は劇団に所属して俳優をめざしている二十歳の大学生だった。
 身長が百七十八センチと高めでスタイルが良かったため、劇団の先輩から紹介されて通販サイトやチラシなどの単発モデルをしていた。奏は割りの良いアルバイトとしか思っていなかったようだが、由莉の事務所の社長の目に留まり、モデルを本職にしないかと声をかけられた。
 最初は足がかりとしてスカウトに乗ることも考えたようだが、結局彼はデビューするなら俳優でとの理由でモデルの誘いを断った。それなのに、芸能界のことを勉強したいから荷物持ちでも雑用でも何でもするから事務所で働かせてもらえないかと図々しく頼み込み、面白がった社長がアルバイトとして雇ったのである。

「脱いだらそれなりなのに、なんかもっさりしてるのよねえ」
当時、マネージャーとして由莉についていたカオルは、奏を見るたび首をかしげた。
「男性下着の広告写真とか見ると、なかなか良い体してるのよ」
「カオルさんのえっち」
「素材を見るのにヌードほどわかりやすいものはないわ。裸見るのも仕事のうち」
「ふーん。欲求不満なのかと思った」
由莉はからかって笑い、奏のことは特に印象も持たずにすぐ忘れた。

次に見かけた時も、奏は事務所にいた。
 由莉が事務所に顔を出すのは月に数回ほどで、だいたい移動途中に少し寄ったりするだけで、打ち合わせなどは現場や外の飲食店で済ますことの方が多かった。
「カオルさん、あの人ずっとここにいるの?」
「ああ、まだいたのね。雑用しかさせてないみたいだけど」 冷淡な物言いだが、カオルも多忙でのんびり事務所にいる暇などないのだから、社長が気まぐれで雇ったバイト一人のことなど気にかけていられないのだろう。
「野暮用済ましてくるわ。ちょっと待ってて」
 デスクで仕事するカオルは真剣な顔つきをしていた。現場の方が好きとは言うが、事務所の後継者という立場にあることもきちんと考えているようだ。
 由莉はパーテーションで仕切ってある休憩スペースに向かったが、黙々と事務所の掃除をする奏の後ろを通る時、ちょっと気が変わった。
「あの、ちょっといいですか?」
 振り向いた奏は、自分に声をかけたのが人気モデルの由莉だとわかると、驚いた表情で息を飲んだ。それでもまっすぐ目を見て口を開いた。
「なんでしょう?」
 涼しげで綺麗な目だな、と由莉は思った。視線が揺れることなく定まっていて、心の強さを感じた。
「ここに来てから、ずっと雑用ばっかりさせられてますよね?」
「あ、はい。そうですね」
「どうしてだか、わかりますか?」
「え……?」
 無造作な髪型に、ファストブランドで大量に売られているTシャツとパンツ。アクセサリーの類は一つも身に着けていない。
「この事務所はイメージを大切にしてるんです。清潔で無難なだけじゃ、現場に連れていけないと判断されちゃいますよ」
「あ、あの、これじゃ駄目ですか? あんまり高いもの買えなくて」
 奏は少しムッとしたような表情で、見た感じ新しそうなTシャツの裾をつかんだ。
「服の値段のことじゃなくて」
 由莉は生真面目な反応を微笑ましく感じた。
「髪の流れとか、合わせる色とか、ちょっと変えるだけで全然違って見えると思います。もしその気があれば、腕の良い美容師さん紹介しますから一度行ってみませんか? 有名なお店だけど、予約取れるように話しておくので」
「俺なんかが行っていい店なんですか?」
「それは大丈夫。俳優志望の一般の人も、自分磨きにけっこう通ってるみたいですよ」
「でも……素の自分でいる時も、見た目ってそんなに気を使わないとダメなんですかね。本番になればプロがメイクしたり衣装揃えてくれるのに」
「素のままを評価してもらえることなんて、ほとんどないです」
 納得いかなそうな奏の様子に、由莉はダメ出しをした。
「見た目を整えれば、一目見てもらうだけでアピール出来ます。言葉で説明するより説得力もあるし。個性派や悪役の人だって普段から意識的にイメージ作っておしゃれしてるんです。お兄さん、せっかく恵まれた容姿してるんだからもったいないですよ」

「なんか、目からうろこかも」

 奏はつぶやき、由莉に頭を下げた。
「ぜひ紹介して下さい」
「はい、喜んで」
 由莉は私物のバッグを開けて中を探る。それは超有名ブランドが若者向けに出している、比較的安価なラインのものだった。
「お店のショップカード、お渡ししますね」
 紹介状がわりに小さくサインを入れて手渡すと、奏は素直に受け取った。
「ありがとうございます」
 彼はふと、由莉が抱えたバッグの特徴的なロゴに気づいたようで、感嘆の声をもらした。
「由莉さんぐらいになると、普段使いもブランド品なんですね」
「お気に入りなんで、これ持ってるとモチベーション上がるんですよ。三万ぐらいかな、ちょっと高くて迷ったんだけど、どうしても欲しくて」
 由莉がにっこり笑って言うと、奏は眩しそうに由莉を見て、どこかほっとしたような表情をした。

 この時のことを、後に奏は「三万円のバッグを高いと思う金銭感覚が、自分とかけ離れてなくて嬉しかった」と言った。子役からずっと芸能界にいたのだから、ブランド品を値札も見ないで買うぐらいの感覚かと思っていたらしい。
「芸能人だからって湯水のようにお金使う人なんて、今時そんなにいないよ」
「今ならわかる。でもあの時は知らないことの方が多かったから」
 そんな風に素のまま話してくれる奏が好きだった。
 彼は東海地方の出身で、ごく一般的なサラリーマン家庭の次男である。祖父の建てた一戸建てに両親と兄、祖父母の三世代で暮らし、県立高校を出て東京の私大に進学というありふれた経歴だ。
 俳優になった奏が由莉を連れて実家に結婚報告をしに帰った時、家族は皆あたたかく手料理と出前の寿司でもてなしてくれた。芸能人だからと特別扱いされず、普通に息子の妻になる人として迎えてもらえたことが嬉しく、由莉はこんな家庭で育った奏と結婚できて幸せだと思った。
 引退して家庭に入った由莉は、奏のために良妻でありたいと尽くしてきたつもりだ。主婦業だけでなく、いつもきれいでいて欲しいと言われれば、現役のころと同じように手入れを欠かさなかった。仕事の悩みや相談にも真剣に耳をかたむけてきた。それでも、奏との距離が少しずつ広がっていくのを感じる。

 いつの間に、夫は自宅でも「高宮奏」を演じるようになったのだろう――由莉にはそれをどうすることも出来ない。

「私の前では本音を言って」
「言ってるじゃないか」
「昔のあなたはどこ行っちゃったの?」
「垢抜けない男でいた方がよかったわけ?」
「そういうことじゃなくて……」
「俺は初めて会った時と変わらない気持ちで由莉を愛してるよ」
 完璧な夫の顔で言われると、演技かも知れないと疑いながら、真実の言葉だと信じたい自分が、それ以上追及することを拒んでしまう。

「愛してる」
「愛してるよ」

「愛してる?」
「愛してるよ」

「愛してるのに」
「愛してるよ」

 何十回も繰り返してきたやりとりが、由莉を支えもし、傷つけもする。

 奏のプライベートなスマートフォンの暗証番号は、妻の誕生日を逆さにした数字である。最初に浮気を疑った時、由莉は思い悩んだ末それを盗み見て、相手の名前や写真どころか密会のスケジュールまで知ってしまった。夫はドラマで共演した若い女優と、月に数回ホテルで待ち合わせていたのだ。かつての由莉のように清純なイメージで、長い黒髪が印象的な女優だった。

 由莉はショックでどうしたらいいかわからなかった。
 夫とは相思相愛だったはずで、生涯ただ一人のパートナーとして添いとげるものと信じていた。両親の離婚を経験しているだけに、由莉は幸せで温かい家庭を築きたい気持ちが強い。早く子供が欲しいと思いながら、奏が仕事に打ち込みたいなら今あえて無理強いはしたくないと、彼がその気になるのを待つつもりだった。なのに、まさか外で他の女を抱いていたなんて。
 ひとまず表面だけ、どうにか平静を装うので精一杯だった。
 あの時どうして奏に証拠を突きつけて不実をなじらなかったか、悔やむ気持ちはある。だが、浮気相手が自分と似ていたために、同じタイプなら若い方がいいということなのかと動揺してしまった。
 もし問い質したら何と答えられるか、悪い想像ばかり思い浮かび、平穏に過ごすには、黙っていた方がいいのではないかと考えた。なにより、由莉は奏と別れたくなかった。

 ただ、何も知らずにいるのは屈辱に感じたので、気がとがめながらも奏のスマートフォンを盗み見て、密会の直前に連絡を入れて頼みごとをしたり、それとなく邪魔をするようになった。その女優とは数ヶ月で別れたが、すぐに別の相手と浮気しはじめた。
 それからも夫は次から次へと女を変え、しかも妻と似た色白で黒髪の清純タイプばかり選んで不貞行為を繰り返す。よくこうも同じような女ばかり見つけるものだと由莉は半ば呆れ、どうしてなのかと思い悩みながらも、気付かないふりを続けている。

 親友のカオルには、酔った勢いで冗談めかして夫の浮気癖のことを話したが、由莉以上にショックだったようで、自分から奏に忠告したいと言われた。その時も、絶対だめと止めたのは間違いで、思い切ってカオルから言ってもらえばよかったのかもしれない。
 夫との関係を崩したくない気持ちが強過ぎて、核心に触れることが怖くてたまらなかった。
 このままでいいとは思っていないが、今もその気持ちは同じだ。
 奏は由莉に対しては相変わらず「良い夫」でいるから、離婚して若い女のところに行くつもりはないのだろう。それだけが妻の矜持(きょうじ)を保てる唯一の理由だった。

「愛してるのは本当に私?」

 本当に聞きたい言葉は、いつだって胸の奥にしまいっぱなしで、それでも問いかけた時に返ってくる答えは想像できる。

「由莉だけを愛してるよ」

 そしてきっと、情熱的なキスをしかけてくるのだ。

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